episode 40
自分だけの役目
「予定外の干渉があったようですね」
「これもあの『魔女』の一手か」
水槽の中に浮かぶ小さな手がピク、と僅かに跳ね上がる。そこには顔の見えぬ幼い少年がただ一人、静かに浮遊していた。彼の全身には痛々しい程の刺青が掘られており、その姿は呪術を思い出させる。心臓の鼓動は、微動だにしない彼の胸元から響いていた。そことは違う部屋では、大きな鏡の前に飛王と黒のワンピースを着た女性が居る。その二人の脳裏には、次元の魔女と呼ばれる壱原侑子の姿が浮かんでいた。
「しかし、干渉できる値が限られているのはあちらも同じ。たとえ、予測と違うことが起こったとしても、それもまたひとつの『道筋』のうち」
大きな鏡には黒鋼の手によって括られた刀を持ち、俯いている小狼が映っていた。女性の一人は、飛王の持つお猪口に酒を注いでいる。飛王の願いとは何なのか、この場所は何処なのか。一行の知らない所で、謎は深まるばかりである。そんな中ふと呟かれた言葉は、誰に向かうのだろうか。
「そして、こちらにはあれが存る」
それはお前にも言える事だろう、レイノ。
「おはようございます。すみません、遅くなって」
「大丈夫です。今、ちょうどいい感じに焼き上がりましたから」
『おっはよー』
「おはよう」
『黒鋼、ひとりで食べ終わっちゃったー』
「食える時に食う。何があるか分かんねぇからな」
『わー、忍者っぽーい』
「忍者だ!!」
サクラと小狼は一階へと降り、朝食を食べる事になった。台所に居たのはレイノとファイである。フライパンを持って生地を焼くレイノは酷く手馴れている様子だった。小狼はモコナを手の平に乗せて、笑顔で挨拶を交わした。その隣に居る、黒鋼の皿は空になっていて、何だかんだ言いながらもきちんと完食はしてくれるらしい。そんな黒鋼をからかっているのか、素なのかは定かではないが、おそらくモコナは、黒鋼の職業が忍だと言う事を忘れている。思わず吹き出してしまったレイノに、黒鋼は声を張り上げるが、それを無視して小狼と向かい合ったのである。そして、隣で朝食を渡すファイに、小狼は「市役所に行く」と言う事を伝えたのだ。
「ゆっくりで良いよー。サクラちゃん」
「はい。でも、もうちょっとだから」
「頑張るのは良いけど、無理しないでねー?」
喫茶店では、レイノらが洗い物を片付ける行為を頑張っている。しかし、特に良くやってくれているのはサクラだ。その横では小さな身体を駆使して、モコナが皿に付着した水気を拭き取っていた。そんな光景を微笑ましく見つめるわたしはどうやら歳を取ってしまったらしい。
「一緒に旅してるみんなに、わたし、何も出来ないから。出来る事だけでも頑張りたいんです。いつか…少しでも、辛い事を分けてもらえるよう…」
サクラにはレイノが持っている刀などの武器も強さも何もない。だからこそ、毎日楽しく生きようと笑顔を覚えた。少しでも迷惑を掛けない為に周りを良く見る事を覚えた。しかし、そう言った行動を充分に起こすにはまだまだ記憶が足りないのだ。体力が伴わないのである。もしかしたら倒れるんじゃないか。そんなレイノの予感は的中し、サクラの身体はゆっくりと地面に近付いて行ったのだ。
『きゃー!サクラ、危ない!』
「サクラちゃん!」
サクラが倒れて行く光景も、それに飛び付くモコナの動きも、それに慌てる自身が手を伸ばすのも、全てがゆっくりに見える。急に力が抜けたサクラの頭上では先程まで持っていたスポンジから泡が舞っている。そんな中、そんなサクラの背中を大きな手が優しく包み込んだのである。
「…本当に良い子だね、サクラちゃん。他に構ってる暇なんてない筈のオレが、幸せを願ってしまうくらい」
「……毛布、取って来ますね」
「あ、ありがとー」
先程の手の正体はファイのそれで、彼は切なげに笑みを浮かべて一人、意味深な言葉を呟いた。そんな言葉に何も言えないレイノは苦笑を浮かべ、床に散らかった水や泡、スポンジを片付け、立ち上がったのである。あんな顔されちゃあ、何て言えば良いのか分かんなくなっちゃうよ。
『サクラ、どう?』
「大丈夫ー、良く寝てるよ。最近ずっと頑張って、夜以外は起きてたからねぇ」
サクラが倒れてからしばらく経ち、彼女をソファに寝かし付けたファイは先程とは違う、何時もの笑みを浮かべていた。何時も穏やかな表情で眠る彼女は一行の中での「守るべき者」の立場に位置しており、そんなそれを見ていれば、自身の頬も緩んで行くものである。
『ファイ』
「ん?なぁに?」
『ファイ、前におっきな湖があった国で言ってたよね。笑ったり、楽しんだりしたからって誰も小狼を責めないって』
「うん。それがどうかした?」
『ファイの事もね、誰も叱らないよ。レイノも小狼もサクラも黒鋼も、みんな』
「オレ、いっつも楽しいよぅー」
『でも、笑ってても違う事、考えてる』
僅かな静寂がこの場を包んだ今、モコナはファイに声を掛けた。モコナが言うのは何もない、本当に何も無かった湖だけの国での事である。レイノと約束をしたその国は、お互いに特別な思い入れがあるのである。図星を突いたモコナの言葉に、彼は目を見開いた。しかし、すぐに笑みを貼り付けた彼はモコナを手の平に乗せる。だが、再びモコナに図星を突かれ、表情を固まらせたのである。そして、切ない微笑みを浮かべたのだ。
「モコナは本当にすごいなぁ」
『モコナ、108の秘密技のひとつだよ。寂しいひとはね、分かるの。レイノもファイも黒鋼も小狼も、どこか寂しいの』
モコナのその特技は、オレにとっては害かもしれないなあ、なんて、そんな事言ったらモコナは悲しみそうだから言わないけどね。この旅が始まってからと言うものの、寂しい顔を垣間見せない人物は居なかったと思う。その全貌を知っているオレは、それに口を挟む事も全てを教える事も出来ないけれど。そんな事を思っているとは知らず、モコナは「でもね」と言葉を繋げてみせた。
その瞬間にサクラの服とソファの布が擦れる事が微かに響き渡る。ちらり、とその音の方を見れば寝返りをした彼女が頬を緩めて眠っている姿がそこにはあった。あったかい感じが増えたら、なんて事は無理かもしれないけれど、幸せを願うくらいなら、それくらいなら良いよね。
『…ファイ』
「うん?なあに?」
『……レイノを守れるのは、ファイだけだよ』
再びモコナに声を掛けられたファイは、再び笑みをそちらに向けた。そして言われた言葉に、切なげに顔を歪めたのだ。嗚呼、何で、どうして。どうしてこんなに嬉しい、なんて。時たま聞こえる何かがぶつかる様な大きな音に笑みを溢して、オレは頭にレイノちゃんの笑顔を映した。守る、なんて大層な事を言ったけれど、オレは本気で、そうなると良いなあって、そう思うんだよ。そんな時、玄関の扉に取り付けてある鈴が音を鳴らした。
「『いらっしゃいませー』」
扉が開かれた瞬間、家の中には桜の花びらが入って来る。それに気付いたファイとモコナは明るすぎる笑顔を浮かべ、それを来客に向けたのである。けれど、それの顔を見て初めて気付く。片目がないその人には、言い表せない違和感がある。それに気付いたと同時に後ろの扉が開かれ、そこには毛布を持ったレイノが居たのである。
「レイノちゃん!」
「…お客様ですか?」
「やあ」
「……星史郎、さん」
「…知り合い?」
「昔の、知人です」
「知人だなんて冷たいね。かつては一緒にいたのに。『星ちゃん』とは、もう呼んではくれないのかい?」
「何ですかその薄気味悪いあだ名は。わたしの中ではなかった事にしてるんで」
「…本当、冷たい子だ」
嫌な時に来た。そんな気持ちが前面に出ていたのか、レイノちゃんの眉間には皺が生まれていた。どうやら先ほど来店した目の前の男性はレイノちゃんの知り合いらしく、けれど、不快そうに目を細めている。どうやらあまり良くは思っていないみたいだ。そんなレイノちゃんに飛び付いたモコナはレイノちゃんの首筋に身体をうずめた。そしてオレは、もう一度星史郎と呼ばれた男の人と対峙する。
「何になさいますかー?」
「ここに鬼児狩りがいますよね」
「そうですが、今はちょっと外出中ですー」
「貴方達は違うんですか?」
「オレはここで喫茶店やってますー、この子も一緒に」
「それだけの魔力があるのに?」
同じ様な砕けた笑みを貼り付けるファイと星史郎だが、そこからお互いに発されるのは鋭い殺気である。モコナをサクラの枕元へ置いたレイノはサクラに毛布を掛け、二人の殺気に思わず肩を震わせる。見透かす様な星史郎の問いに、ファイの殺気が一際鋭くなった気がした。
「で、『ワンココンビ』に何の御用でしょう?」
他人の事は言えないだろうと、オレは思わず冷たい笑みを貼り付けていたみたいだ。その後に言った話題を変える様な質問に、嫌な気配を感じたのはどうやらオレだけではないらしい。隣に跪くレイノちゃんの表情は厳しいものに変わっている。星史郎さんの笑みと一緒に表れたのは、数匹の鬼児達だ。それはレイノちゃんとオレを囲み、今にも襲い掛かりそうな勢いだった。
「消えてもらおうと思って」
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