episode 52
夜の国
「…何処◎▲」
「Ивит?Брелон」
(ぜんっぜん分からん……)
ファイと黒鋼が言っている言葉も、何か話し掛けて来ているのであろう夜叉のそれもまるっきり分からないのである。どうやらそれはファイも同じ様で、レイノとファイは顔を見合わせては首を傾げた。しかし、黒鋼は少しずつ口数が増えている。夜魔ノ国の言葉が分かるらしい。その事を理解した二人は「任せた」と言う意味を込めて黒鋼の肩をぽん、と叩いた。何か言いたげに拳を握り締めているが、今の状態では何も言えないだろう。
黒鋼が夜叉に話を付けている間、する事がないレイノは何時の間にか変わった周りの風景を見渡していた。彼女らと夜叉族が歩いているのは城下町と呼ばれる場所らしく、そこでは厳しい好奇の視線が振り掛かって来る。何処か居心地の悪いそこを早く通り抜けたいと、そう思っている時だった。右手の指先に、ふと温もりが触れたのだ。
「ファイ、さん?」
戸惑いがちに紡いでみせた言葉に、ファイの肩がぴく、と反応する。どうやら辛うじて名前は通じるらしい。そんな彼は優しげに目を細め、笑みを浮かべていた。何時もとは違う、労わる様なそんなそれに感じたのはわたしだけだろうか。そんなわたしは控えめに、一瞬触れた温もりを自分のものにしようと、彼の手を優しく握ったのである。
「В чем дело?」
けれど、分からない言葉は、酷く貴方を遠く感じさせました。
身振り手振りで何とか夜叉城に招待される事を理解したレイノはファイと黒鋼と共に広い宴会場の様な部屋に案内された。そこには既にたくさんの料理皿が並べられており、美味しそうな匂いで充満している。彩りの良いそれらはキラキラと輝いており、彼女はそれらの一つを手に取り、そっと口に近付けようとした。しかし、その行為はファイの手によって止められてしまうのである。ファイは不安げに眉を下げており、毒が入っているかも知れない事を危惧していた。しかし、彼女はそれを無視して手に持っていたそれを口に運ぶ。その行為には、周りを警戒していた黒鋼までもが目を見開いていた。けれど、嬉しそうに笑みを浮かべて「大丈夫」と手で伝えてやれば、ファイも同じ物を口に含んだのだ。
「Вкусно!」
嬉しそうにそう言うファイに最初は首を傾げたが、それはどうやら「美味しい」と言う意味らしい事をレイノと黒鋼は理解した。表情を見れば何とか理解は出来そうである。そんなファイを見て頬を綻ばせた彼女が居る空間に入って来た夜叉は何かを言っているが、やはり何を言っているのかは黒鋼のみが分かる様だ。夜叉と黒鋼が言葉を交わしている間、彼女とファイは食事に手を伸ばしていた。会話のないそれはすぐに終わってしまい、何処か味気ない。しかし、時折絡まり合う互いの視線は喜びを孕んでいた様に思う。
「疲れた……」
食後に少しだけアルコールを摂取したレイノは湯浴みを勧められた為、浴槽に張られたお湯に身体を浸していた。ちょうど良い温度のそれは凝ってしまった全身を柔らかく解して行く。思わずほう、と息を吐けば、彼女は浴槽の縁に頭を乗せて、天井に顔を向けた。そして、紗羅ノ国に置いて来てしまったサクラと小狼、そして、モコナの事を思い出したのだ。
「任せる」とか言っちゃったけど、そのまま移動しちゃったしなあ。今、どこにいるんだろう。桜都国での黒鋼さんの鍛錬のおかげか、少しは強くなったみたいだから安心はしてるんだけどね。まとめていた髪のひと束がはらり、と頬に垂れ落ちる。それの匂いを嗅ぐと、自然の香りが鼻腔を擽った。その瞬間、レイノは顔の半分を湯船に付けて鼻から泡を出した。そして、勢い良く息を吐き出したのである。
「声、聞きたいなあ……」
用意された絹の着物に着替えて、レイノはファイと黒鋼が居るであろう部屋へと歩を進めていた。足を前にやる度に軽く音を鳴らす木の床は酷く趣がある。未だに水分を含んでいる髪から垂れるそれにピク、と反応を示しながらも彼女は二人が居る部屋の襖を軽く叩いて、静かに開けた。
「た、ただ今帰りましたー……」
「Привет」
「嗚呼×■◎」
(やっぱり通じてないよなあ……)
既に湯浴みを済ませていたファイと黒鋼はこの国の服に着替えており、それぞれがゆったりと寛いでいる状態である。か細く響いたレイノの一言に二人は言葉を返してくれるが、やはり意味は分からない。すると、ファイは近くにあった紙にさらさら、と何かを描き始めた。そして、それを彼女に見せたのだ。黒鋼も一緒に覗き込んだそれにはサクラの羽根が描かれている。
言いたい事が分かったレイノは外に繋がる縁側まで身体を移動させて、空に浮かんでいる城を指差した。ちらり、と様子を見れば笑みを浮かべるファイがそこには居る。先が見えないこの国での暮らしに早くも疲れ果てているのは、きっとわたしだけじゃないはずだ。
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