episode 53
望んだ瞬間
夜魔ノ国に来てどれくらい経っただろうか。感覚を信じれば、おそらく過去最長で滞在している気がする。ゆったりと過ぎ去る時間を、レイノらは外出や鍛錬などに費やしていた。黒鋼はほぼ毎日鍛錬しては食事、と言ったサイクルを繰り返している気がする。そんな中、彼女とファイは城下町へ降りて来ていた。常に賑やかなそこは人々の笑顔で溢れている。その中をただただ歩くだけの二人の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
「……あ」
「Какие?」
城下町を歩いている途中で、レイノの目に留まったのはメンズ用のダイヤモンドチャームである。黒いダイヤモンド、と言う物を初めて見た彼女の瞳は楽しげにキラキラと揺らめいていた。そして、知らない言語で何やら問い掛けて来るファイの言葉を無視して、彼女は店主に人差し指で「一つ」と言う事を伝える。しかし、ファイが割り込んで差し出したダイヤのバチ型簪も買う事になったのである。ぱちくり、と目を見開かせる彼女をよそに、ファイは嬉しそうだった。
日も暮れかかって来た頃合いだ。あれから夜魔ノ国を探索しきったレイノとファイはとある湖の縁に腰掛けた。ぱしゃぱしゃ、と水の弾く音は軽快で、気持ちまで軽くなる様である。それを見つめる彼の首元には、先ほど買ったチャームが月の光によって煌めいている。それは彼女のサイドの髪を止めている簪も同じ事であった。
「…ファイさん」
「Какие?」
「……人の声が聞けないのって、寂しいですね。一人ぼっちになっちゃったみたいです」
この国に来てからと言うものの名前にしか反応しなくなったファイは、まるで子供の様だ。他人の事は言えないんだけどね。湖の水面には泣きそうになってる自分の顔が映っていて、それをファイさんに見せるのは何だか気が引ける。自嘲じみた笑みを浮かべて、わたしは次々と言葉を紡いだ。話してもどうせ分からない、と言うこの現状に甘んじて自身の本音を次々に吐露して行く。夜、一人で寝室に向かう事が寂しい。先の見えない旅路が不安だ。貴方の顔を見るとどうしても声が聞きたくなる、なんて事を、わたしは早口でまくし立てた。
「なんて、通じないから言える事なんですけどね」
この時に言葉が分かってれば、貴方は強く抱き締めてくれましたか。
黒鋼の交渉により月の城へ連れて行ってくれる事になったレイノらは夜叉が用意した服装に着替えていた。彼女は白のリボンで茶色い髪をまとめ上げ、黒色の衿巻ジバンに黒の袴を合わせ、上下の継ぎ目に腰当てを装着している。そして、足元を白の脚絆で覆い隠す。それら全てを覆う様に、黒のマントを羽織れば準備万端である。どうやらファイと黒鋼も準備を終えたらしく、ファイは武器を選んでいる。悩んでいる様子のファイの横に立てば、彼女は背丈よりも長い棒を手に取った。
レイノのその手に気付いたファイは腑に落ちないのか、彼女に向かって首を傾げた。また、そんな彼の様子が腑に落ちない彼女も首を傾げる。そうすれば、奇妙な光景が出来上がるのだ。それを見ている黒鋼は呆れた瞳をこちらに向けていた。どうやらファイさんはわたしが自分の刀を使わない事に疑問を抱いているらしい。
「…良いんです、これで」
「Что?」
「早く、来て下さいね」
ファイの意図に気付いたレイノは手に取った棒を握る手に力を込め、吹っ切れた様な爽やかな笑みを浮かべた。そんな彼女のそれにファイは再び首を傾げたが、そんな反応を無視して、彼女は意味深な言葉と共に笑みを彼に向けたのである。わたしの願いは変わらない。逃げる事は諦めない。けれど、そんな中でも変わる事があるのは、決して悪い事ではないと、ようやく気付けたのだ。意味の分からない夜叉の声が響き渡る。その瞬間、周りの風景が一瞬で変化したのだ。
(すっごい殺気……)
ビリビリ、と肌を刺激するその感覚は、少し前のハンターであった時の日々を思い出させた。そして、紗羅ノ国で感じたそれもどうやら同じものである事を確信したのだ。周りでは両族の雄叫びが響き渡り、耳に悪い金属音や血が噴き出す音で溢れ返っている。どうやらこの戦場での女性は、レイノと相手側のリーダーである阿修羅のみらしい。溢れ返る殺気達とすぐさま駆け出してしまった戦闘狂の黒鋼の姿に思わず冷や汗を掻けば、唐突にレイノに対して向かって来る殺気があった。それに気付いた時には双方の武器同士は交わり合っていたのだ。
「っ……」
後ろで自身の名を呼ぶファイの声が聞こえているが、ギリギリ、と力比べをしている今、そちらに反応している暇は無いのである。て言うか、仮にも女性に全力で力で押して来るこの人は何なの。戦場では性別なんか関係ないんだろうけど、基本的に魔術で戦って来たわたしにとってはこう言う戦い方ってすごい不利なんだよね。思わず歯を食い縛ったわたしは、馬から飛び降りる瞬間を狙って相手の腹に蹴りをお見舞いしてやった。
相手は何かを叫んでいるが、その表情が嘲笑うものであるから少なからず罵りの言葉を与えられているのだろう。内容が分からないだけに悶々とするが、理解したらしたでイライラするんだろうけど。そんな事を思いながらレイノは持っている棒を一度だけ回し、構えてみせた。周りに群がる敵を蹴り破りながら彼女は目の前の相手に向かって行く。ガキン、と響き渡る金属音は、再び彼女に昔を思い出させたのだ。
突きや回転などで相手を押して行くが、彼の武器が遠距離専用の為、相性が悪いのである。なかなか決め手にならない攻撃しか出来ない自分にだんだんと苛立ちが募って来たレイノは、無意識の内に武器に魔力を込めていたらしい。上から振り下ろした棒は地面に亀裂を走らせた。何処からか聞こえる冷やかしの意を込めた口笛に焦って思わず彼の顎を蹴り上げれば、その瞬間、周りの光景は再び夜魔ノ国のものへと変わったのである。
そんな軽い気持ちで始めた戦が半年も続くとは思わなかったんです。
何度この場の地に足を着いただろうか。毎日の様に戦場で暴れる日々にももうそろそろ飽きて来た頃である。まあ、殺してないんだけどね。全部鳩尾を突いて気絶させてるだけなんだけど。黒鋼さんなんか思いっきり血出してるからね。まあ、彼も殺してはいない。何時ものごとく向かって来たお馴染みの相手の名はどうやら「倶摩羅」と言うらしい。何でこうもわたしの所にだけやって来るんだろう。黒鋼さんの所にでも行けば良いのに。そんな気持ちがバレたのか、背中には僅かながらの殺気が突き刺さった。
(ああもう怖い……)
恐らく僅かに怒りを露わにしている黒鋼にびくびくしながらも、レイノは倶摩羅の攻撃を受け止めていた。この半年間、繰り返される倶摩羅との対決や黒鋼の鍛錬などでかなり実戦経験は積めている。少しは強くなれた、と信じたい。次々と鳴らされる金属音にも随分と慣れたものだ。そんな騒がしい中で何故か耳に入って来る音がある。それは一瞬の事ではあったが、彼女の興味を惹くものだった。ちらり、と視線をそちらに向けると、そこには待ち望んでいた人物らの姿があったのだ。
「サクラちゃんと、小狼君…?」
「来たな」
「え…っ、つ、通じて…?」
レイノの視界に映っているのは紛れもない、紗羅ノ国から移動して来たばかりのサクラと小狼、そして、モコナの姿である。一つ上の崖に居るファイの馬に着地すれば、隣では半年振りに聞いた黒鋼の低い声が鼓膜を擽る。言葉が通じる事に目を見開いたレイノだったが、ファイに指差された先に居たモコナの存在により納得出来たのである。
「月が昇りきった。今日の戦いはこれまでだな」
「…次会っても知らねーフリしろよ」
「え、何でですか?」
「…鍛錬だ」
「やっぱり自覚はあるんですね、お師匠様の」
「お前その呼び方いつになったら止めんの?」
夜叉の声が、戦場では良く響くのだ。一人言の様な言葉を耳に入れて、レイノとファイに近付いて来た黒鋼は二人に耳打ちをした。そして、優しいその言葉に二人は思わず笑みを浮かべたのだ。久し振りに聞いた他人の声は酷く穏やかで、彼女らの背にある大きな月がそれを照らしていたのである。
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