episode 55
未遂事故
月が南中する。この戦場が幕を下ろす時間である。その瞬間、夜叉と阿修羅の視線は絡み合った。それに気付いた彼女は、そっと口を開く。しかし、それは土を踏む音に掻き消されるのである。ユラ、と揺らめくこの場の景色は幻想的でずっとこの場にいたいと、そんな実現もしない願いを望むのだ。
「今度はとどめを刺すつもりで来い、ガキ」
先程の馬の蹄の音を操っていたのは、黒鋼だった。その後ろにはファイが笑みを浮かべて軽く会釈をして消えて行く。そんなファイが乗っている馬に乗っているレイノも同じ様な表情を浮かべて小狼に向かって手を振った。そんな彼女を見て、倶摩羅は再び執念の炎を燃やすのである。
「……ファイさん?」
夜魔ノ国に帰ってすぐ、レイノはファイに両腕を握られた。何処か様子のおかしいそんな彼に眉を顰めて名を呼ぶが、答えてくれる声も意味の分からない言葉もない。武器を返したいのだが、彼に両腕を握られているこの状態では叶わない願いである。数秒間、その状態が続いただろうか。目の前の彼は軽く舌打ちを響かせたかと思えば、強引に彼女を引っ張って行ったのである。後ろから呼び掛けて来る黒鋼の声に反応を返せない程、様子のおかしいファイに夢中だったのだろうか。
城内に入ってからも無言で突き進んで行くファイに何度も何度も声を掛けるが、返って来るものは何もない。この人が無視するなんて事早々無いのに。泣きそう。崩れそうになる自身の涙腺を、歯を食い縛って堪え、レイノは目の前を歩く彼にされるがままになっていた。そうして着いた先は彼女の寝室で、勢い良く襖を開けたかと思えば敷いたままにしてあった布団に彼女の身体を投げたのだ。
「ちょっとファイさん!」
「Почтовый ваши губы」
「ねえ、ファイさん待って…っ」
大きな音を立てて投げられたレイノの身体に覆い被さる様にファイの体重が乗り掛かって来る。迫って来る彼の顔に、彼女は思わず彼の肩を掴んだ。けれど、意味の分からない言葉を投げ掛けられるだけで縮まる距離は留まる事を知らないのだ。そんな時、顔の両隣に音を立てて彼の手が置かれたのだ。
「Дай мне перерыв」
そう放たれた言葉はやっぱり良く分からなかったけど、暗く歪んでいるファイさんの顔が「怒っている」と言う事を教えてくれていた。そんなファイさんの表情に思わず目を見開いていたけれど、怪我をした足を押さえ付けられたらわたしは顔を歪めてしまった。血が出ている感覚がして、思わず声を漏らす。そんな行為を繰り返していればわたしの呼吸は既に荒くなっていて、そんなわたしに満足したのか、ファイさんはわたしの肩に顔をうずめて来た。
「ファイさ…っ」
ぱちくり、と瞬きを繰り返していればふと、首筋に生温い感触が触れたのである。驚きで思わず肩を跳ねさせると、そんな反応に笑みを溢したファイの吐息がそこに当たり、口から声が漏れたのだ。酷く顔を赤らめるレイノに思わずくすくす、と笑みを溢した彼は彼女の身体の上から自身の身体を退けたのである。そして近くにあった救急箱をこちらに引き寄せ、治療を施し始めた。そんなタイミングで室内に入って来た黒鋼は違和感の感じる二人の雰囲気に、思わず首を傾げた、と言う。
「…想定範囲外の世界に移動してしまいましたね。飛王・リード」
鏡の中には何時も見える映像がなく、砂嵐が舞うのみである。それを厳しい視線で見つめるしか出来ない「飛王・リード」と呼ばれた男は眉を顰めた。ただただ事実を言っているだけの目の前の女が腹立たしい。その顔がとある人物に酷似している、と言う要因も否めないのである。
「これまで、こちらの思い通りの世界に落とせていたというのに」
「適度に安全な世界に…ですね」
「死なれては、元も子もない」
「けれど、これからはどの世界に落ちるのかコントロール不能です。死に至る可能性もあるでしょう」
「これも、あの魔女の仕業か。――思ったより出番が早くなるかもしれないな」
未だに消えない鏡に映る砂嵐の音を聞く度に自身の中の焦りがどんどん増している気がした。それは全て「魔女」と呼ばれる侑子によるものだと、飛王は予想する。しかし、こんなもので諦めるほど彼の野心は弱くないのだ。計画を阻む者は全て排除する。その為にはある駒が必要なのだ。
「小狼の」
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