episode 65
今のわたし

 眠ったばかりの脳みそを覚醒させて、レイノはゆっくりと上体を起こした。僅かに鼻に付く嫌な臭いに眉を顰め、隣で寝ているファイを起こさない様にそっとカーテンを開くと、そこには綻びが見える。嗚呼、この町に来てから感じていた違和感はやはり間違っていなかったのだ。隣の部屋で寝ている黒鋼さんも気付いていそうだけれど。そんな事を考えていると、背後からはギシ、と言ったスプリング音が聞こえて来たのである。


「朝…?」
「…いいえ、夜明け前ですよ」
「また、眠れないー?」
「……いえ。当たってたな、と思って」
「当たってるって何が…」

 僅かな光で起きてしまったファイは眠たげに目を擦りながらレイノの方に顔を向けた。一瞬だけ絡んだ双方の視線だったが、彼女が顔を逸らした事によりそんな幸せな時間はすぐに終わりを告げたのだ。そして、ぼそり、と呟かれた言葉が空気に溶けると共に扉が叩かれたのである。


「黒様…?」
「……どう言う事だ」
「…落ち着いて下さい」
「答えろ。お前が考えてた事はこう言う事か」
「え、ちょ、話が見えないんだけど」
「魔術が盛んだと言っていたな」
「そうですね」
「…なら、今のこの状況はどう言う事だ」

 先程のノック音を出していたのは黒鋼らしく、彼の表情は酷く暗い。それは寝起きだから、と言う理由だけではないのだろう。そんな彼は、乱暴にもレイノの胸倉を掴み上げたのだ。それに眉一つ動かさない彼女の表情には何も映っていなくて、ファイは余計に状況が掴めなくなる。何処かピリピリ、としたこの空間に寝起きのサクラとモコナ、小狼がぞろぞろと集まって来て、どうやらレイノは観念したのだろう。目を瞑るレイノを前に、黒鋼は窓の向こう側を晒したのである。そこに広がっていたのは「町」として機能してはいない、焼け野原となった「壊れた町」の姿だった。


『何これ……』
「ど、どう言う事ですか……?」
「……昼間、城を見てからずっと感じていた違和感、お前も気付いていたんだろう」
「違和感…?」

 昨日までの活気溢れる城下町は一体何処へ行ってしまったのか。そう呟きたくなる程、サクラとモコナ、そして、小狼は目の前に映る光景を信じられずにいた。そんな中、黒鋼の問い掛けにファイは思わず眉を顰める。先程から一言も言葉を漏らさないレイノは見た事がない姿で、しかし、何故か違和感は感じなかった。その後に断言した黒様の言葉に、オレ達は目を見開く事になる。


「俺達は今までずっと幻を見てたんじゃねーのか」

 それが正解だと言うのは、目を見開いたレイノちゃんが教えてくれていた。


「…相変わらず聡いですね、黒鋼さんは」
「調子悪いお前見てるとイライラすんだよ」
『黒鋼ってば短気ー』
「女の子苛めちゃ駄目なんだー」
「黙っとけやボケボケコンビ!」

 顔に影を作っていたレイノはふと笑みを溢せば、黒鋼に向かって苦笑を向けた。そんな彼女に向かって顔を歪ませた彼は、何時もの調子を取り戻したファイとモコナに茶化す様な言葉を掛けたのだ。それに吼える黒鋼、と言う光景に冷や汗を掻くサクラと小狼は何時もの様子で、レイノは思わず眉を下げた。


「そう言えば、子供が魔物になっちゃったって言うのはー…」
「…多分、何かの拍子に幻が解けたんでしょうね」
「……それって、幼馴染みだって言うフェンリーさんも?」
「会ったの?」
「昼間に郊外で迷ってしまって、その方が案内してくれたんです」
「…その時にね、よろしく、って握手してくれたんだけど…」
『けど?』
「……手がね、冷たかったの。生きてない、みたいな」

 すっかり目が覚めてしまった一行はレイノとファイの部屋に腰を落ち着かせた。そして、話題は昼間出会ったらしいフェンリーの事となったのである。サクラが言った言葉はレイノの心をずくり、と締め付けた。当たり前だ。自分がやった事なのだ。この町の惨状も、懐かしい桜の香りも、フェンリーの手が冷たい理由も、全てわたしの枷だ。分かっていた筈じゃないか。こうなる事も、隠し通せない事も、前に進む為には迷ってる暇なんかない事も。


「モコナ、強い気配はどこからする?」
『…お城』
「奇遇だね」
「その強い気配って…」
「十中八九、サクラちゃんの羽根だろうねぇ」

 とある選択をしたレイノの瞳は酷く強く、真っ直ぐな思いを孕んでいて、それを受けたモコナと小狼はその選択を静かに悟ったのだ。けれど、きっと他の人も気付いているのだろう。この町に入ってから感じている散り散りになった強い気配はきっと町全体に掛けられた幻術が原因なのだと思っている。その考えが合っているのならば、一番違和感を感じるエッゲンベルク城にある筈だと、そう思うのである。


「で、どうすんだ」
「…行きます」
「レイノちゃんはー?」
「え…」
「この国に来てからビクビクしてる様な気がしてたから、嫌なのかなー、ってね」
「行きますよ」

 進む事を決めた小狼に倣って、レイノもファイの問いに笑みを浮かべて肯定の意を示したのだ。そんな彼女は少し変わったのだと、そう思う。悪い意味じゃなくて、もちろん良い意味で、だけど。阪神共和国で聞いた自虐的な言葉は、今の彼女からはきっと出ては来ないのだろう。その事が嬉しくて、けれど少し寂しくて、良く分からなかった。だからオレはただ笑って、いつもの様に君の髪を撫でる事しか出来なかった。

 少しでも君の救いになるなら、それだけで良かったんだ。

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