episode 86
言えない二文字

「貴方が!?」
「予選と本選の途中まで、かな?」
「気付いてらっしゃったんですね」
「主にこの人がー」

 勇気を出して言ったであろう知世の言葉に驚きを見せていたのは小狼とモコナだけであった。レイノとファイ、黒鋼は薄々感付いていた様である。この人らの観察力は侮れない。しかし、レイノとファイがふざけて黒鋼を指差している姿を見ると、ほっとした気持ちになる。相変わらず息は合っている二人である。


「…予選が終わった後、ここに来た時言っただろう。誰がこんなことをしたのか突き止めて、必ず探し出すって」
「ええ」
「ありゃ、本気で言ってる目じゃねぇ」

 黒鋼の脳裏には数日前の知世が居座っていた。他の奴には分からない。あの人を良く知らないと分からない、僅かな違い、そして違和感があった。あの瞬間からずっと気持ち悪かった。昔、良くそれでからかわれた事がある。冗談です、と良く笑われていた。だから分かるのだ。彼女が本気なのか冗談なのか、嘘か本当なのか。こんなに瞬時に分かるまで一緒に居る事になろうとは思ってもみなかったが。


「聞いていた通りですね」
「誰にだ」
「知世姫です」
「あぁ!?」

 睨みを利かせた黒鋼を暫く見つめていると、知世は朗らかな笑顔を浮かべながら知る筈のない女性の名を口にしたのだ。その人物は黒鋼と密接な関わりを持ち、昔から常に突っ掛かっていたのである。今から一年前、「ピッフル・プリンセス社」の発掘グループが、海底から持ち帰ったのが、羽根の形をした不思議なエネルギー体だった。それはピッフル国には存在しない素材で出来ていて、とてつもなく大きな力を持ったもので、それが何なのか、知世の会社の開発陣がどれほど調べても分からなかったのである。
 そしてある日、夢を見たのだ。知世にそっくりな少女、その少女がいる国は日本国と呼ばれ、服装も全く違っており、しかし、名前だけは共通していた。そんな少女があの羽根のこと、別の世界の存在、そして、いつか来るはずの、羽根を探して旅をしている人達のことを全て教えてくれたのである。


「そして、あなた達がいらっしゃいました」
「どうして分かったんですか、おれ達がこの国に着いたことが」

 至って普通に問い掛けた小狼の質問に、知世は笑みを浮かべただけで答えようとはしなかった。そんな空間でふと、彼女との視線が絡み合う。疑惑は持っているはずなのに、わたしの存在の意味を知りたいはずなのに、なぜ何も言えないの、なぜ苦笑を浮かべるしか、出来ないの。そんな罪悪感にまみれたレイノの耳に入って来たのは、やっと聞き慣れて来た笙吾の声だった。
 トレーラー内が紅茶の湯気で包まれて行く。残が発した言葉はそんな空間で話すには似つかわしくない程、暗い内容だった。実は知世が夢を見たのが既にサクラの羽根を発表した後だったのである。発表したのが知世だと言う事もあり、近隣諸国からも注目されていた為、しかも色んな世界にそれを狙っていると言う事実も重なって、そんな簡単にはそれを取り止める事は出来なかったのだ。そこで残が提案したのが、「ドラゴンフライレース」の賞品にしてはどうか、と言うものだった。それは可決されたが、向こうの行動も分からない為、予選、本選と細工を施すと言う事になった。同時にレースの危険性を一行に警戒して貰おうと、笙吾と残が駆り出されたのだ。そう言った事実を聞いては、もう誰も知世を責める事は出来ないだろう。しかし当の本人は、大怪我をしたレイノと黒鋼に視線を送っては頭を下げた。


「…じゃあ、最後の間欠泉は」
「…カイル先生」
「知世ちゃん…」

 ファイと小狼の固い声色に、レイノの身体にも少し力が加わった。数時間前の事だからか、今でもはらわたが煮えくり返りそうである。何故あの場面で、あのタイミングで、あの言葉を言ったのか、その真意が理解不能なのである。そんな無限ループを繰り返していると自然と眉間には皺が寄って行くのだ。ふと、そこにファイの指が触れる。思わず顔を上げて見返すと、ファイは目を細めて笑みを浮かべていた。嗚呼、また悲しませてしまったのか。ファイの手を取ってそれを両手で包み込んでやると、紅茶の柔らかな温もりが伝わって来る。久し振りかも知れない、この感じは。嗚呼もう、幸せだなあ。


「サクラちゃん!目が覚めました?ご気分は?」
「平気。聞いていい?」
「…はい」
「知世ちゃんは、わざとわたし達を勝たせようとしてくれたの?」
「いいえ」

 知世が寝起きのサクラの手を優しく握ると、サクラはその様子を朦朧とした瞳で眺めていた。眺めているのか、焦点が定まっているのかさえ不明だが、サクラはそれを視界に映していた。その様子からは数時間前のレースでトップに躍り出た人物だとは、誰も思わないだろう。
 そんなサクラも、他の仲間もひっくるめて知世は一行を信じていた。あくまで中立的な立場を守りながら、知世はただひたすらに一行が勝つ、と信じていたのだ。それを聞いて安心したのか、サクラは再び夢の世界へと旅立って行ったのだ。その様子を優しく見守る小狼には、きっと気付いていない。


「さてー、サクラちゃんは優勝したし、モコナの秘密技のお陰で羽根も戻ったし、せっかくだからさー、ここで、も一回パーティーしない?」
『モコナ、パーティー大好きー!』
「ケータリング頼もう!美味しいの!」
「いいな」
「いいですね」

 先程までの暗い様な、儚さの混じる空間は、レイノ、ファイとモコナの言葉達により一瞬にして消え失せた。微かだが、黒鋼の顔面にもうっすらと笑みが浮かんでいる。一行のお祭り組の提案に、即座に反応したのは笙吾と残だった。笙吾は自警団のメンバーを呼ぶ為に携帯を触っており、残もまた、レイノが言ったケータリングを頼む為に自分の店に電話を掛けていた。小狼の突っ込みは至極当然の事の様に思える。


「小狼君も今日くらいはどうー?飲酒解禁、って感じで」
『飲もうよー。サクラ初勝利だよー』
「で…でも、まだ姫は眠ってて」
『起きたらサクラも飲むよ!てか、モコナが混入する!』

 小狼にとってお酒は余り良い思い出がなく(寧ろ思い出すらない)、迫られても断るしかないのだ。しかし、それで諦めるファイやモコナではない。ファイは小狼の身体に絡み付き、モコナに至っては犯罪予告をする始末である。それはレイノにも言える事なのだが。何時もなら割って入る黒鋼も、黙って酒を強請っていた。お父さんの許可も出た事だし、良いのではないだろうか。そんな様子を見て、知世は再びサクラの手を優しく握った。そして、笑みを浮かべたのだ。こんな日常が何時までも続きますように、なんて。




「レイノちゃん?なあに作ってるの」
「…酔っちゃったので、少し」
「んー…レモンサイダー?美味しそ」

 少し酔い過ぎたレイノはキッチンでレモンサイダーを作っていた。片腕が折れている中での調理はかなりやりにくい。これは、暫くファイさんかサクラちゃんに手伝って貰わないと無理そうだなあ。六つのレモンを切り分け、炭酸水を入れたグラスに絞ったレモン果汁を入れる。何だろう、少し疲れた。そんな疲労感を表す様に溜め息を吐けば、視界の端にファイの姿が映る。真っ白な肌がアルコールによって仄かに火照っており、少し煽情的である。何時もより幾分かゆっくりになった口調は呂律が回っていない様に聞こえた。気付けば彼の身体は背後に迫っていて、彼の熱い体温が直に伝わって来る。


「っ…ファイ、さん?」
「…ふふ、酔っちゃった、かも」
「…分かりますよ。熱いです」
「ねー、レイノちゃん。オレが病室で言いたかった事、分かるー?」
「…何なんですか、急に」
「言って言って」

 ファイはレイノの腰に手を回し、彼女の耳元でゆっくりと囁いてみせた。何時もは男にしては高い声で黒鋼で遊んでる癖に、こんな所で男だって分かっちゃうなんて。何かもう、この人は本当に狡い男だ。横目で彼を見やっても長めのサイドの金髪しか見えなくて、少し悔しい。悔しいから少し強めに彼の手を握ってやると、ぴく、と反応を示した。あ、可愛い。そんな優越感に浸れるのも一瞬で、彼は唐突に話題を変えて来たのだ。忘れようとしていたのに、何で今ぶり返すかなあ。甘ったるい声色にくらくらする。


「そんなに甘えてると、勘違いしちゃいますよ」
「…君だから、するんだよ」

 わたしは余裕なんだよ、と言う表情を少し浮かべるが、ファイさんは気付いているのだろうか。酔いで気付いていなかったら良いのに。そんな表情も彼の切なげな声色と急に加えられた男の力で一瞬にしてなくなった。今わたし、キッチン側に向いていた筈なんだけどなあ。再び耳元で囁かれた言葉は、彼からは中々聞けない甘えのそれだった。無意識に心臓がきゅん、と疼いて堪らない。もうやだ、そんな声でそんなこと言われたらさ、何にも出来なくなっちゃいますよ。戸惑ったレイノに気付いたのか少しキツめに言われた「手、回して」と言った催促の言葉に、急に男を感じてしまう。仕方ないなあ、なんて自分に言い訳を並べながらも、わたしは片腕を彼の背中にそっと回した。

今だけは、貴方を感じさせていて。

prev next