episode 95
崩れた壁

 目の前にはグルルル、と低く喉を鳴らす守衛機能の内の一匹が居る。図体が大きいそれは両脇の本棚に足を掛けており、レイノらは目の前のそれを倒さないと先には進めない様だ。暫く睨み合った頃だろうか。最前線に立つ小狼の口元からは歯を食い縛る様な力強く、そして、籠った音が聞こえる。その音が合図だったかの様に目の前のそれは、彼女らに向かって炎を吹き出したのだ。彼女はロングスカートをたなびかせては、炎とは違う温かさに包まれていた。


『小狼!』
「大丈夫だ!それより本が…!」

 モコナとは別の方向に飛んで放出された炎を避けた小狼はそれとは真逆の所に位置する本棚の上に着地した。そんな彼が自身の身体よりも先に心配したのは、今もなお炎に包まれている膨大な本達だった。かなりの時間、炎と触れていた筈なのに、それらの表面に傷は一切付いていなかった。


『本は全然こげてないよ!』
「本を守る為の番犬さんだからねぇ。攻撃魔術も本には効かないようにしてあるんだよー」
(何でもありかよ)
「…良かった」
『小狼、ホントに本、好きなんだね!』

 吼える守衛機能によって、周りにある炎はどんどん広がって行く。本の無事は大体予想していたが、実際にその様子を見てしまうと思わず笑いが込み上げる。魔術を使用する自分がして良い反応では決してないが、込み上げて来るものは仕方がないだろう。ファイの解説に安堵の息を吐いた小狼は何時も通りの筈で、しかし、黒鋼は何か言いたげな複雑な表情を浮かべている。黒鋼の脳裏には、一体何が浮かんでいるのだろうか。そんな中で加えられる炎は地獄以外の何ものでもなかった。そして叫ばれた黒鋼の言葉に、モコナは大きく口を開けたが、何時もなら現れる武器が今回は現れる事は無かった。


『駄目!出ないー!』
「武器にも防除魔術有効かー。レイノちゃんも無理?」
「無理です」
「小僧!足!!」
「はい!」

 侑子の魔術でも無理なのだからレイノに出来る訳もないが、念の為にファイはレイノに問い掛けた。しかし、やはり、と言うべきか。幾ら掌に魔力を込めてもそこから武器が出て来る事は無かった。武器がない今、頼るべきは小狼の体術のみである。そう考えた黒鋼は再び声を荒げた。それに反応した小狼が守衛機能の片足に鋭い蹴りを入れる。するとそれはバランスを崩し、レイノらに逃げ道を作ったのだ。


 守衛機能を抜いたと同時に図書館内に耳が痛くなる程の警報が鳴り響く。この中で眠ったままのサクラはどれだけ深い眠りに付いているのだろうか。ひたすら真っ直ぐに進み続けるレイノらの後ろには、別の守衛機能が追跡を始めていた。持っている杖から雷撃を繰り出したそれらは感情を持ち合わせてはいない様で、背を逸らすなどをしてそれを避ける。視界の端に微かな光が見える。外に通じている出口である。僅かな希望が見えた筈だが、そこには元々あった道は無く、荒波が立っていた。後ろからは少しずつ雷撃が近付いて来ている。もう、逃げられない。


「飛び込むぞ」
「駄目だよ」

 思い切った行動に出ようと試みた黒鋼だが、静かに帽子を取ったファイに制止の声を掛けられる。そして、流れる様な動作で荒波の中へ取ったそれを投げやった。するとそれは、波に触れた途端に蒸発したかの様に消えて無くなってしまったのだ。ファイ曰く、この現象も防除魔術と呼ばれるものらしい。そして、掠れた様な口笛を吹く。そんな時に何処からか、先程道を封じていた守衛機能が再び現れたのだ。それを見たレイノは、思わず詠唱を始めようとする。しかし、それもファイに止められてしまったのだ。


「駄目だよ。レイノちゃん」
「けど、このままじゃ…っ」
「魔法、使わせたくないんだ」
「え…?」
「…言うこと聞いてよ、ね?」

 レイノの口元を軽く覆うファイの指はとても綺麗で優しくて、しかしとても冷たかった。その冷たさが、今のこの状況により現実味を帯びさせている。そんな中で囁かれた彼の言葉は必死な様に聞こえて、そんな彼の声を聞いたのは初めてで、彼女は目を見開く事しか出来ない。何時もの軽い笑顔とは違う、痛々しいくらいに歪められたそれはわたしの心臓を掴んでは離してくれなくて。そんな顔されたら、断るなんて、出来ないじゃないですか。諦めた様子の彼女に安心したのか、彼は再び口笛を紡ぎ出す。何時もの声で言うそれじゃない、まるで風の様な旋律。それは複雑な紋様を描き出し、彼女らを包み込むドーム状の空間となった。


「モコナ、次元移動を」
『でも、魔法陣が』
「…モコナ、大丈夫だから。やってみて?」

 ファイの気を感じるこの空間はファイの魔力が充満しており、おそらくレコルト国とは違う次元を作り出しているのだ。確証は無いが、確信ならある。そう感じたレイノの瞳には覇気が宿っており、モコナに次元移動を促すものとなった。勇気を振り絞って羽を広げると、何時もと同じ様に侑子の魔法陣が現れたのだ。それに安堵するモコナだが、レイノと黒鋼、そして小狼は別の事を危惧していた。今まで頑なに使おうとはしなかった魔術を、ファイは今、このタイミングで使用したのだ。こうして崩れた壁は吉と出るか凶と出るか。それを知るのは未来のみである。

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