episode 98
水の重要性
あまりに姿を見せない黒鋼とモコナ、そして、小狼を心配し出したレイノとファイは建物の中に足を踏み入れた。中に進んで行っては聞こえた衝撃音に彼女とファイは顔を見合わせ、駆け足でそれの発信源へと進んで行く。そこでは、二つの集団が武器を向け合い、殺気を絡み合わせていた。そんな様子をなるべく息を潜めて見つめていたレイノとファイだったが、どうやら意味がなかった様だ。視界に入った小狼は先程よりも傷が増えており、早く治療をしなければいけない気がする。心の中に僅かな焦りが孕んだ時、この不思議な空間には「水」と言う、たった一言が嫌に響き渡ったのだ。
「水……」
「…水が、そんなに大事、なんですか。この国では」
「どういうこと?」
「水を盗りに来たんじゃないのか?」
「その割には良くわかってないって感じだね」
「泥棒にしてはぼーっとしてるよ」
「オレ達、ここに着いたばっかりなんですよー」
「どうやって?」
「防雨服はどうした?」
「どこから来たのかな?」
『あのね、あのね』
お互いに話が噛み合わない。一行が探しているものは水ではなく、羽根なのだ。それをこの国の人らは前者だと勘違いしている、と言う事なのだろうか。冷ややかな表情で様々な質問を投げ掛けられるが、何か大きな力がここにある以上この国を出る訳にはいかない。そう言った結論に至ったファイは、何時もの笑顔を貼り付けて会話を始めた。その次に口を開いたのはモコナなのだが、どうやらこの国にはその様な存在は認知されていないらしい。
『モコナ達、すごく遠い所から来たの。この国のこと、全然わからないの。だから泥棒さんじゃないよ』
「何!?この生き物」
『モコナはモコナ!』
「突然変異なの?」
モコナが身振り手振りで必死にこちらについてを話しているが、相手の集団はそれの存在に対して好奇心を向ける者と眉を顰める者に分かれた。そんな中で警戒心を解いていないのがレイノだった。もちろんファイや黒鋼、小狼も解いてはいないのだが。微かに見た今は居ない集団のリーダーの顔が脳裏から離れない。侑子と共に居た時、確かに目にした人物である。気になって仕方がないが、どうやらそんな事を言っている状態ではないらしい。
「それにしちゃ可愛いね」
「それに喋ってる!」
「霞月。不用意に近づくな」
「もー。那托乱暴!」
「…さて、どうするかな。遊人」
「神威は任せるっていってたけど」
興味を示した霞月と呼ばれた幼い少年は後ろに居た那托に持ち上げられ、遊人は側に居た眼鏡の少女から冷たい視線を感じていた。嗚呼、怖い。そんな遊人に対して声を掛けた人物は、桜都国で出会った草薙にそっくりな男性だった。ここの一言で一行の命がどうなるかが決められるのだ。緊迫した空間で、誰かが生唾を飲み込んだ音が響く。しかし、それが誰かなど分かる筈もない。そんな空間で次に響き渡ったのは、聞いた事がない凛とした声だった。
「神威が殺さなかったということは、その必要はないって感じたということでしょう」
その一言が、一行の生命線を蘇らせた。
「地下にあるものを守る為には、手心は一切加えないからな。神威は、ってことは、無理に始末することもねぇな」
「草薙さん」
「表の死体を無駄に増やすこともないでしょう?颯姫ちゃん」
先程、暴れていた少年は神威と言うらしい。表情が変わらない端正な顔は、人に冷たい印象を与えていた。しかし、そんな彼に対して絶対的な信頼を寄せている目の前の集団はどう言った志を持っているのだろうか。僅かに口角を上げてみせた草薙は、どうやら一行を殺すつもりは無い様だ。それは遊人も同じである。そんな二人に説得させられた颯姫は、溜め息を吐くしかないのだ。
「…分かりました」
「決まったな。行っていいぜ」
『この辺りの大きな力、地下からしか感じませんよ』
『ってことは、ここを調べない限り、移動出来ないねぇ』
仕方ない、と言いたげな颯姫の表情は気になるが、殺される事は無い様だ。安心したのも束の間、やはり強大な力の気配は未だ消えない。小狼に聞こえる程度の小声で結論を出したファイはレイノと再び顔を見合わせた。ちらり、と横目で黒鋼を見るが、口を挟む様子は無い。その事を確認したファイは、再び笑みを浮かべた。
「あのー、色々大変な時に申し訳ないんですけどー。あ、この子小狼君って言うんですけど、このままだとちょっとつらいんで、治療っぽいことお願い出来ませんかねー」
「薬がもったいない」
「得体が知れない連中は早急にここから出したほうがいいのでは?」
「でも、泥棒でもないのに撃っちゃったしねぇ。神威が」
「治療という程のことは出来ないかもしれませんが、どうぞ」
「牙暁」
「牙暁が言うならまあ安全なんだろ」
「ありがとうー」
『少しですけど、これで時間は稼げますね』
それぞれと視線を合わせて自己紹介をして行くファイは驚く程に何時も通りで、この空気の中でファイがやってのけた黒鋼弄りも、そして、レイノのそれも何時も通りなのである。「黒鋼だ!」と言う本人の突っ込みも無視して見せ付けた小狼の傷はボウガンの矢が突き刺さったままと言う、痛々しいそれに仕上がっていた。牙暁の一言でここに滞在する事が決まった一行は、安堵した雰囲気に包まれる。そうした雰囲気の中で囁かれたレイノの言葉は嬉しさを孕んでいた。
『はい』
その時の小狼の瞳に残る炎は、未だ純粋だったと思う。
「す…すみません」
「そう思うならやられるな」
都庁の中には大勢の人らで溢れ返っている。そうした人々の瞳には見た事のない集団である一行が映っていて、不信感や不安が露わになっていた。無意識に身を引く者や自身の身内であろう子供を守る者もいる。そんな中を黒鋼に背負われて通る傷だらけの小狼は、かなりの羞恥心を感じていた。
『他にも人、いたんだね』
「このあたりじゃ、ここしかいられないからね」
「攻めて来た奴らはどうした?」
「おっぱらったよ」
「そうか」
「怪我してない?」
「大丈夫だ」
「…信頼、されてるんですね」
「まあ、ここを守る『能力者』みたいなものだからね」
周りの子供らに愛想良く手を振る遊人や颯姫を見て、レイノはぽそり、と呟いた。それに答えた遊人の言葉に颯姫は視線を鋭くさせるが、それで反省する遊人ではなかった様だ。何時も貼り付けた様な笑みと言い、危なげな雰囲気と言い、目の前のこの男はファイに良く似ている。ぱちり、と合った視線は酷く居心地が悪かった。草薙に案内された場所はカーテンで仕切られただけの、簡易医務室である。
案内された場所で、小狼はファイに手当てを受けていた。包帯によって締め付けられる感覚が酷く懐かしい、と思ってしまうのはおかしい事だろうか。そんな小狼の横に、レイノは腰掛ける。すると目の前には、未だ降り続く酸性雨が視界いっぱいに映った。この国では、それが降り続くようになってから15年もの歳月が経っているらしい。それにより、川や池、そして、湖など、地上にある水は飲み水としては使えない。濾過出来る機材がある建物も、それによってまともに動く状態ではなくなってしまった。地面でさえ腐食させるそれにより、近辺にある地下水脈も意味をなさない。だから、この地下にある水が貴重なのだと、都庁の集団は言う。何故か、この都庁とタワーだけが生き残っているのだ。
「じゃあこの国の水は、もう、ここの下とあの人達がいるタワーっていう所の地下にしかないんだー」
「国っていっても、もうこの東京23区あたりしか人がいる所は残ってないだろ」
「まあ、言うなれば、ここは『東京』っていう国かもしれないね」
予想していたよりも酷い惨状のこの国は、今の状態の一行にとっては酷く合っていない様に思えた。何処か遠くを見る様に目を伏せた遊人は酷く儚くて、生きる事に疲れたと、そう言っている様に見える。それは、気のせいなのだろうか。レイノは立ち上がって、柱から手を差し出す。自身の指に僅かに触れた酸性雨は、肌を溶かして行った。けれど、すぐに治ってしまう傷跡は、酷く切なかった。
「…『東京』」
この先に起こる惨状を、まだわたし達は知らないのに。
地下で揺らめく水面には、情けない顔をした神威の顔が映っている。ずっとずっと、何年もの間ここで待っているのに、自身が求めるものは一向にその手には戻らない。しかし、力のない自分には、出来る事は何も無かった。その事が辛くて、情けなくて、そんな自分が大嫌いで、つい溢してしまう本音は誰にも聞かれる事は無い。
「いつまでこうしていればいいんだ……」
そして、惨状の中に隠れる僅かな希望の存在も、わたし達は知らない。
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