夢と現の境界線
「委員長!プールの水抜きが終了したようです!」
ガチャリ、その音は唐突に鳴り響いた。そこから現れたきっちりとリーゼントにセットしている雲雀の部下は、声を張り上げてそう告げる。その声にびく、と肩を跳ねさせた麗は思わず瞬きを繰り返した。その口元にはポッキーがくわえられている。何時見ても何かを口にしている奴だ。
「そう」
「水抜き、って…」
「去年のアレだよ。お前が風邪引いたやつ」
「お、覚えてたんですか……」
「まあ僕ら全く悪くないけどね。君がはしゃいで勝手に水被って勝手に風邪引いただけだから」
「酷くないですか!?」
力いっぱいのその報告も、雲雀にとっては日常だ。たった一言頷いた彼は戸惑いがちな麗を見下ろし、去年の事を思い浮かべてはふ、と鼻で笑ってみせたのだ。そんな彼の態度にぎくり、と肩を跳ねさせた彼女は恐る恐る彼の顔を見上げて行く。そして泣きそうな顔で喚くのだ。
『ほんっと意味分かんない……』
『何が?』
『今日は久々に早く帰れると思ってたのにその直前に呼び出されるし、呼び出されたかと思えば急に雑用させられるし、挙げ句の果てにはあんたが何もしない事ですよ!雲雀先輩!』
『あんた言うな』
『すみません!って、違う!』
あの日も今回の様に急に始まった様に思う。無言でブラシを渡されてGOサインを出された麗は溜めていた不満をブチ撒けた。しかしその当時、雲雀の威圧感に慣れていなかった彼女は彼が命令口調で言葉を紡ぐ度にびくり、と肩を跳ねさせていたのだ。今回こそ、と思っていた筈だが、威圧感満載の彼を見ればしおらしくなってしまうのは仕方のない事だ。
『…君だけじゃないでしょ』
『そりゃ体力おばけ達には朝飯前でしょうよ……』
『君は違うのかい?』
『違いますよ。ただの凡人です』
『凡人はほぼ初対面の僕にビンタ喰らわさないと思うけど』
『うぐ……』
雲雀は大きく溜め息を吐くと、ちらり、と周りのリーゼント集団を一瞥して口を開いた。その後に麗に対しても図星を突かせたのだ。それに言葉を詰まらせた彼女にも自覚はあるらしい。そんな彼女の様子に思わず目を細めた雲雀は、現在プールのスタート台に悠々と鎮座していた。
『ほら、さっさと水出して溜めて。僕も早く帰りたいんだ』
(じゃあ手伝えよ……!)
『…はーい。分かりましたよ』
『伸ばすな』
『ウイッス』
投げ捨てる様に言葉を紡いだ雲雀は組んでいた足を変え、制服のポケットに入っていた携帯でその時の時刻を確認した。一貫して高飛車な態度を取り続ける彼に心の中で突っ込むも届かない事は既に理解済みだ。そんな麗はすっかり綺麗になったプールの底をペタペタ、と音を響かせながら歩く。しかし、その言葉遣いを注意されてしまったのである。なぜだ。
『飽きた』
その言葉にずるっとこけてしまいそうになったのは僕だけじゃないはずだ。
『まだ全然溜まってないんだけど』
『これ自然に溜まるんだから放っておけば良いじゃないですか』
『…溢れるでしょ。誰が止めるの』
『あ、そっか』
(馬鹿だ……)
見ただけで分かる様に、プールの水はまだ十cm程度しか溜まっていない。この深さでは泳ぐ事はおろか、肩まで浸かる事も出来ない。パシャパシャ、と足を動かす麗は心底つまらなさそうに溜まった水を見下ろした。そんな彼女の呆けた発言に冷静に口を挟んだ雲雀は彼女の馬鹿さ加減に心底呆れる事になる。そんな彼の様子に気付かない彼女はふと口角を緩め、今思い付いたかの様に声をあげた。
『水遊びしませんか?』
『……は?』
『どうせプールの授業、出ないんですよね?今楽しんだ方が良いですよ!』
『いや、本当に意味が分からない』
『早く早く!』
『え、いや、ちょ…っ』
『委員長!』
麗のその提案に目を丸くしたのは雲雀だけではなかった。側で聞いていた風紀委員も同じである。そんな困惑状態の彼らを置いてどんどん話を進めてしまう彼女は思ったよりも肝が据わっており、初対面のあのしおらしさは何処に行ったのだとうと思う。そんな彼女が内心では緊張状態だと言う事に気付く者は居るのだろうか。
放り出していた足を掴まれてしまえば、雲雀の身体はそれが当然かの様にプールの中に放り込まれてしまう。悲痛に叫ばれた草壁の言葉など、抑止剤にもならなかった。その直後に響いたパシャ、と言う水音とどすん、と言った重苦しい着地音を聞いたのはほぼ同時だったと思う。恐る恐る下を見下ろすと、そこには不機嫌そうにそこに座る水浸しの雲雀が居た。
『ほら、お揃い』
『日比野、君、殺されたいの……?』
『い、委員長!落ち着いて下さい!後輩!年下ですよ!しかも女子!非戦闘員です!』
『関係ない』
水浸し、と言っても髪だけは無事である。しかし裏を返せば、髪以外は全滅と言う事だ。上半身は着地時の衝撃でしっとりと湿りを帯びており、下半身に至っては水に浸かっている状態だった。この調子では、携帯は動かなくなっているのだろう。この状態でも酷いのに、そこに加えられる麗の言葉と笑みに雲雀の堪忍袋の緒が切れた。それを止める、何時の間にか降りて来ていた草壁だったが、恐らく止まる事は無いのだろう。しかし、そんな雲雀に降り掛かって来たのは冷たい水だったのである。それをやってのけた彼女は笑いを堪える様に目の前で肩を震わせていた。
『っ…あーもうほんとおかしい……!』
『日比野お前殺されるぞ!』
『だ、だって、雲雀先輩って案外、普通なんだなって!』
『それ貶してるよね?褒めてはないよね?』
『褒めてますよ!』
『どこがだよ』
『20%くらいは純粋な善意です』
『ほぼ悪意だろうが』
暫くの間は笑いを堪えていた麗だったが、とある瞬間から、その我慢していたものを取り戻すかの様に涙を浮かべながら笑い出した。彼女のそんな反応に対して、青筋を浮かべた雲雀に気付いた風紀委員はひそ、と彼女に助言をするが、それを聞く様なタマではないのである。そんな彼女が紡ぐ言葉の一つ一つが雲雀の勘に障り、雲雀は側に浮いてあるホースを手に取った。そしてそれを掴む力を強め、そのホース口を彼女に向けたのである。雲雀の予想よりも勢い良く出た水は彼女の顔を覆い尽くし、その身体を倒れさせるまでに至ったのだ。
『…これ、僕のせい?』
『……恐らく』
こんな会話がなされていた事など、わたしは知らないけれど。
(…て言うか去年のアレって全面的に雲雀先輩のせいじゃん……!)
そこまでの記憶を掘り起こして、麗は脳内で思わず突っ込んだ。そう、そうだよ。雲雀先輩の怒りの沸点が低すぎるのが悪いんだよ。せっかくのプールだよ?楽しみたいに決まってんじゃん。そう心の中で思う彼女は、自身が彼を焚き付けた事実をなかった事にしようとしている。そんな彼女は、水がゆっくりと溜まって行く様子を頬杖を付きながらプールサイドから見つめていた。その時、彼女に近付く一つの影がある。その影は、ゆっくりと静かに彼女の背に指を這わせたのだ。
「っ…ひ、雲雀先輩!」
「もう終わりそう?」
「そ、そうですね……もうちょっとです」
「そう」
ぞくぞく、と背を伝う嫌な感覚は初めて感じるものだった。思わず勢い良く後ろを振り返ると、そこには人差し指を立ててきょとん、とこちらを見つめる雲雀が居たのである。そんな彼は先程の行動の弁解もせずに麗の隣に座り込む。困った様に笑みを浮かべては諦めた彼女は優しげな瞳をプールに向けた。この二人が静かになる事を、草壁は知っているのだろうか。いや、この静かな空間を知っているのは二人だけなのだろう。そんな空間を壊す様に、彼が口を開く。
「…すぐに辞めると思ってた」
「え?」
「君が、委員会、続けるとは思ってなかった」
「…酷いですね。そんなに面倒臭がり屋に見えます?」
「だって君、僕の考え方とかやり方に否定的だったろ」
唐突に展開される話題は麗にとっては意味の分からないもので、しかし、この唐突さにも幾分か慣れてしまうと何時もの大きなリアクションもしなくなるのだ。そして苦笑を浮かべた彼女は儚く、消えてしまいそうな双眸をこちらに向けた。時折見せるこの表情や柔い雰囲気が、彼女を時限的なものにしているのだと思うが。そんな雲雀の気持ちなど露知らず、彼女はその儚さを消しては大きく目を見開かせた。
「まあ、そう…ですねえ」
「最初の頃は君の視線がくすぐったかった」
「…最初はね、常識が通じない人だなあって思ってたので苦手だったんです」
「今は?」
「雲雀先輩には雲雀先輩のルールがあったり、優しさを持ち合わせてる事を知ってからは、近付けた気がします」
その後に続いていたらしい「まあ、『群れてるやつは咬み殺す』って言うのは一生理解できないと思いますけどね」と言う言葉は、僕の耳には入って来なかった。この僕を「優しい」と表現するやつに初めて出会ったからだ。今まで日比野に優しくした覚えは無かった。最近は、どうだったか分からないけど。それでも嬉しいと、この僕が思った。夕日に照らされる柔らかな笑みをこの場で見てみたいと、柄にもない事を思ったのだ。だからだろうか、僕は日比野に引っ張られる自分の腕に気付かなかった。気付いたのは、鼻から抜けて行く水泡を見た時だ。
「…去年と一緒かよ」
「一番乗りですよ!冷たい!」
「何で僕まで水浸しになってんの意味分かんない」
「けど気持ちい…」
ぷはっと水中から雲雀が顔を出した時には既に麗は笑みを浮かべていた。そんな彼女を見て、彼は大きく溜め息を吐いたのだ。しかし、嬉しそうに静かに水面を掻く彼女を見れば、諦めてしまうのも仕方がなかった。だがそれを黙っておくのも癪なので、彼は顔に張り付いた前髪を乱雑に掻き上げる。彼女が何か言っていた様な気がするが、放置である。しかし幾ら経ってもその続きの声は聞こえて来ない。ふとそちらに視線を向ければ、そこには呆然とした彼女が浮かんでいた。
「…何?」
雲雀先輩のシンプルな問い掛けで、わたしは我に返った。びっくりした。見とれていた、なんて言える訳がない。普通の男性よりは色白の雲雀先輩は綺麗な顔をしているのだと、いつも曖昧に思っていた。けれど、初めて見る濡れた雲雀先輩があまりに綺麗でびっくりしたのだ。艶のある黒髪と肌を伝う水は夕日の光に反射されてキラキラと輝いていて、少しだけ水を含んだ切れ長の瞳は潤んでいて、そんな目でわたしを見ないで欲しいと、素直にそう思った。
すごく綺麗で幻想的だと、そう思ったのだ。
「…雲雀先輩が優しくなった気がしてるのってわたしだけですか?」
「え?」
「わたしの、自惚れですか?」
雲雀の問い掛けに何も答えずに、麗はプールサイドに手を付き、一足先にプールから出た。制服のスカートからぽた、と垂れる水が何処かいやらしく見えた。彼女は柔らかな笑みを浮かべ、彼に手を差し伸べる。それと同時に問い掛けられた言葉に、彼は一瞬だけ目を見開いた。けれどその表情はすぐに消え、代わりに彼の顔には好戦的な笑みが浮かんでいたのだ。
「…さあ?どうだろうね」