後ろの正面だあれ
「は、歯…?」
「そうだよ」
「歯を、抜かれた、って…すっごい痛い……!」
「……あのさあ、痛いとかそう言うレベルの問題じゃないんだけど」
「だ、だって、歯ですよ!?口の中血だらけじゃないですか!」
「こいつに話した僕が馬鹿だった……」
夏休みが明けてから暫く経ったある日、並盛で事件が立て続けに起こった。「並盛の秩序」と呼ばれる雲雀が警戒しているのにも関わらず、だ。そんな苛立ちが応接室に立ち込めている事を気にも留めない麗はやはり馬鹿である。目の前に座る彼は呆れた様に顔を押さえ、そんな上司を見ては周りで忙しなく動く風紀委員らは思わず苦笑を浮かべていた。
「既に6人の並中生が重傷なんだ。気が立つのも仕方あるまい」
「そ、そうです、よね……すみません、騒いじゃって」
「いや、日比野には慣れない事だもんな。仕方ない」
「北澤さん…!」
「ねえ、何で僕以外にはそんなに素直なの?」
「やきもきします?」
「腹が立つって言うか気持ち悪い」
「グサっと来るんで止めていただけますか!」
苦笑を浮かべていた風紀委員の一人である北澤は優しげな声色を麗へそっと渡す。それに絆されて素直になる彼女を見ていると何故かむかむかして、ヘラヘラと笑う彼女を殴りたくて仕方なくて。けれど、そんな歪んだ気持ちを必死に押し殺して、僕は表情をなくした顔で暴言を吐いた。いつもの苦々しい顔を見せた後輩になぜか嬉しくなった。
その時に笑顔が見たかったなんてそんな欲、今はもう遅いなんて分かってた。
「……あ」
物騒な事件が続いているからか、今日の委員会は早めの解散となった。常に暴言ばかり吐くくせに、行動は全て麗の身を案じているものだから質が悪い。並盛駅までの道中、両耳からは緩やかなピアノの音色が入って来る。何時も並中の校歌ばかりを聴いているあの雲雀から好評だった一曲である。何時の間にか彼女の人生に割り込んで来た彼を想うと、心が柔らかくなる。そんな、少しご機嫌になった時だった。彼女の視界には苦々しい顔をしたハルがこちらを見ていたのである。
「三浦さん、だよね?」
「…何でこんな所にいるんですか」
「帰り道、で…」
正直、京子ちゃんだったら良かったのに、そう思った。わたしは三浦さんと知り合ってからと言うものの、碌にコミュニケーションを取れていない。そもそも初めて声を掛けられた時から三浦さんが喧嘩腰だったものだから、仕方ないのかもしれないけれど。毎回毎回こうも敵意を向けられては呆れてしまうと言うものだ。けれどここで溜め息を吐いてしまえば、きっと目の前の彼女は逆上してしまうだろうから言わない。
「…あなた、どうしていつもビクビクしてるんですか」
「え?」
「その態度がすごく、腹が立つんです」
(すっげえドストレート…)
「あなたがいつまでもそんな態度だから、ハルだって…」
「三浦さん…っ」
けど、いくら嫌われてるからと言っても腹が立つ事は立つし、わたしだって聖人君子じゃない。と言うか、結構遠い存在だと思ってる。けれど、なぜだろうか。どうしたってわたしは、今の三浦さんを怒る気にはなれなかった。すごく辛そうで痛々しい。沢田君への直線的な愛情を注ぐ、真っ直ぐな所があなたの良い所なのに、何かを押し込める様なそんな三浦さんは、見ていてとても辛かった。だからわたしはきっと頭で考える前に身体を動かしてしまったんだと、そう思う。
ハルの後ろに突如現れた黒い影は妖しげな笑みを携えており、麗の背筋に悪寒を走らせた。言い様のないこの感覚は、雲雀が人を殴っている姿を初めて見た時と似ている。ピク、とその影が動きを見せた。その瞬間、麗は自分でも信じられないほど素早くハルの腕を掴み、自身へ引き寄せる。もう片方の空いた手で自身の顔を庇うものの、唐突に訪れた衝撃にそれはビリビリ、と痙攣を起こしていた。
「え…っ」
「っ…逃げて」
「日比野、さ…っ」
「良いから!逃げて!早く!」
ぐ、と思わずくぐもった声を漏らせば、目の前の影の笑みが深まった気がした。ぞくり、とするこの感覚は決して良いものじゃない。生に縋り付く中で感じてはいけないもの、だ。何時もなら感じる事もないのに。嗚呼、きっとずっと雲雀と言う優しさが守ってくれていたのだろう。今は、自身がその優しさとなるのだ。ただ平凡に生きたかっただけなのに、少しでも犠牲者を減らす為に麗は後ろに居る筈のハルに声を荒げた。段々と遠くなる足音に安堵する反面、「誰か助けて」と心から叫びたくなった。
「正義のヒーローですか。素晴らしいですね」
「…何か、ご用でしょうか」
「嫌に冷静ですね。怖くは無いのですか?」
「ビビッてないように、見えますか……?」
「いいえ。今にも逃げ出したいと、そう思ってるように見えますが」
少しずつ陽が傾いて行く。少しずつ影が動いて行く中、麗の目を奪ったのは微かに濁った、群青の瞳だった。それを所々隠す黒に近い蒼い髪は細く、そして繊細だ。けれどそれが彼女にとっては酷く恐ろしいものの様に見えて、少しずつ距離が近付いているのにも関わらず一歩も動く事は出来なかった。左腕の痙攣もちっとも治まってはいない。そして自身の心もきっと読まれている。逃げ場は無かった。次に目を奪われたのは、その服だった。
「…その服、黒曜の…」
「ええ、黒曜中の物です」
「わざわざ、隣町から…」
「あなたもでしょう?」
「え…」
「黒曜町生まれ黒曜町育ちの、日比野麗さん」
オリーブ色の学ランに身を包むその影はうっすらと笑みを浮かべ、細くも骨張った指でそれを撫でてみせた。本当なら、麗が通う筈だった中学の制服だ。黒曜町の治安の悪さに嫌気が刺して、母に無理言って並盛中への進学を決めたが。そんな僅かな回想でさえ、この場に響く言葉はぶつり、と断ってしまうのだ。知らない人に自身の経歴を知られると言うのは、これ程までに恐ろしい事か。
「な、んで、知ってる、の……」
「色々と調べたんです、あなたのこと。ずっと探してましたから」
「な、ぜ…?」
「僕達の獲物の、弱点のようですから」
「じゃく、てん…?」
「それと、個人的に君のような人間は嫌いだ」
クフフ、と独特の笑い声を漏らす目の前の男は、その冷たい瞳に怯えた様子の麗を映す。僅かに弧を描くその瞳は酷く恐ろしく、少しずつ、けれど着実に彼女を追い詰めて行った。怖さから優しさ、落としてから上げる。そう言った事が繰り返される内に、知らない間に彼女は目の前の男の術中に嵌っていたらしい。心底軽蔑した、と言いたげなその瞳は、きっとこれからも彼女の奥底に根付くのだろう。そんな彼女の右腕は力強く握られ、塀に縫い付けられた。ギリギリ、と骨が軋む音がする。
「い…っ」
「なぜ、力のない者が力のある者の側にいれるんです?」
「な、に、いって…」
「だから探していたんです。あなたを消したいと、そう思っていたので」
「けす、って」
「あなたの気にする事ではありません。もうじきその身体は、僕のものになる」
「な…っ」
わざとだと、すぐに気付いた。先程の攻撃で左腕は既に痙攣を起こしており、並大抵の衝撃では感覚を掴み取る事は出来ない。傷付けたい、消したい、そう思っている事は確かなのだろう。そう言った歪んだ感情を向けられた事がないからか、麗の身体の震えが止まる事は無かった。そんな状態の彼女に追い打ちを掛ける様に降り掛かって来たのは白い布だ。最初は息苦しさ、そして、唐突に来る眠気に逆らえる様な気力はもう既に残されてはいなかったのだ。最後に見た赤い瞳以外、もうわたしは考える事は出来なかった。
「見つけた。忌むべき者よ」