その手にないなでしこ
 ゆっくりと痛みが浮かび上がって来る。握り潰される様な、逃げたいのに逃げられないと言った様な、そんな感覚だった。目の前が真っ暗な今が幸せで堪らないのだ。今、目を開けてもきっと絶望やら何やらと言ったものに襲われるだけなのだ。それだけ嫌だった。只の一般人なのだから、痛みも辛い事も大嫌いなのだ。けれど、嫌だ嫌だと駄々を捏ねながらも目を開けてしまうと言う事は、やはり馬鹿みたいにお人好しなのだろう。


「起きましたか?」
「ぐ…っ、ここ、は…」
「あなたの町ですよ、日比野麗さん」
「黒曜…?」
「正解です。思考回路は正常なようですね」

 ふっと目を開ければ、そこには穏やかな笑みを浮かべたブルーブラックの独特な髪形をした少年がこちらの胸倉を掴み上げていた。最悪な寝起きだ。僅かな息苦しさを感じてくぐもった声を出すも、その彼が今の行為を止めるつもりは無いらしい。それどころか、笑みを浮かべてはこちらに威圧感を向けて来るのだ。怯えながらもただ一言、それだけを漏らす麗は寝起きと言う事もあって、現状を理解しきれていなかった。それでも目を細めた瞬間に胸倉から手を放してくれたのでまだマシであろう。


「っ…あなた、何がしたいんですか……?」
「…何、とは?」
「…殺されると、思っていた、ので」
「まさか。殺したら意味がないじゃないですか」
「え…?」
「覚えていませんか?弱点、そう言った事を。あなたには利用価値がある。それだけです」

 喉に手を添えてけほけほ、と軽く咳き込みながら、麗は涙目で少年を見上げる。そんな彼女を一瞥した後、彼はこてん、と小さく首を傾げた。所々に無邪気な一面を見せる彼は酷く巧妙だ。しかし痛みを与えられ、睡眠薬を嗅がせられた今、そんな一面を素だと認め、信じる事は出来なかった。そして、それは正解だと彼女は悟る。こんな凡人の何処に利用価値があるのかは不明だが、人間相手にこうも簡単に「利用価値がある」と言ってしまえるこの男は、彼女にとっては恐怖の対象だった。
 また、この一言にはもう一つの意味が隠されている事が分かるのだ。それは、この少年は何時でも麗を殺す事が出来ると言う事である。その「利用価値」が失われれば、彼女の居場所は無くなるのだろう。その事にはもちろん気付いているし、彼もその事にすら気付いているのだ。そう思うと、輪郭にそって冷や汗が垂れて行く。その冷えを感じた事は無かったが、そのあと唐突に響いた砂埃の音によって急激に感じる事となるのだ。


「な、何でここに…?」
「おや、知り合いでしたか」
(最近姿を見ないと思ってたけど…何で黒曜にいるの……?)
「彼には素晴らしい能力がありましてね。その為に付いて来て貰ったんです」
「付いて来て、貰った…?」

 そこに居たのは随分と見慣れてしまった巨大な本を抱えているフゥ太だった。普通ならば沢田の家に居る筈の人物だ。何より彼は、並盛で沢田に出会ってから並盛より外には極力出ていないのではないだろうか。黒曜町なんぞ、来た事がない筈だ。そんな様々な疑問が行き交う中で囁かれる少年の言葉には違和感しか感じなかった。こんな小さな子供が、知らない人に付いて行く訳がない。そう言う事は沢田やその母がきちんと躾けているだろう。


「フゥ太君が、あなたに…?」
「ええ」
「っ…ありえ、ない」
「…と、言うと?」
「ふ、フゥ太君には、大切な人がいっぱい、いるんです。それらを捨てて、行くはずが…!」
「だが、現にいる」

 震える身体に鞭打っても、心の底から感じる恐怖に打ち勝つ事は出来なくて、その震える声色を隠す事は出来なかった。けれどどうにかして伝えた言葉達も、少年の嫌に力んだ声によって一蹴されてしまうのである。再び感じるその威圧感に思わず生唾を飲み込む。しかし、未だに浮かんでいる意味深な笑みに不気味さを感じる他、術は無いのだ。


「まあ一つ言うと、少しだけ手を加えたのは確かですね」
「え…?」
「言ったでしょう。素晴らしい能力がある、と」

 その不気味さはどうやら麗の予想通りだったらしい。こう言う時ほど当たる予感は本当にどうにかならないものか。彼女に言い聞かせる様に再び繰り返される少年の言葉はゆっくりと現実味を帯びて来る。それはじんわり、と染み渡る様に悪寒を広がらせ、その凄惨さに彼女は思わずはくはく、と口の開閉を繰り返したのだ。


「まさ、か…あなた…」
「やはり頭の回転の速さは平凡のようですね」
「この子にも、あなたの言う、『利用価値』を…?」
「ええ」
「っ…さ、いてい……!」
「最低、ですか。良い響きですね」

 全てとも言わずとも、この少年が人を人と思っていない事は理解した。僅かな良心でもあれば、きっとこんな事は出来ない筈なのだ。こんな小さな子供に「利用価値」を見出すだなんて、今まで築き上げて来た常識からすれば有り得ない事だった。ふ、と頬を緩ませる少年に初めて反抗の意を見せた麗は、後ろに居るフゥ太の顔を見ようと両手で顔を包み込んだ。


「フゥ太君、フゥ太君!しっかりして、お願い……!」
「効きませんよ、この子の意識は奥深くにあります」
「っ…フゥ太く…っ」

 何度も何度も呼び掛けてはフゥ太の顔を覗き込む。そこには空虚が広がる瞳しか存在してはいなくて、麗の中に絶望が広がった。その感情は、その後に続く少年の言葉でより増幅する事になる。それでも諦められなくて、彼女は再びフゥ太と向き合う。しかしその時に訪れたのは温もりでも何でもない、鋭い程の刃物だった。


「フゥ太、くん…?」
「マインドコントロールをご存知ですか?」
「せ、んのう…」
「正解です」
「っ…あなた、何がしたいの……!?」
「あなたじゃありません」
「え…?」

 こんな事をする子だとは思っていない。刃物を突き付けられ、頬に傷を作ってしまった今でもだ。けど、驚く程に光のないその瞳は只の人の言葉では晴らす事は出来ないのではないか、とそう思う。そんな思いに苛まれる中、麗の背後にまで迫った少年は彼女の耳元でそっと囁いた。その言葉で、彼女はフゥ太が洗脳されてここまで「付いて来て」しまった事を悟る。思わずフゥ太を抱き締めて声を荒げるが、その問いの答えとは言い難いものが返って来たのだ。その少年は「骸です」と、それだけを呟く。


「六道骸、それが僕の名前です」

 右目に浮かぶ「六」の文字が、嫌に奇妙だった。




「…草壁」
「はい」
「日比野からの連絡、来てない?」
「いえ、何も来ていませんが…」
「……そう」

 並盛中の生徒の歯が抜かれる、と言う事件が数件続いて数日が経った。雲雀が並盛町の風紀を正す立場に就いてからと言うもののこんな凄惨な事件が起こる事は無かった。その為か、応接室内は何時も以上に緊張感が漂っている。そんな中で響き渡る雲雀の声は何時もよりも硬く聞こえ、それを受け取った草壁も何処か肩の力を抜き切れていなかった。


「…委員長の方にも来ていないんですか?」
「うん。体調が悪そうだった様子とかあった?」
「いえ……俺が見るからに、いつも通りでしたが…」
「そう……」
(…まさかあいつ、また変な事に首突っ込んだんじゃ…)

 控えめ、と言った様に雲雀に問い掛ける草壁は雲雀のピリピリとした雰囲気に圧されているだけでなく、居場所が掴めない麗の事を案じている様にも見えた。しかしそれは雲雀も同じの様で、仕事の傍ら、何時まで経っても姿を見せない彼女の居場所を考えていたのである。そんな、何処か静寂に包まれた空間に、バタバタ、と騒がしい音が近付いて来る。その音は応接室に吸い込まれ、けたたましい音を立てながら扉を開けたのだ。


「雲雀恭弥!」
「…誰?」
「麗、見てない!?」
「…君、日比野の友達の…」

 嫌に忙しなく現れたのは麗が何時も「親友だ」と言い張る茉莉だった。茉莉は何処か青ざめた顔のまま応接室に飛び込んで来て、一目散に雲雀の机を叩き付けたのだ。「麗」と聞いて初めて麗の親友だと言う事に気付いた彼は暫く黙った後、「知らない」と、ただそれだけを告げた。そして、学校に来てるか否かを問い掛けたのである。しかしその後に告げられた言葉は、彼の予想を遥かに上回るものだったのだ。


「麗、昨日の夜から帰ってないの」


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