甘美に味わう恐怖心
「…委員長、少し休まれて下さい」
「さっき休んだ」
「ですが…」

 ふわり、と紅茶独特のフローラルな香りが鼻腔を擽る。しかし、それを楽しむ程の余裕は、今の雲雀は持ち合わせていなかった。気遣う様な草壁の言葉さえ一蹴し、雲雀は机の上に広がる資料を凝視している。その横に置かれている携帯を時折視界に入れるが、恨めしそうに見つめるだけだ。珍しく食い下がらない草壁に舌打ちをし、雲雀は用意された紅茶に口を付ける。その味は酷く甘かった。


「…あの女は帰った?」
「はい。町の方を探してみる、と」
「…そう」

 雲雀の言う「あの女」とは茉莉の事だ。彼女が居なければ、雲雀は未だに麗の不在を知る事は出来なかっただろう。悔しいと思う反面、感謝はしているのだ。しかしその悔しさから名を呼ぶ事は憚れている。その茉莉は現在、並盛町の中を走り回っているらしい。何時も冷静らしい茉莉はそこにはおらず、酷く焦っていた様に感じる。そして、胸倉を掴まれたのも初めてな気がするのだ。




『…いないってどう言うこと』
『こっちが聞きたいわよ。ちゃんと帰したんでしょうね?』
『昨日は早めに帰した』
『じゃあ何でいないの?』

 日比野の隣を奪ってしまった僕を、この女(橘、だった気がする)はいつも恨めしそうに見ていた事には気付いていた。だから橘のこの口調にも納得できた。まあ、イラつかない、と言うと嘘になるんだけど。橘のこの喋り方を聞いてたら、日比野が言ってた「茉莉は優しい」と言う言葉を信じれなくなるのも時間の問題だろう。僕を責め立てる様な橘の言葉に、僕はいよいよ何も話せなくなった。


『…好きなら中途半端に優しくしないでくれる?』
『は…っ』
『あの子に何かあったら、許さないから』

 視界の端では草壁があわあわ、と焦っているけど、正直邪魔なだけだった。しばらく続くこの静かな空間は居心地が悪くて、僕の眉間には無意識に皺が寄っている。そんな時、そこに響いたのは抑揚のない橘の声だった。僕が答えようとすると、橘は僕の机を大きな音を立てて叩き、僕の胸倉を掴み上げる。そして絞り出す様に言われた言葉に、僕は柄にもなく目を見開いた。
 草壁に「町を探して来る」とだけ伝えた橘は颯爽と姿を消して行く。その時に見えたキラキラと反射してるものは涙だったんだろうか。泣いて、いたんだろうか。それが本当なのかはもう分からないけど、そこで初めて僕は舌打ちを響かせた。


『……ほんと、胸クソ悪いね』





「委員長、日比野の親御さんが来るとの連絡が」
「…良いよ、通して」

 そっと目を開けると、タイミングを計った様に風紀委員が連絡事項を口にする。それを大して考えもせずに答えると、室内にはカリカリ、と言ったペンを走らせる音だけが響いた。この空間はこんなにも静かだっただろうか。麗が居た時は彼女が何時も何かを話していたものだから、その自覚は無かったが。それだけ、彼女が居る日常に慣れてしまった、と言う事か。


「…して、これからのご予定は?」
「日比野の母親と話した後、ここを出る」
「連れは?」
「いらない」

 言い訳をするつもりは無い。それだけの事、責任を放棄した事も分かっている。だからこそ、何時までもここに引き籠ってもいられないのだ。何の為に毎日、面倒臭い見回りを続けていると思ってるんだ。雲雀の中には不良の溜まり場や見付かりにくい場所などがちゃんと頭にインプットされている。麗と並盛の秩序を取り戻す、それらが今回の目的だ。それに、これらは彼がやらなければいけない気がしてならないのだ。


「僕の大事な後輩(こ)だからね」

 それに、小動物に泣かれるのは性に合わない。




 ガチャガチャ、とうるさい程の金属音が鳴り響くのは薄暗い、何処か気味が悪い一室だ。外れる事は無いと分かってはいるけれど、何かをしていないとどうにかなってしまいそうなのだ。こんな所、あの男に見られてしまえばどうなるか分からない。しかし、そう言う時に限って予想は当たってしまうのだ。


「…何やってるんですか、あなた」
「……あ"」

 心底呆れました、と言いたげに伏せられた目をこちらに向けているその男は、麗の背に静かに立っている。その男の名は骸である。切れ長のその双眸から覗く赤と青は酷く冷たい。思わず声を漏らしてしまった彼女に、彼は本当に溜め息を吐いたのだ。ぱっと顔を俯かせる彼女は居心地悪そうに、足を正す。その時に響いたシャラ、と言う金属音は何処かいやらしい響きがあった。


「あなた、馬鹿だとか抜けてるだとか良く言われません?」
「な、何で分かるんですか……」
「分からない方は頭が湧いてるんじゃないですか」
「……あ、あの」
「何です?」
「わたし、いつまでここにいるんですか……?」
「そうですねえ……目的が達成されるまで、ですかね」
「目的…?」
「ええ。今日はその為にあなたに会いに来たんですよ」

 その場に腰を下ろした骸は心底馬鹿にした瞳を麗に向け、分かりきっている事を再度問い掛ける。それに驚いた様にこちらを睨み付ける彼女はやはり頭が少し弱いようだ。この数日間、適度にここを訪れる彼は優しいのか性根が腐っているのか良く分からない。優しげな笑みに騙されてはいけないと思うが、ただ暴力の為だけにこんな騒ぎを起こしている訳ではなさそうだ。
 骸は目元を細め、すらり、と伸びた指先を麗に近付けて行く。その手で掴まれた肩からはギリ、と骨が軋む音が響き、彼女の顔が歪む。痛い、と言っても力を弱めてくれない事はこの数日間で理解した。けれど、身体を弄(まさぐ)るその手の動きに彼女の背筋には悪寒が走り、一年前のある日にシャマルに襲われかけた事を思い出させる。やだ、と駄々を捏ねてもあの日の様に助けてくれる人物はここには居ないのだ。その事実が怖くて、寂しくて、情けなくて仕方がなかった。そんな時、彼女のスカートのポケットに入っていた重みが消えたのだ。それに気付いた時には既に遅く、重みの正体である携帯は骸の手の中に収められていた。


「『並盛の秩序』の連絡先はどれですか?」
「え…?」
「知ってますよね」
「な、何をする気、ですか……?」
「ここに招待するんです」
「な、んで…?」
「それが僕の目的の一つでもあるからです」
「っ…だ、め」
「……ほう?」
「だめ、やめて、おねがい!いやだ、よばないで!」
「良い声をしますねえ、あなた。けれど、少し黙っていて貰えますか」

 それが当然かの様に携帯のロックを外してしまった骸は、一体何時から麗の存在を認知していたのだろうか。それに気付ける程の余裕は、今の彼女にはないのだが。それでもここに雲雀を呼ばせてはいけない事くらいは分かっている。彼女は衝動のままに声を張り上げた。しかし、手足を手錠で拘束されている為、骸に縋り付く事も出来ないのだ。そんな彼女の様子に目を細めるも骸は彼女の口を手の平で覆い隠し、探し当てた雲雀の携帯にコールを鳴らす。それが途切れた瞬間、彼女の耳に届いたのは聞いた事もない様な雲雀の焦った声だったのだ。


『っ…日比野?』
(ひ、雲雀、せんぱい…)
『ねえ、聞いてるの?』
「聞いていますよ、雲雀恭弥君」
『…だれ』
「新しい並盛の秩序、とでも言っておきましょうか」
『…ふざけてるの?』
「いいえ、これっぽっちも。僕は常に真面目ですよ」

 骸が携帯のスクリーンのとある場所をタップすれば、この空間には懐かしい、と思える程の雲雀の声が響き渡った。思わず泣きそうになるけれど、喉を鳴らしてそれを我慢する。そうしている内に雲雀の声に答えた骸の顔には、楽しげな笑みが浮かび上がっていた。そんな骸が麗の口から手を放す事は無い。そして、再びスクリーンをタップすると、骸はそれを耳に押し当てた。その瞬間、彼女は声を荒げようと必死になるので鼻を押さえ込む。ああ、うるさいですね。


『…何もしてないだろうね』
「それは君がこちらに来れば分かる事です」
『……そう』
「物分かりが早くて助かります。君の大事なこの子は頭が弱いようで、酷く腹立たしい」
『…性根が腐ってるようで安心したよ』

 たった一言、それを告げた雲雀は骸の返事も聞かずに通話を切った。耳元に残るブツッと言った電波の切れる音やツー、ツー、と言った音に楽しくなってしまうのは骸だけなのだろう。未だに目の前で騒いでいる麗を視界に入れては、骸はその場から立ち上がる。そして、その後に続いた彼女の言葉を受けて笑みを深くするのだ。


「何であんなこと言うんですか!」
「あんなこと、とは?」
「っ…雲雀せんぱいを、さそう、ための」
「ようやく分かったんですか。頭と身体が弱い人間はこれだから困る」
「…何が、言いたいんですか……?」
「……僕はね、あなたの様な、弱いくせに人を庇う様な、偽善者が死ぬほど嫌いなんですよ」

 もう一度この子の前に座り込んだ僕は、強めに彼女の頬を掴んだ。先程、泣きそうだったのを必死に我慢していた事は知っている。そのせいで潤んだ瞳には、確かに恐怖が映っていた。今まで怖い思いなどせず、甘やかされて育てられて来たんでしょう。弱者は弱者らしく平和な場所でいれば良いものを、弱いくせになぜ人を庇うのか。その心理が、僕には理解できなかった。僕の言葉に大きく目を見開いた彼女の鳩尾にグリ、とつま先を喰い込ませる。すると、目の前の彼女は咳き込んで身体を折り曲げた。ああ、弱い。何も出来ないくせに、死ぬ様な思いなどした事がないくせに、素晴らしいほどの偽善だ。

 恐怖で滲んだその顔が好きだと言ったらあなたはまた泣くんでしょうね、日比野麗。


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