鬱怒の先にあるものとは
「骸さーん、ただ今帰りましたよー」

 軽い口調で紡がれる言葉が静寂に吸い取られる。どうやらこの少年が言う「骸」は、この空間には居ない様だ。きょろきょろ、と周りを忙しなく見渡しても骸が視界に入る事は無い。その代わりに聞こえる音は(最近は幾分か小さくなった)金属音だ。またか、と言いたげに深く溜め息を吐き、少年はそれが大きくなる方へと歩を進める。カシャン、と鈴の様に鳴り響くそれは鎖が波打つ事によるものらしい。少年は思わず眉を顰め、その音を響かせている人物の背後に近付き、その耳に顔を寄せたのだ。


「あんた、何やってんの?」
「ひ…っじ、城島、くん…い、いつ帰って…」
「今」
「さ、さいですか……」

 唐突に響く金属音以外の音に肩を跳ねさせるのは麗だ。恐る恐る、と言った様子で後ろに目をやると、そこには心底呆れた、と言った様子の犬が居る。骸などと言った身内には名を体現した様な振る舞いをするのだが、彼女に対しては別だった。人を見下した様なその冷たい瞳が、彼女にとっては恐怖の対象なのだ。しかし、ビクビク、と肩を震わせながらも浮かべている引き攣った笑みは、彼女なりの反抗の意を示している。


「あんたも諦め悪ィねー?日比野」
「っ…だ、駄目、ですか」
「駄目じゃねェけど、まだ希望とか持ってんの?」
「え…」
「あんたがここに来てから…んー、一週間くらい?誰も来ねーじゃん?」

 最近呼ばれる様になった苗字は自分のものではない様な、そんな感覚がした。友人に向ける様な軽快な口調も、麗にとってはただただ恐怖なだけだ。雲雀の様に強くなどない。風紀委員会に入ってからも誰かを力任せに圧した事などないし、出来ないのだ。だからきっと、こんな状況になっても小さな子一人も助け出す事が出来ない。この場から逃げ出すなんて、もっての外だ。なのに誰も来ない事に少なからずショックを受けているわたしに存在する価値などあるのだろうか。


「……べつ、に、来てほしく、ない…ので」
「何で?」
「っ…こんな、汚くて危ないとこ…っ」

 紡ぎかけた言葉は限りなく本心だった。けれど、犬の手によって唐突に首を掴まれて、それが言ってはいけない事なのだと知る。ぐぐ、と強まって行く手の力には、彼の怒りが含まれていた。首輪がなかった事が不幸中の幸いだったのかも知れない。けれど息苦しさには変わりがなかった。しかし、そんな空間に響くもう一つの声によって麗は助けられる事になる。


「犬」
「…んあ?柿ピーじゃん。いたんら」
「……手、放してあげれば?」

 「柿ピー」と呼ばれたその少年は白い帽子と眼鏡、黒曜中の制服を身に纏っている。左の頬にはバーコードのタトゥーが彫られていた。ぼそり、と小さく呟かれる言葉は麗を救い出す意味を孕んでいたが、当の彼はそんな事を考えて告げた訳ではないのだろう。犬は不服そうに眉を顰めながらもしぶしぶ、と言った様子で彼女の首から手を放した。その時の開放感と共に出る咳はやっと訪れた酸素を喜んで吸い取っている。


「目当てが来るまでは手を出すなって言われてるでしょ、骸様に」
「うぐっ…だってムカつくんらよこいつ!」
「人質がいなくなっちゃ意味ないでしょ。冷静になりなよ」
「柿ピーが冷静すぎるんだびょん!根暗か!」
「めんどい……」

 時折ひゅ、と息を詰まらせる麗の横では、犬と千種が何やら口論を繰り広げている。ヘルシーランドに拉致されてから度々見る様になったこの光景も何度目だろうか。犬の声量が大きすぎるのか、一人で喋っている様にも見えるが。千種の口癖である一言でこれは締められるが、彼女は何時の間にか千種の背後に逃げ込んでいる。


「あ"っ!お前何隠れてるびょん!」
「柿本君の方がまだ、マシ、だから」
「っ…お前ほんっとムカつく!骸さんが嫌う理由も分かるびょん」
「ちょっと犬、冷静になれってさっき言ったばっか…」
「柿ピーうっせェ!お前何でスズメだかアヒルだかの側にいんの?こいつが弱点な訳ねーびょん!」

 そんな麗の行動に気付いた犬は再び声を荒げるが、彼女は相変わらずそんな彼に肩を震わせるばかりである。しかし、その後に続いた彼の言葉に思わず目を見開く彼女の姿がそこにはあった。度々間に入る千種の言葉など視界に入れず、犬は次々と罵倒の言葉を紡いで行く。そうして気が済んだのか、犬が居なくなったこの空間は酷く静かだった。ちらり、と千種が後ろに居る彼女を見下ろすと、彼女は現実を見据えたかの様に暗い瞳を持っていた。そしてぼそり、と呟いた言葉に、確かに絶望を感じたのだ。


「……知らないよ、そんなの」




 平日を迎えるこの世界は相変わらず、会社や学校と忙しない。そんな中、ここ並盛では未だにピリピリとした空気に包まれている。その空気を発しているのは主に風紀委員会だ。また、それに感化されて町民らも酷く怯えた様子だった。朝の並盛中学の正門前には学ランを着込んだ風紀委員らが見回りと評して立っている。それだけでも恐ろしいが、この町を守ってくれているのを分かっているので何も言えない。
 麗が居なくなって約一週間、手掛かりは全く見当たらない。早くに帰した事が仇となった、と何度思っただろうか。数日前に会った彼女の母は泣いていた。お願いします、と深く頭を下げられた。一発は殴られると思っていたのにも関わらず、だ。なのに手掛かりは一つも見付からない。どうなってるんだ、一体。思わず溜め息を吐きたくなったその時、雲雀の耳には聞いた事のある声が入って来た。沢田綱吉、だったか。それに気付いた雲雀の足は無意識にそちらに向いていたのだ。


「ちがうよ」
「ヒバリさん!!」
「ちゃおっス」
「いや…ボクは通学してるだけでして…」
「身に覚えのないイタズラだよ……もちろんふりかかる火の粉は、元から絶つけどね」
「やっぱヒバリさんこえーっ」

 沢田の横には、それが当たり前かの様にリボーンも居た。口角をピクリ、とも動かさないリボーンは気味が悪い。その気味の悪さは赤ん坊の姿とは酷くミスマッチだった。青い顔をしてこの場から逃げようとしている沢田には怯えがしっかりと見て取れた。嗚呼、情けない。思わず目を伏せると、何かに気付いたのかリボーンは雲雀の肩に乗り、口を開く。


「ヒバリお前、顔色悪くねーか?」
「……そんな事ないよ」
「クマもあんぞ」
「…君達さ、この一週間で日比野、見た?」
「え…み、見てないです……」
「連絡は」
「来てない…よな?リボーン」
「ああ、来てねーぞ」
「……そう」
「あ、あの、何か…っ」

 元々肌が白い雲雀は、体調が悪いとすぐに分かってしまうのだ。青白くなっている顔色や堀が深くなっている様に見える目元がその証拠である。それを指摘されて思わず黙りこくった雲雀はそれには答えず、目の前の二人に問いを投げ掛けた。まあ、答えは薄々分かっていたから期待はしていなかったが。
 目の前に居る沢田が何かを言い掛けたその時、雲雀の着信音がその場に響き渡る。ちなみに並盛中学の校歌だ。その事実に衝撃を受けた沢田はやっとの事でその場を去ろうとするが、再び投げ掛けられた言葉に瞬きを繰り返す。


「笹川了平…やられたよ」

 その言葉は沢田の身体に衝撃を走らせるには充分なものだった。その瞬間に浮かび上がったのは何時も元気に「極限!」と叫んでいる笹川の姿である。そんな男がやられた、など想像出来ないのが本音だった。しかし、沢田の身に降り掛かったのはこれだけではない。「ツナさん!」と聞き慣れた声を耳に入れたかと思えば、その視界には唐突にハルが現れたのだ。


「ハル!?お前、何でここに…学校は?」
「っ…ど、どうしましょう!」
「はい!?」
「っ…は、はる、どう…っどうしたら…!」
「ほ、本当にどうした?」
「ハル、一旦落ち着け。お前、何か知ってんのか?」

 この蝕む暑さの中、全力疾走でもして来たのだろうか。すっきりと纏められたハルの額や首筋にはしっとりと汗が滲んでいた。それにも気にも留めずに沢田に掴み掛かる彼女は何時もと様子が違う。ただテンションが高いだけではない、何処か焦りを感じた。そんな彼女に違和感を感じた沢田とリボーンは彼女の顔を覗き込む。その側では雲雀が鋭い眼光をそちらに向けていた。しかしその目は、次の言葉によって大きく見開かれる事になる。


「っ…日比野さんが、消えちゃったんです!」
「……どう言うこと?」
「だ、誰かに襲われそうになった所をあの人が、逃がしてくれたんです。けど、気になって、戻ったら、っ…い、いなくて」
「い、いないってどう言う事だよ?」
「それが分かんないんです!は、はるが、あの場所を離れた、から…っど、どうしよう……!」
「ハル…」

 嗚呼、嫌な予感が的中した。何度も何度も想像して、さすがにそれは無いだろう、と何度も何度も脳内から消し去った考えだ。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでとは思うまい。思わず溜め息を吐きたくなる気持ちを抑え込み、雲雀は眉を顰める。その後に泣き喚く女にもう用は無い。そうやって気を静めても僕の足は何かに急かされる様に止まりはしなかった。その事に気付いているのは、きっと赤ん坊だけだろうね。


「っ…あの馬鹿!」




 山奥にそびえ立つ黒曜ヘルシーランド、そこは数年前に訪れた台風によって今の様な風貌に変貌してしまっている。外壁はボロボロで、中にある骨組みが剥き出しだ。薄い窓ガラスが一面に広がっている地帯では、至る所にガラスの破片が散らばっている。その周りには黒曜中の生徒が群がっており、どうやらここは生徒らの隠れ家の様な存在らしい。
 しかし、その数がどれだけ多くても雲雀は負ける気がしなかった。スローモーションの様に見える、武器を振り翳すその姿は素人同然だ。鼻や頬、鳩尾を殴ってやれば一瞬にして動きを止める。時たまトンファーや頬に付着する汚い血が煩わしいが、仕方ない。


 ぺろり、と乾いた唇を舐め、再び歩を進める。時折聞こえるパリ、と言ったガラスが割れる音ももう気にならなくなった。唐突に現れた男の一撃をひらり、と躱し、その腹にトンファーを埋め込む。そして思い切り放物線を描いてやれば、その男はガラスを割ってとある空間にだらしなく四肢を広げた。そこには一つ、ソファに悠々と座る人影がある。


「やあ」
「よくきましたね」
「面白い宣戦布告をしてくれたね。君がイタズラの主導者?」
「そんなところですかね。そして、君の街の新しい秩序」
「ねぼけてるの?並盛に二つ秩序はいらない」
「まったく同感です。僕がなるから君はいらない。そしてもう一つ言うと、寝ぼけているのはこの女でしょう?」

 お互いの口調は酷く柔らかく、初めて会うとは思えない程に軽快だった。しかし、そんな二人の間に走るのは鋭い敵意と緊張感である。それは、人影が麗を掴み上げた事により一層激しくなるばかりだ。ギリ、と響く歯を食い縛る音は、雲雀のものでないと説明が付かない。怪我は掠り傷程度、どうやら眠らされている様だ。


「…『それ』から手を離して」
「…それ、とは、随分な言い草ですね。まるで君のものみたいだ」
「少なくとも君のものではないよね」
「けれど、今は僕の手の内にある」
「だからさっさとそいつにねちっこく触るその手を離せって言ってんの」
「心外ですねえ……あなたの言う通り、大きな怪我はさせていないと言うのに」
「その触れる手が気に喰わないんだよ」
「それはどうしてですか?この子があなたの弱点だからですか?あなたの大切なものだからですか?」

 無事である事から生まれる安堵と未だに触れる事が出来ない苛立ちが、雲雀の心を支配した。その思い達は目の前の人影が言葉を紡ぐ度に増幅している、その事を嫌になるほど自覚した。一度電話越しに聞いた声色は、酷く雲雀の神経を逆なでするのだ。しかしそれは全て図星であり、それを認める事は癪なのである。ふと笑みを浮かべたのであろう人影はソファに背を凭れさせ、とある言葉を口にした。


「…ああ失礼、どちらも同じ意味でしたね」

 そう、全てを見透かされている様で酷く気持ちが悪いのだ。


「…おちょくってるの?」
「いいえ。けど、今この場でこの子に傷を付けたら、あなたは我を忘れるんですかねえ?」
「…止めろ」
「今この場でこの子を犯したらどうなるんでしょう?」
「…黙れ」
「今まで傷一つ付けずに守って来たこの子が、見ず知らずの男に触れられる所を見て、あなたは何を思うんでしょうね。侮辱?屈辱?絶望?」

 この場で優勢となっているのは人影の方だと見れば分かるだろう。声色は柔らかく、言葉は問い掛けの形を取っているが、それらは雲雀に選択肢を与えている訳ではなかった。ゆっくりと紡がれる言葉達は雲雀に、その様子を想像させん、としている様だ。そんな考えが浮かんでしまう事すら雲雀にとっては屈辱的だった。
 何を言ってる、と一蹴すれば良い話なのに、ただ顔を歪める事しか出来ない。まさか心の奥底では、そんな事を思っているとでも言うのか。日比野の身体を求めてる、とでも言いたいのか。そんな訳ない、と否定したい気持ちは山々だけど、その言葉は口から出なかった。それどころか、それを肯定している様な言葉しか出なかったんだ。


「それとも…羨望、ですかねえ」
「…もう良い、何も喋るな」

 にやり、と言いたげに口角を歪めた目の前の人影が殺したいほど憎らしい。さっさと日比野を取り返して帰りたい。そんな事を思って自分の欲を消そうとするけれど、そんな努力も空しく、人影の言葉に、一瞬我を失いかけた。何とか理性を保った僕は持っていたトンファーから仕込みの棘を出す。そして呟いた言葉を聞いた人影が笑った気がした。


「君はここで、咬み殺す」


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