ふれかけたももいろ
「座ったまま死にたいの?」
「面白いことを言いますね。立つ必要がないから座ってるんですよ」
ビュビュッと言った激しく風を切る音が響き渡る。その音を響かせているのは雲雀だ。多数の棘が現れたトンファーは少し掠っただけでも痛そうである。それを振り回す彼は確かに恐怖の対象である筈なのに、目の前の人影はピクリ、とも動かない。それどころか、頬杖を付いて悠々と腰を落ち着けているのだ。それに苛立たない人物は居ないだろう。
「君とはもう、口をきかない」
「どーぞお好きに。ただ、今喋っとかないと、二度と口がきけなくなりますよ」
眉を顰め、不機嫌な様子を隠しもしない雲雀とは対照的に、目の前の人影は依然として笑みを隠す事はしなかった。それに再び苛立ちを感じるも、同時にぞく、と言った悪寒も感じたのだ。白い肌にそっと垂れる汗はきっと夏の暑さだけではない。嫌な予感や危機感と言った、そんな感覚だ。
「んー?汗がふきだしていますが、どうかなさいました?」
「黙れ」
「せっかく心配してあげてるのに。ほら、しっかりしてくださいよ」
その汗を指摘する目の前の人影はわざとらしい口調で言葉を投げ掛ける。それが気に障って仕方がないのだ。けれどただ一言しか返す事が出来ないと言うのは負けを認めている様なものなのではないかと、そう思う。それでも汗は止まらない。それどころか、ふらつきさえ起こるのだ。嗚呼、これは何だ。そんな苛立ちから、雲雀は思わず目の前の人影を睨み付けた。しかしそれも何の障害にさえなり得ないのだ。
「海外からとりよせてみたんです。本当に苦手なんですね」
楽しげに言葉を紡いだ目の前の人影は何処からかボタンを取り出し、それを押す。カチッと響く音と共にその場に広がったのは麗しい程のももいろだった。こんな真夏にそれが咲く筈がない。しかし花独特の匂いも、舞い散る花びらも、正真正銘の「桜」なのである。それを視界に入れた瞬間、雲雀の身体は何かに押さえ付けられた様にピクリとも動かなくなったのだ。
「っ…だ、め」
「…おや、起きたんですね。日比野麗」
「あなたが…した事でしょう。六道、さん」
「いいえ、あなたが弱いからですよ。少し、黙っていてもらえますか…っ」
ぐ、と布を掴む音が微かに響く。細くなった琥珀色の瞳を前に向け、震える身体を必死に動かそうとする麗の姿は、雲雀が最も見たくなかったものだった。こうならない為に柄にもない事をずっと続けて来たと言うのに―――いや、まだ遅くないのかも知れない。歪んだ笑みと拳に襲われかけている彼女はこれから訪れるであろう痛みを享受せん、と目を瞑っている。酷く苛立った。そんな雲雀はギリ、と歯を食い縛り、その衝撃を受け止める為に彼女と骸の間に割って入ったのだ。
「……おや」
「っ…ひ、ばり、せんぱい…」
「まだ守りますか、その女を」
「ぐ…っ関係、ないだろ」
「ええ、関係ないですね。けど、気になります。この弱者のどこに惹かれるのか…どうすれば分かりますかね。殺せば良いですか?それとも―――生き地獄を、味わわせるべきですかね?」
「っ…止めろ!」
ギリギリ、と鉄パイプとトンファーがせめぎ合い、骸が先へ進む事を許さない。麗程までとは行かないが、彼も僅かながら驚きを隠せないでいる様である。しかし上空に桜がある以上、雲雀が本来の力を出す事は無い。それに気付いた彼女は、はっと瞳を大きく見開かせた。その間にも二人の攻防は続いており、それが頂点に達したのか、雲雀は後ろに居る彼女を肘で突き飛ばして再び骸の攻撃を受け止めたのである。
そこからは激しい金属音とすすり泣く様な泣き言しか聞こえなかった。しかしその音も次第に一方的なものとなり、地面には桜の花びらと痛々しい血液が広がっている。骸が持っていた筈の鉄パイプもそこに転がっており、彼は専ら自身の身体を使って相手を痛めつけようとしていた。それを見つめて泣く事しか出来ない少女に、もう存在価値は残っていないのだろう。
嗚呼、雲雀さん、雲雀先輩。わたしが、わたしがいなければ良かったのに。わたしがいなかったら守る、だなんて慣れない事、させずに済んだのに。わたしにもっと力があれば、少しでも助けになれたのかもしれないのに。そんな後悔ばかりが頭を巡るけれど、わたしの身体はピクリとも動かない。嗚呼、何て情けない。馬鹿で間抜けで愚かで、ここにいる事が恥ずかしい。そんな事を思っていた時、一番激しい打撃音がここの空気を震わせた。何かに気付いた様に声を出した六道さんはぐっ、と何かを掴み上げる。
「なぜ桜に弱いことを知っているのか?って顔ですね。さて、なぜでしょう」
それは雲雀の髪だった。無理矢理顔を上げられた彼のそれは酷く痛々しい出来に仕上がっており、元々の肌が白いからか、そこに広がる赤が余計に映えて見える。頬や目元は打撲痕でいっぱいで、口からは細く赤い線が垂れていた。切られた耳たぶからは、ぷっくりとした血液が膨らんでいる。こんな彼を見るのは初めてだった。何時も何時も堂々とした振る舞いで、それに見合う強さを持っていた。それなのに何時もの迷いのない強さは何処にもない。膝を付くその姿は、酷く儚げに見えた。しかしその瞳の鋭さだけは確かに彼を体現していたのだ。
「おや?もしかして、桜さえなければと思ってますか?―――それは勘違いですよ。君レベルの男は何人も見てきたし、幾度も葬ってきた。地獄のような場所でね」
今まで雲雀と目線を合わせていた骸は、唐突に立ち上がっては雲雀を見下ろした。その余裕しゃくしゃく、と言った笑みは雲雀を見下している事を意味しているのだろうか。その右目の「六」の文字が嫌に頭に残る。それさえも嫌悪として感じてしまう雲雀はこの男に並々ならぬ屈辱を感じていた。―――それなのに、まだこの男はあいつにふれるのか。
「それとも、地獄のような光景を見たいですか?」
「なに、を…」
「協力してくれませんか?日比野麗」
「ぐ…っ」
その後に続いた言葉が放たれたかと思えば、骸は側に居た麗に近付き、彼女の首に装着されている首輪をこちらに引き寄せる。その時の問い掛けもきっと彼女に拒否権は無かったのだろう。だからこそ彼の足は彼女の鳩尾に埋め込まれていたのである。そうして響き渡る咳き込む音は、地面に這いつくばる彼女の口から放たれていた。
「っま、て…っ」
「してくれますよね?あなた、これくらいしか価値がないんですから」
「っ…や、め…」
「ほら、誘惑して下さい。あなたの大切な『雲雀先輩』を守る為でしょう?」
「っ…う、あ…っ」
麗の身体をソファに押し付けると、彼女は震えた声で制止の言葉を述べ、潤んだ瞳でこちらを見つめた。嗚呼、やはり間違いではなかった。この女の恐怖を感じるその姿は酷く加虐心をそそるのだ。彼女の胸元を飾っているリボンの紐に指を引っ掛け、少し力を加える。すると、細いそれはブチッと言う音を響かせて床に落ちた。これで守る物は無くなった。ボロボロ、と零れ落ちる彼女の涙は大粒のそれで、それを見る度にぞくぞく、と言った何かが背筋を上る。やはりこの女には痛々しい傷がお似合いだ。そう思った骸は落ちていた鉄パイプを再び手に取り、彼女へ振り翳す。それを振り翳した瞬間に見えた影は彼女のものではなかった。
「ひ、ばり、せんぱ…?」
「っ…い、つまでも、泣いてるんじゃ…っ」
「っ雲雀先輩!」
「…あなたの、この女への執着心は素晴らしいですね」
「ナメないでくれる……?君には分からない、だろうけど」
「っも、もう、喋らないでください!しんじゃう……!」
「馬鹿言わないでよ。死なない、よ」
「だって、血…っ」
ぎゅう、と久し振りに感じた温もりはそれの血と共に訪れた。数瞬前に聞こえたゴッ、と言う痛々しい打撃音はきっと夢ではない。だって、こんなにも血が、溢れているんだから。それでも喋る事を止めない雲雀先輩は馬鹿なんじゃないかと思う。頭から、口からも血を流して、わたしなんかを守る為に身体を張って、ボロボロになったその顔に綺麗な笑みを携えて―――それが嬉しくて泣いてしまうわたしは、もっと馬鹿なんだろうけど。
「…興が覚めました、消えてください。犬」
「あーいよ」
「雲雀先輩!やだ、おねが…っまって……!」
「…ほんっとお前、残酷な女(やつ)だな」
「え…」
麗の泣き顔を最後に気力が切れた雲雀は彼女の身体に凭れかかった。しかしそれは一瞬の事で、骸に呼ばれた犬の手によって再び引き剥がされてしまうのである。どれだけ泣いても、醜く喚いても、彼女の願いを聞き入れてくれる者はこの場には存在しなかった。最後に告げられた「残酷」と言うその一言が酷く胸に突き刺さって、意味も何も分からないのに何故か涙が止まらなかった。
「犬、下がってください」
「へーい」
「っ…まって、やだ、いやだ…っごめ、ごめんなさ、ひばりさ…っ」
もう一度強く言葉を紡ぐと、雲雀を肩に担いだ犬はようやくこの場を去る事になった。けれどその後ろでは麗がうるさい程に泣き喚いており、その姿は酷く滑稽だったろう。そんな彼女に思わず溜め息を吐いた骸はスラックスのポケットから注射器を取り出し、それを彼女の鎖骨辺りに突き刺した。そうして注入された液体が体内を巡れば、彼女は静かに眠りに付くのである。その身体は骸の腕にすっぽりと収まった。
「本当に狡い女(ひと)ですね、弱者は」
見返りのない情ほど、哀れなものは無いと言うのに。