あわれなる優しさを君に
「あっれ、柿ピーじゃん。出かけんの?」
「…3位狩り。その子、気絶してるの?」
「気絶っつーか骸さんが眠らせただけ。何、気になんの?」
「別に…」
「そういや、柿ピーって最初から嫌にこの女のこと気にしてるびょんな。情でも移っちった?」
黒曜中学の制服に丸いフォルムの白いニット帽を被った千種は平べったい胴体を僅かに曲げて、そこに指定の鞄を垂れ下げている。そんな彼は、犬から浴びせられた問い掛けに僅かながら肩を跳ねさせた。その声色は楽しげで、からかいの意味しか含まれていなかったのだろう。何て事は無い、遊び好きの犬が考えそうな事だ。けれど何故か、千種はすぐに言葉を発する事は出来なかった。
「……変なこと言わないでよ」
「何その変な間。こえーびょん」
「犬のその残念すぎる脳みその方が怖い」
「なんらと!?」
上手く誤魔化せられた、だろうか。相手が馬鹿な犬で良かった。これが骸様なら、きっと逃げられなかったはずだ。別に気にしている訳じゃない。けど、情が移ったか、と聞かれれば否定は出来ないのだ。あの時に聞いた言葉と、あの時に見た表情が忘れたくても忘れられなかった。ただの一般人だと思っていたが、あの瞬間、自分の中での「日比野麗」と言う存在が変わったのだ。千種のそんな気持ちの変化にも気付かない犬は、未だに前でぎゃいぎゃい、と騒いでいる。それを無視して、オレは日比野と目線を合わせる為にしゃがみ込んだ。
「…かわいそうでしょ、この子」
「何がだびょん?」
「……よりにもよって骸様に気に入られるなんて、かわいそう。―――まあ、犬は本気で嫌ってるんだろうけど」
「うぐ…っだ、だって腹立つんだびょん!それに、意味分かんねーし!」
「それは犬が『戦える人間』だからでしょ」
古びたソファに寝そべる、麗の頬に掛かる細い茶髪を、千種はそっと指で触れる。大きな怪我などした事がない様な真っ白な肌だと言うのに、こんな場所に閉じ込められてからは少しずつくすんで来ている。少しでも戦う術を持っていれば、こんな風に気に入られる事もなかったのに。本当に運のない、あわれな少女だ。立場の違いも分からずに苛立っている犬は、千種の言葉にきょとん、と首を傾げてみせた。―――ほんと、馬鹿。そう心の中でごちた千種は、溜め息を吐いて立ち上がる。
「…じゃあね。手、出したら駄目だよ」
「だから出さねーっつうの!何回もうぜェびょん!」
ふら、と手を振ってその空間から出ようと足を動かした千種は、もう一度念を押す様に犬に対して忠告する。それに対して苛立った様に声を荒げる犬はまだまだ子供なのだろう。他人(ひと)の事を言える立場に居ない事はとっくの昔に分かっているが。ちらり、と横目で盗み見た麗の目元は、仄かに赤く腫れている様に見えた。―――泣いた、のだろうか。大方、犬の暴言のせいだろうけど。人知れず溜め息を吐いた千種の脳内は、既に3位狩りの事でいっぱいだった。けれど、彼女の事をすっぱり忘れた訳でもない。
こんな暗い場所、彼女には似合わない。
目が覚めて数時間、麗はソファの上で蹲ったまま過ごしていた。そろそろ伸びをしたいが、隣には何故か骸が座っているため憚られる。この時点で、彼女の中には相当なトラウマが植え付けられていた。けれど、この建物の何処かに雲雀が居る、と考えると、それも少し軽くなった気がする。そんな時、彼女の耳にガタ、と言う物音が入って来た。同じくそれに気付いた骸が声を出すと、その直後に傷だらけになった千種が倒れ込んで来たのだ。
「おや。当たりが出ましたね」
「柿本君…!」
「千種きましたー?」
何時も飄々としながらも、大きな怪我をする事はほぼなかったあの千種が血を垂れ流して倒れている。その様子に、麗はさあ、と顔を青くさせた。ピクリ、とも動かないその四肢に、死んでいるのではないか、と考えた程だ。思わず飛び出した身体からゴキリ、と言う嫌な音が響いたのは気のせいだと信じたい。そっと触れると人肌特有の温かさを感じる事が出来たので、先程の考えは杞憂だったと分かる。そんな彼女の後ろでは、犬が「あら!」と楽しげに声をあげ、血の臭いによる興奮から涎を垂らしていた。それを制止した骸の声は、酷く鋭い。
「気を失ってるだけです。ボンゴレについて何もつかまず、千種が手ぶらで帰ってくるはずがない。目を覚ますまで待ちましょう」
「……あ、あの」
「…何です?」
「手当てをしても、良いですか……?」
しかし、僅かに浮かんだ笑みはこれからの事を楽しんでいる様に見えた。それにぞく、とする恐怖を感じながらも、麗は恐る恐るそんな骸に声を掛けてみた。その時の何処か高圧的な冷たい視線には未だに慣れない。それをどうにか我慢して問いを投げ掛けるが、それに対する答えはなかなか聞こえない。そっと彼の方を見上げると何とも形容しがたい、複雑な表情が見える。
「……何か企んでます?」
「たっ、企んでません!」
「…まあ、企んでたとしても何も出来ませんよね。―――良いですよ、勝手にどうぞ」
「っ…あ、ありがとうございます!」
挙げ句の果てには、失礼な事を問い質したのだ。こう言う時にボケないで欲しい、ボケではないのだろうが。その後に続いたであろうひとり言は良く聞こえなかったが、麗はただただ必死に力強い視線を向けた。それに負けたのか、骸は短く溜め息を吐くと言葉を投げ捨てた。―――その時に見た花咲いた様な笑顔には、本当に気が抜けた。
右側が、冷たい。そんな感覚のおかげで千種の意識は暗い水底から這い上がった。けれど、どうにも目が開いてくれない。頑張って瞼を上げようとするが叶わない為、最後には諦めた。仄かに感じる温かさが身体を軽くしてくれる。こんな感覚は初めてだった。親の、人の温もりも知らずに生きて来た為、何処か擽ったい。―――嗚呼、今なら起きれるんじゃないか。そう考えた千種は再び瞼に意識を向けた。すると、視界には仄暗い世界が広がる。それと共に見えたのは、必死に千種の怪我の手当てをしてくれる麗の姿だった。
「っ…な、んで…」
「…っあ、起きましたか?おはようございます」
「お、おはよう……?」
「って、まだお昼すぎですね。すみません」
「……いや、そうじゃない」
「はい?」
思わず力んでしまえば、ずくり、と嫌な痛みが全身を駆け巡った。そんな僅かな変化にも気付かず、麗はたどたどしい笑みをこちらに向ける。そして何故か掛けられた挨拶の言葉に絆されかけるが、千種は冷静な思考でそれを突っぱねた。それにも惚けた様に首を傾げる彼女に少し苛立つ。―――骸様と犬の気持ちが少し分かった気がした。
「何で、怪我の手当てなんか…」
「…見てて、痛々しかったので…駄目、でしたか?」
「…そう言う訳じゃ、ない、けど」
「なら、良かった……」
途切れ途切れに紡いだ言葉に、麗は仄かに頬を赤らめながらも安心した様に気の抜けた笑みを浮かべた。―――嗚呼、調子が狂う。オレ達のこと、怖いんじゃなかったのか。怖いなら何で、何でわざわざ気を遣う様な、こんなこと。そう聞きたかったけれど、口下手である千種にそんな事が出来る筈もない。その結果に行き着いた千種は、ふう、と息を吐く。もう何でも良い、考える事に疲れたのだ。そんな千種を見て笑みを溢した彼女は救急箱から包帯を取り出し、それを千種の腕に巻いて行く。
「…痛い?」
「……痛いよ」
「えっ、あっ、包帯きつすぎたかな!?ごめんね……!」
「…オレだって人間だから、痛いよ」
「そ、そうだよ、ね。ごめん……わたし」
僅かに歪んだ千種の表情に目を見開き、麗はそっと囁く様に問いを投げ掛ける。―――どうしてこんな事を聞いてしまったんだろう。ここの人達がわたしに気を遣う、なんてそんなこと、するはずがないのに。その事に気付いて慌てて患部に触れるが、彼がこちらを向く事は無かった。涙でしっとりと潤んだ瞳を伏せていると、その下に温もりを感じた。はっと見ると、そこに手を伸ばしているのは目の前に居る彼だったのだ。
「…柿本、くん?」
「……また、泣いたのかと思った」
「え…」
「あんた、犬に嫌われてるでしょ」
「え、あ、はは……わたし、嫌われやすい、んだよね」
「ちがう」
「え?」
「違う」
目尻に千種の指先が来ると、ピリ、と鈍い痛みを感じる事が出来る。痛い。けれど、嫌な痛みではなかった。その時に響いた彼の声色は、何かを慈しむ様に優しかった、様な気がする。気のせいかもしれないけれど。唐突に変わった話題に乾ききった笑いを漏らすが、それも彼の声によって遮られる事になった。カサ、と布が擦れる音がする。光のない、その真っ直ぐな双眸が全身に突き刺さる。それから逃げる事は出来なくて、麗ははく、と唇の開閉を一度だけ行った。
「柿本、く…」
「違うと思う、から」
「そっ…か…わたし、柿本君とはね、普通に、お友達に…なりたかった、なあ」
「……うん」
「…ごめんね。人質なのに、こんなこと、言っちゃって」
脱力しきって救急箱にテープを置くと、カタン、と言う音が静かなこの空間に響いた。綺麗に施された治療は、毎度毎度傷を負って帰って来る雲雀が居たからこそ培われたものである。皺一つないその包帯は、痛々しい傷跡をしっかりと隠してくれていた。しかし、痛々しく笑んでいる目の前の少女を隠す事は難しい様である。
千種は暫く考えた後(のち)、側に置いてあった白いニット帽を掴んでは麗の目元までを隠したのだ。目の前では「わっ、わっ」と一人でに慌てているが彼はそれを無視し、ぐいっとニット帽を上げた。その中に前髪が仕舞われたせいで現れた彼女の顔は、やはり綺麗だった。しかし恥ずかしくなったのか、ニット帽の両端を持って耳を隠している。―――顔を隠さなきゃ意味がないんじゃないのか。
「き、急に何……?」
「上、向きなよ。こんな場所なんだから、気分まで落ちるでしょ」
「……ありがとう」
真意が読めなくて恐ろしい、と言いたげにビクビクしている麗の声を聞きながら、千種は再び布団に寝転がった。そんな彼が投げ掛けた言葉は、彼女の胸にすとん、と落ちたのだ。その時に改めて、この少年はただただ不器用なだけだと気付いた。人質と誘拐犯の一味と言う関係だけだと思っていたが、自身の在り方次第でどうにでもなるのかもしれない。そう思ったのだ。
そう思った自分が酷く楽観的だと知ったのは、もう少し後の事だけれど。
「…ほんと腹立つびょん、あの女」
「おや。お嫌いですか?日比野麗が」
「……あいつ、オレらの事なんか何も知らねーくせに」
「まあ、事実ですよ。それを抜きにしても、彼女の性格は僕達にとっては麻薬の様なものですから」
何時もの騒がしさとは打って変わり、地を這う様な低い声色がこの空間に広がった。それを発した犬と優雅にソファに腰掛ける骸が居るここは、麗と千種が居た所とはまた別の場所だ。そこで響いた骸の言葉の真意が分からないらしい犬は、きょとん、と首を傾げている。まあ確かにあまりに抽象的すぎたかもしれない。
「犬には少し難しかったですかね」
「骸さんの言う事はいつも分かりにくいれすよ」
「そんなこと言わないで下さい。寂しいじゃないですか」
うーん、と頭を悩ませている犬の姿を視界に映しては、骸はクフフ、と言った独特の笑い声を漏らした。それに気付いた犬ははっと目を見開き、恥ずかしげに頬を赤らめている。こう言う姿を見ると、余計に年下なのだ、と言う意識が芽生えるのである。そんな犬は、未だに自身が求めているものが何か分かっていないのだろう。ただ、骸の何かに惹かれてここに居る。それだけだ。それを持っている麗と出会ってしまい、それが恐ろしいからこそ嫌うのだと、骸は考えている。そんな骸は静かな笑みを携えながら「まあ」と言葉を続けた。
「―――いずれ、分かります」
僕達が無意識に求めていた優しさを無償で与えてくれる、彼女への畏怖の念は良く分かりますから。