言わずもがな同じ想いで
じくじく、と熱に冒される腕が宙に放り出される。その痛みを押さえる気力は無く、少女の瞳が姿を現す事もない。ただずっと、自然と吹き抜ける風に身体を委ねるだけだ。今まで動かす事も億劫な程に疲弊しているらしいその身体は、外の空気に触れるだけで生きる活力を取り戻せているみたいだ。―――この感覚が、酷く気持ち良かった。
けれど、何処か冷たいその空気は少し物足りない。そんな気持ちが、ここ最近はずっと続いていた。けれど、その気持ちが本音なのかどうかは自分にも分からない。誰に対してのものなのかも分からない。けれど、それが満たされる時をずっと待ち望んでいた事は確かだった。少女は背にとある声がぶつかったのを感じる。威圧感のある、しかしながら優しさが孕んだそれに、彼女はピク、と初めて指を動かした。
『―――よか、った』
そして、少女は僅かに戻って来た意識の中で、同じ様な優しさを感じていた。身体全体にゆき渡るその温もりは彼女がずっと求めて来たもので、それに感極まって泣いてしまった事を思い出す。今となっては羞恥心しか感じないけれど、そんなにも焦がれていたのだろうか。自分はそんなにも、欲深かっただろうか。そんな自問を繰り返しながらも、彼女の脳内にはただ一人の人間しか存在していなかったのだ。
「―――ひばり、せん、ぱい」
「麗!」
ゆっくりと瞼を上げ、琥珀色の双眸を露わにする。そうやって目を覚まして初めて視界に入ったのは茉莉だった。何日振り、だろうか。こうやって顔を見るのも随分と久し振りな気もする。そんな事を考えながらぼうっとその姿を瞳に映す。すると、茉莉の瞳がだんだん揺らいで来ているのが分かった。そこで初めて、麗の意識は完全に覚醒したのである。
「な、いてる、の……?」
「あったりまえでしょ!馬鹿なの!?」
「さ、叫ばないでよ……」
「だってっ、あんた、ぼろぼろ、で…っ」
そこまで言葉を紡いだ茉莉は、備え付けの椅子の上で泣き崩れてしまった。そんな彼女にそっと手を伸ばし、麗はゆっくりと上体を起こす。―――正直戸惑ったし、驚いた。こんなに弱々しい茉莉を見るのは初めてだったから。いつも堂々としてて、わたしをいつでも守ってくれて、わたしを引っ張ってくれる、そんな子だったから。だから、びっくりした。それと一緒に、そんなに強い子をここまで悲しませてしまった自分が、とても情けなく感じた。
「まつり…、―――茉莉」
「……なに」
「心配かけて、ごめんね。待っててくれて、ありがとう」
どうにかして笑顔が見たくて、麗は力なく笑みを浮かべた。けれどそれは寧ろ逆効果だった様で、茉莉は再び二つの瞳(め)からボロボロと大粒の涙を流したのだ。あわあわ、と焦る麗と泣き続ける茉莉と言う異様な光景は何処かシュールで、けれど二人の友情を表している様にも見えた。そして何度か頭を撫でた後、茉莉はやっと笑ってくれたのだ。―――その直後、病室の扉が開かれる。客人だろうか、と視線をそちらに寄越せば、そこには見知った顔が二つあった。
「お…お母さん!」
「やっと起きたのね」
「な、何でここに…」
「あら、娘のお見舞いに来る事はいけないこと?」
「だ、駄目じゃない、けど…」
病室に入って来たのは麗の母と雲雀だった。彼は目を瞑り、扉のすぐ側の壁に凭れ掛かっている。こちらに来る気は無いらしい。どれだけ群れたくないんだ。―――けれど、その考えは間違っていた事を麗はすぐに知る事になる。久し振りに見た母は何時もと同じ調子に見えるけれど、少しだけ化粧が濃くなっている様な気がした。しかし煽る様なその笑みが、麗に元気を与えている事は確かである。それを認めたくなくて、麗は無意識に目を伏せていた。そんな麗の身体を、とある温もりが包み込む。
それは久し振りに感じる母親のあたたかさだった。
「おかあ、さ…」
「……あまり無茶しないでよね、ほんとに」
「え…」
「―――あんたが消えたあの家は、私には広すぎるのよ」
こうやって甘やかされた記憶も随分昔になってしまったからか、麗はぱちくり、と瞬きを繰り返す。しかし、その後に響いた母の言葉に麗は目の動きを止め、大きく目を見開かせたのだ。唐突に震え出す身体を止める事は出来なくて、麗は母の服の裾をきゅ、と掴む。すると、麗の目尻にはじんわりと涙が滲み、それはゆっくりと広がって行ったのだ。そんな空間に響き渡ったのは控えめな嗚咽だった。
「っ……なさ、っ―――ごめん、なさい……!」
「無事なら良いのよ」
「う"…っ、ひばりせんぱい、が、助けて、ぐれで…っ」
その控えめな嗚咽も時が経つごとに大きくなり、母の服を掴む力も強まって行く。そんな娘の姿に苦笑を浮かべながらも、母は麗の頭を優しく撫でた。―――すっごい鼻声。改めて思うけどブッサイクね、この子。誰に似たのかしら。そんな事を思っている母の耳に、コツ、と言った靴の音が届く。その音の正体は雲雀だった。
「……泣きすぎ」
「だ、だっでっ、この人達泣かしてくるから…!」
「勝手にあんたが泣いてんでしょうが」
何時も通り肩から学ランを引っ提げている雲雀は堂々とした立ち振る舞いで、こちらを見下ろしている。しかしその視線は威圧感のあるものではなく、呆れる様な、そんなものだった。そんな麗の頭を軽く叩き、母は彼と目を合わせる。―――その時、室内に言い様のない緊張感が走ったのを感じた。しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。
「―――ありがとうございます」
「…顔、上げて……くれませんか」
深々と頭を下げたお母さんは、絞り出す様に感謝の言葉を口にした。それに対して、雲雀先輩から初めて聞いた敬語は酷くたどたどしかった様に思う。こんなにも目に見えて焦っている雲雀先輩を見るのは初めてだ。知らない人みたいで笑ってしまいそう。笑ったら殴られるのは目に見えてるからしないけど。
「約束を、守っただけです。だから…」
「…やっぱり、麗の言ってた通りね」
「え?」
そんな雲雀は母の言葉に目を丸くし、きょとん、とした表情(かお)を浮かべている。その時の疑問符に彼女はただ笑うのみで、答える事はしなかった。その意地の悪さや、読みきれない本性は何処か麗に似ている気がした。―――いや、日比野が似ているのかもしれない。にこにこ、と笑ったままの母親の視線が優しく感じて、僕は思わず視線を逸らす。その先にいた日比野もなぜか嬉しそうに笑っていて、その時の笑顔になぜかイラッとした僕は、日比野の頭を鷲掴みにした。
「っちょ…雲雀先輩!痛い!」
(何でこんな馬鹿、死ぬ気で助けたんだか…)
「ちょっと!聞いてます!?」
「そこまで元気なら充分だね。さっさと戻っておいでよ」
「へ…」
「戻らなかったら、その分だけ草壁の負担が大きくなるだけだから」
「し、死ぬ気で治させて貰いやす……」
雲雀の手の下で喚く麗は相変わらず賑やかで、こいつは怪我をしても変わりは無いのか。そう思った彼は溜め息を吐きたくなったと言う。その様子に気付かない彼女の髪を乱雑に撫で付け、彼は肩に触れる学ランを翻した。―――その時に感じた温もりは、監禁されている期間も、夢の中でも、わたしが追い求めていたものだった。
「迎え、出します」
「ふふ、ありがとう」
「―――…橘、も」
「…しょうがないわね。帰りに何か奢りなさいよ」
「君の財布貸してくれるなら良いよ」
「あんた一回日本語の勉強した方が良いんじゃない?」
雲雀はポケットから携帯を取り出し、慣れた手付きで画面をタップし始める。それが何処に当てた数字なのかは知らないが、おそらく自宅宛てなのだろう。彼の実家は金持ちらしい。それを本人に言えば、心底嫌そうに顔を歪めて殴って来るから二度と言わないと誓ったが。そんな事を思われてるとは知らず、彼はおもむろに振り返り、茉莉の名を呼んだ。―――この二人、仲良かったっけ?そんな疑問が浮かんだけど、今のわたしにはどうでも良かった。
ここにいる皆、ちゃんと笑えてるんだから。
「日比野さん!」
「あっ、沢田君!来てくれたんだ!」
「当たり前だよ!酷い怪我だったんだから!」
「そうだぞ、麗。無茶しやがって」
「あ、あはは…ごめんね」
翌日の午後2時40分、麗の病室の扉を忙しなく開けたのは、沢田とリボーン、獄寺と山本だった。もし茉莉がこのメンツを見れば、「出たよ三馬鹿」と言って顔を歪める所だろう。そんな予想をされた茉莉は今日は来ていないので、少しだけほっとする。今は目の前の友人達の時間だ。その友人の一人である沢田は怒っているのか、僅かに眉が吊り上がっている。端に居る山本も、麗の怪我の具合を見てぎこちない笑みを浮かべていた。どうやら、よほど心配を掛けてしまったらしい。
「そう言えば京子ちゃんはいないんだね」
「芝生頭の所に行ってる」
「芝生頭……ああ、笹川さんか」
「通じんのかよ」
「…まあそれもあるんだが、麗に聞きたい事があってな」
「聞きたいこと?」
思わず乾いた笑いが出てしまった麗だったが、居る筈の存在が居ない事に気付き、顔を左右に動かした。直接約束をしていた訳ではなかったが、茉莉が麗の怪我と入院の事を京子に言った際、京子は涙を浮かべていたらしい。けれど、歯を抜かれたらしい身内の方が心配なのは良く分かる。―――わたしだってそちらに行くはずだ。けど泣いてたらしいし、退院したらケーキ屋さんに一緒に行きたいなあ。そんな事を考えながら笑みを浮かべる。そんな麗に、リボーンは次の言葉を口にした。
「―――今回の事、どう思ってる?」
その言葉に、麗は浮かべていた笑みを消し去った。
「お、おい、リボーン…!」
「……わたしは、本当に巻き込まれただけなんでしょ?」
「ああ」
「狙いは雲雀先輩…だったんだよね?」
「大体合ってる」
「わたしが…雲雀先輩と、近かったから?」
「ああ」
「―――どうしてそんな事、聞くの?」
この会話の形は、少し懐かしく感じた。リボーンと初めて会った時、だろうか。その時は今とは逆の形だったと思うが、それでも麗が聞いている筈なのに、どうしてこんなにも押し潰されそうなんだろうか。その黒い瞳(め)が、彼女にとっては酷く重圧だった。しかし、その後に紡がれる言葉に彼女は思わず口角を上げたのだ。
「雲雀と離れるつもりはあるか?」
「な、何聞いてんスかリボーンさん!」
「―――ないよ」
「麗、お前…」
「そう伝えてよ、あの人に」
焦った声をあげる獄寺に気付きながらも、麗はそれを流してただ一言をリボーンに告げた。それは酷く分かりやすく、そして最も彼女の想いが分かるものだ。―――この女は酷く聡明だ。だからこそ何日もあの骸に監禁されても生き残り、そんな骸の弱さを見抜いてみせた。そして、今オレが聞いた事がオレの質問じゃない事にも気づいてる。この聡明さがツナにもありゃ良いんだけどな。思わず緩めた口角を隠す為にボルサリーノを下げ、オレは麗の真似をするようにシンプルな言葉を口にした。
「分かった」
「へェ…そんなこと言ってたんだ?」
「ああ。すげーな、あいつ」
「初対面の僕に平手喰らわせたからね。その後に思いきりビビってたけど」
「馬鹿だよな」
「馬鹿だよ」
院内の小さな喫茶店でホットコーヒーを喉に流し込む。ほどよい苦味は、最近になってようやく美味しさを感じて来た所だ。けれど、目の前に何故か居るリボーンは「インスタントは粉っぽい」と嫌々ながらも飲んでいる。―――赤ん坊のくせに肥えた舌だね、この子は。そんな赤ん坊と僕を守って怪我を負ったらしい日比野の話題を淡々と進めて行く。しかし、どうやらそれを良しとしない人間がいる。沢田綱吉と獄寺隼人、そして山本だ。沢田綱吉は震える声で「あの」と僕に声をかけた。
「…何?」
「な、何でオレらはここにいるんでしょう……」
「知らないよ」
「でっ、ですよね!」
「てっめェ、10代目に何つー口の利き方を…!」
「まあまあ、傷口開くぜ」
「もう完治してんだよ!」
僕が即答すれば終わる一連の会話を目敏く聞きつけた獄寺隼人は人相の悪い顔をこちらに向け、いつものように声を荒げている。その声も山本の何気ない一言でヒートアップしているし、何よりその隣にいる沢田綱吉は怯えたように慌てている。―――相変わらずうるさい。そんな気持ちを込めた視線を赤ん坊に向けると、赤ん坊は何でもないような風を吹かせてまた口を開いた。
「で、どうする?突き放すか?」
「―――まさか」
「雲雀も意地悪な質問するよな。ハナから離す気なんかないくせに」
「うるさいよ」
そう言って紙コップに残っていたコーヒーをぐいっと呷(あお)る。その液体は既に冷め切って、苦味が増していた。不味い。容器をぐしゃっと一思いに握ると、ぺしゃんこになった。簡単に潰れてしまうそれは日比野のようだと、前までは思っていた。けれど、案外打たれ強いらしい。ふと息を吐き出して立ち上がった僕はずっと言いたかった言葉を赤ん坊に向けて放った。
「だから赤ん坊、君の抱いてる野望通りにはならないよ」
その時に初めて見た赤ん坊の表情に、僕は知らず知らずのうちにほくそ笑んでいた。
「……一本取られたな」
「リ、リボーン、まさか…」
「あわよくば、って感じだったんだけどな。バレてたみてーだ」
「無理だよ何言ってんの!?」
「っ…オ、オレは反対です!」
「そうだよ獄寺君!もっと言ってやって!」
「いやツナ、獄寺は何か違ってねーか?」
自動ドアを潜(くぐ)り抜ける途中で微かに聞こえるそんな会話に、僕は思わず溜め息を漏らす。そして、そのドアの近くに備え付けられているごみ箱に、ぐしゃぐしゃにひん曲げた紙コップを投げ捨てた。そしてポケットからバイクキーを取り出す。その時に視界の端を通り過ぎた黒い影に、僕は思わず眉を顰めた。厄介な事にならなければ良いが、と願うが、どうやらそれは杞憂だったらしい。―――数週間後に退院した日比野が、「ハルちゃんと仲直り出来たんです」と嬉しそうに笑っていたのだからそれで良いんじゃないかと、そう思った。