痛みの方が良かった
 ぱくり、麗は冷えきった白米を口に入れる。味は余り感じれなくて、寧ろ不味い、とさえ思った。何時もだったら応接室で書類整理をしたり、茉莉と馬鹿みたいに話すのに、今日に限ってそれがない。白米を噛む度に、涙腺が緩んで行く様な感覚に侵された。そんな麗が「らしくない」と、茉莉はきっと気付いているのだろう。先程から時折注がれるちらちら、と言った視線がそれを物語っていた。
 もちろん、麗も理由は分かっている。けれどそれを言えば、茉莉もこの危険だろう事に巻き込んでしまうのだろう。それは嫌だ。黒曜の一件で思いきり泣かせてしまってから、その気持ちは自分でも驚く程に大きくなった。しかし、その「考えすぎ」が茉莉に余計な心配を掛けている事に、麗は気付かないのである。


「……どうしたの、麗」
「えっ…な、何が?」
「あんた、昨日から変よ」
「そ、そうかな……」
「何かあったの?」

 駄目、言えない。茉莉は優しくて賢くて、ずっとずっと勘が良い。だからきっと、薄々気づいてる。けど、やっぱり優しいから、無理に当てる、なんて事は絶対にしないんだ。それがとても嬉しくて、少しだけ、寂しかった。けど、そんなこと言ってる場合じゃない。わたしは茉莉と楽しく一緒にいたいだけ、なんだもん。そんなわたしを見透かすように、茉莉は声を出した。


「――ヒバリのこと?」

 その瞬間、麗は持っていた箸を床に落としてしまったのである。その時に届いたくすくす、と言った笑い声に顔が火照ってしまった事は誰にも知られたくないな、と心から思った。こんな反応、言葉にしなくても肯定している様なものだ。それでなくても、茉莉には勘付かれていると言うのに。これのせいで確信めいたものとなっただろう。


「やっぱり分かりやすいわよね、あんた」
「うう…この性格止めたい……」
「無理でしょ。――で、ヒバリがどうかしたの?」

 昼食をとっくに終わらせた茉莉は頬杖を付き、こちらに視線を流した。それが何故か秘密を暴かれた様な気にさせて、麗は思わず真っ赤な顔を覆い隠したのである。そんな麗の言葉をバッサリと切り捨て、茉莉は再び同じ内容を問い掛けた。――その問いをきっかけに、麗の意識は今朝の出来事へと寄せられる事になる。




 午前7時、その時間が本日の登校時間だった。風紀委員会は週に三回ほど早朝登校が課せられており、それが今日だったのだ。しかし、応接室に行っても威圧感のある黒いシルエットは見掛けられない。草壁曰く、「昨日からずっと屋上にいる」らしい。思わず溜め息を吐いた麗は救急箱を持ち、屋上へ続く階段に一つ一つ、足を掛けて行く。ギイ、と古臭い音を響かせた彼女の視界に飛び込んで来たのは、切り傷だらけの雲雀とディーノだった。


『なっ……何やってるんですか!?』
『えっ、あっ、麗!?来てたんだな、おはよ』
『あ、おはようございます……じゃなくて!傷だらけじゃないですか……!』
『…ん、ああ。ちょっとした賭けで、な。恭弥』
『疲れた』
『オレの話聞いてる?』

 そこで響いた麗の声で、雲雀とディーノはやっとの事で我に返った様だ。しかし、その時の態度は今まで普通に会話をしていた様に平凡だ。それが彼女にとっては予想の範疇外であり、理解不能な出来事だった。二人の綺麗な顔は擦り傷や血で汚れており、何時も綺麗にしている衣服も所々切れている。その光景が、彼女にとある記憶を呼び起こさせたのだ。
 黒曜での一件で、麗は目の前で雲雀の血を初めて見た。あの時の絶望感や叫んでも喚いても届かない声、自身の無力感は彼女のトラウマとなって植え付けられ、それが一瞬でも消えた事は一度もない。ふるふる、と震える唇も、痛い程に握り締められた拳も、彼女にはどうでも良かった。――もう一度失くすかもしれない。その想いだけが、今の麗の全てだった。


『…ちょうど良い。ボスも雲雀の坊ちゃんも、ちと休憩しようや』
『そうだな』
『その呼び方止めてくれない?』

 少しだけ伸びた茶色い前髪で影を作る麗の顔は、思い詰めた様に酷く青ざめていた。それに気付いて声を掛けたロマーリオは、やはり右腕の適任者なのだろう。二人の見えない所でぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。その瞬間、泣きそうになった事は誰にも気付かれません様に。
 持って来た救急箱を地面に置き、ピンセットで綿を摘まむ。それを消毒液に浸し、少しだけ指先に力を入れるとぽたぽた、と液が垂れて行った。そしてその濡れた綿を、麗は予め拭いていた箇所に押し付ける。ピク、と引き攣った雲雀の口角に気付きながらも、彼女はそれを無視して血を吸い取って行く。彼が反応したのは一度きりで、それ以降、無表情以外の顔を見る事は無かった。


『……日比野』
『何ですか?』
『もう、ここには来なくて良いよ』
『……は?』
『草壁達の方、手伝って。書類溜まってるでしょ』

 動揺から手元が狂わなかった事は褒めるべき事なのだろうか。そんなどうでも良い事を考えてしまうほど、雲雀の言葉は麗の心を乱れさせた。何気なく言う言葉がこんなにも影響を与えているなんて、彼はきっと考えてすらいない。隣に居るディーノとロマーリオも不安げに眉を下げている。――この場には、わたしはもう必要ないんだ。


『っ…そ、うです、ね』
『あと、しばらくここ、留守にするから。頼んだよ』
『分かり、ました……怪我、ちゃんと治して下さいね』
『分かってる』
『じゃ、あ、――失礼します』

 つらつら、と紡がれる雲雀の言葉達に、ちゃんとした表情を作れていたかは分からない。ポーカーフェイス、と言うらしいが、麗にはそんな高等技術は身に付いていなかった。それでもひくつく口角を必死に抑え、彼女は目を細めて笑んでみせる。そして、傷がある彼の頬に何枚目かの絆創膏を貼り付けたのだ。
 「何それ」とか、「何でですか?」とか、聞く事は出来なかった。当たり前だ、何様なんだ。わたしは雲雀先輩の後輩で、世話焼きの対象で。家族でも恋人でもない、ただの他人なんだ。そんなの、言える訳ない。目が潤んで行くのが分かる。つん、と鼻が痛くなって来る。それを隠すように、わたしは屋上を出たのだ。思わず出てしまった涙には、どうか気づかないで。


『…雲雀の坊ちゃん、良いのか?』
『麗のやつ、泣いてたぞ』
『……あいつ、僕の血を見る度に泣きそうにするんだよ。それを見たい訳じゃないし、それに、――僕はそんなものの為にあなたの言う『修行』につき合う訳じゃない』

 この言葉が聞こえていれば、何かが変わったのかもしれないけれど。





「…って事は何?あいつ、並盛にいないの?」
「そうみたい。どこ行っちゃったんだろうねえ、ほんと」
「……いやいやいや、何でそんなに軽いの?普通なの?私がおかしいの?」
「落ち着きなよ、茉莉」
「いやそれいつもの私のセリフ!」

 以上の事が今朝の出来事だ。よって、現在の並盛の実質的頂点は草壁と言う事になる。とても平和になるだろう。しかし、何処か寂しいこの感情はきっと自身だけのものだ。それを隠す様に、麗は再び弁当の中身を消費し始めた。目の前に座る茉莉は何時もと違い、酷く狼狽えている様だ。――まるでいつものわたしみたい。


「…ねえ、麗」
「ん?」
「麗は、ヒバリの事、酷いやつだと思う?」
「…そう、だね。思うよ」
「ヒバリの事、嫌い?」
「んーん、すき。すっごいすき。――だから困ってる、んだよねえ」

 しかし、そんな慌てふためいた茉莉はすぐにナリを潜め、静かに麗の名を呼んだ。そこから幾つか続く問い掛けは、何時だって麗が自問自答しているものばかりだ。分かっているのだ、自分の気持ちなど。この距離感が一番楽だから、縛られなくて良いから甘んじていた。けれど、本当は、ただ逃げていただけなんだなあ、と。そう思うのだ。ディーノに言った通り、もう気持ちを曲げるつもりは無い。もう絶対、迷わない。


「日曜日、どっか出かけよっか」
「買い物?」
「美味しいご飯、食べに行こう。その時にあんたの気持ち、教えてよ」
「――ありがとう、茉莉」

 ――だからもう、大丈夫だよ。茉莉。




 日曜日、昼前に並盛駅に待ち合わせた麗と茉莉は、そのままショッピングモールへと向かった。並盛の大型モールと言えばそこなのだ。飲食店やファッションブランド、雑貨店など様々な店舗が揃っている。そこを充分堪能した後、用事があるらしい茉莉とはその場で解散となった。その時の時刻が午後4時、帰るにはまだ早い時間帯だ。適当にぶらつこう、と麗は再び歩き出した。
 昼と夕方では、同じ場所でも全く違う景色に見える。良く言われる事だが、麗は初めてその意味が分かった様な気がした。モール内にはなさそうなこじんまりとした雑貨店には、手作り感満載なストーンアクセサリーが並んでいる。吹き抜け構造となっているその店に並ぶそれらは、夕日に照らされてキラキラ、と輝いていた。その中でもひと際輝いている薄い紫色のそれ――アメシスト、と言うらしい――に彼女は惹かれたのだ。――雲雀先輩の色みたい、なんて馬鹿らしいけど。


 あの後、結局あのアクセサリーを買ってしまったのだ。我ながら恥ずかしい、改めて羞恥心が込み上げて来る。思わず溜め息を吐くも、それを笑ってくれる茉莉はこの場には居ないのだ。――帰ろう、心からそう思った。けどそんな時、わたしの耳には何かの音が届いていた。近く、みたい。覗くだけ、覗くだけだから。そう思っていても首を突っ込んでしまうのがわたしなのに、どうしていつもいつも学習しないのだろう。そんな事を思うのも「後の祭り」と言うやつなんだけど。


「ひっ……」

 麗の視界の端に映り込んで来たのは、嫌いで嫌いで堪らない生々しい紅色だった。ぽたぽた、と垂れた様なそれは、奥に行くにつれて大きな溜まり場となっている。鼻孔に衝撃を与えるこの生臭さは確かに本物だ。その臭いと血だまりに倒れ込んでいる人間を見て、彼女は思わず短く声をあげた。――それがいけなかった。


「……だれ?あんた」

 たどたどしいその問い掛けには、確かに狂気が孕んでいたのだから。


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