臆病者に甘い鞭
 麗から「ヒバリの不在」を聞いてから数週間が経った。その間と言うものの、彼女は驚く程に振り切れていた。一日中忙しなく動き回り、茉莉と一緒に帰る事もなくなった。けれど、茉莉は分かっていた。麗が、何時も自身の傍に居た存在を忘れようとしていること。そして、それを振り切ろうと痛々しい程に忙しなくしている事を。そんな事をしても仕方がないと言うのに、――否、麗もその事には気付いているのだろう。しかしそれを受け入れられるほど、彼女の心の部分は出来ていなかった。
 そして、茉莉もまた原因をきちんと理解していた。ゆっくりと二人の時間を侵食して行くその存在に、聡い茉莉が気付かない筈がなかったのだ。黒曜での一件で思わず殴り込みをしてしまったが、後悔はしていない。優しくしたかと思えば今みたいに突き放して、そんな中途半端な態度が酷く腹立たしい。――何がしたいの、と問い詰めてやりたい。そして、そんな時に限って対面を果たしてしまうのだ。


「――帰ってたの、ヒバリ」
「君は…」
「橘よ。いい加減覚えて、麗以外に興味が湧かないのは分かってるけど」
「……そんなこと言ってないでしょ」
(顔が言ってんだよチクショーめ)

 今の学校に進学してからと言うものの、随分と見慣れた黒い後ろ姿が視界に映る。思わず口を溢せば、その後ろ姿――雲雀――は僅かながらにも驚いた様に目を丸くした。しかしどれだけ待っても紡がれない自身の名に、茉莉は痺れを切らした様に腰に手をやる。そんな彼女に、拗ねた様に顔を逸らす彼は存外子供っぽいらしい。


「…今日は日比野、いないの」
「……気になるなら逢いに行けば良いでしょ」
「別にそんなこと言ってない」
「――待ってる、って言っても?」

 ちらり、と視線をこちらに寄越して口を開く雲雀に、茉莉は突き放す様に言葉を吐き捨てた。きっとこれからも、二人が繰り出す会話はこんなものなのだろう。突き放す様で挑発している様な彼女の声色に、挑発されるばかりである。それが彼女の意のままだとしても、彼はそれに嵌るしかなかった。それを示す様に、彼の灰色の瞳は僅かに見開かれていた。


「……ないでしょ」
「あのねえ…」
「…知ってる?あの子、血を見る度に死にそうなくらい青ざめるの」
「麗が…?」
「黒曜での事で散々いたぶられたみたいだから、そのせいだとは思うけど。僕が怪我して帰る度に、あの子は大怪我したみたいな顔をする」
「…怪我しなきゃ良いじゃない」
「無理だよ。――僕は、この環境じゃないと生きられない」

 しかしそれも一瞬の事で雲雀はそっと目を瞑り、何か言いたげな茉莉を無視して言葉を続けた。そんな彼の脳裏には今まで忘れた事のない、今にも死にそうなほど顔を青ざめさせる麗の姿がある。それを見て、彼は確信した。自身と関わってしまったせいで、麗は持つ筈のない感情を持ってしまった、と。しかしそれを甘んじては、彼はきっと「生」を感じる事は出来ないのだ。だから放した、それだけの事なのに。それにも関わらず、目の前の女はまた胸倉を掴むのだ。


「っちょ…な、に」
「じゃあ今、あの子が泣きたいのを我慢してまで頑張ってるのは何なの……?」
「は…」
「あんたが中途半端に優しくして、ちゃんと突き放せないからでしょ!?」

 前に捕まれた時も思ったが、この女は「女」にしては力が強い。胸元から聞こえるギリギリ、と言った音がそれを物語っていた。ぱさ、と垂れる黒髪は長く、麗の物とは酷く違っている。そんな茉莉の瞳からはぽたぽたと、大粒の涙が零れ落ちていた。――間違っていない。そう、思いたかった。けど僕は、また、間違ってしまったのだろうか。そんな事を思っている内に茉莉の手は、雲雀の胸倉から離れていた。


「…あの子は、あんたがいなくても生きて行けるわ」
「……知ってるよ」
「けど、あんたがいた方が、あの子はいつだって楽しそうだわ」

 茉莉はそう吐き捨てて、瞬きを繰り返す雲雀を無視して踵を返した。その後ろ姿が妙に悔しげで、彼の口から言葉が零れる事は無い。――けど、日比野の隣を奪ってしまったのは僕なんだろうな、と今では思う。それを認めて、納得して、わざわざ僕に忠告して来た橘は非凡な人間なんだろう。そして僕と一緒で、あの能天気に救われたんだろう。
 はあ、と思わず溜め息を吐いて、空を見上げる。視界に入ったそれは、既に闇に染まっていた。夕方頃には着く予定だったのに、何故かディーノが引き留めるので日付が変わる様な時間帯にまでずれ込んだのだ。今更ながらに苛立ちを募らせながらも、雲雀はやっとの事で重い腰を上げようとする。しかし、それを覆い隠す濃い影が現れる。思わずぱちくり、と目を丸くしながら、雲雀はそちらに顔を向けたのだ。


「――雲雀先輩…?」
「日比野…」

 何故かそこに立っている麗は何時もと変わらない惚けた顔をして、こちらを覗き込んでいた。――なぜ、こんな所にいる。そう聞きそうになったが、麗の服装を見てその言葉は喉にしまわれる事になった。ミモレ丈のプリーツスカートに、袖が長めのサマーニットを着ている彼女を見て、今まで学校に残っていた訳ではないのだと気付く。そんな事をしていれば、雲雀は草壁を咬み殺す事になるのだろうが。


「……何で並盛にいるの」
「おつかいです。黒曜より並盛の方が安いんですよ」
「もうすっかり主婦だね」
「それ、暗に『お嫁さんみたい』って言われてるみたいですよ」
「そうかもね」
「……えっ」

 予想していなかった人物のせいで座ったままとなった雲雀は、しゃがみ込んだ麗に視線をやる。そして、冗談交じりの言葉を返した。しかしそれに返して来たのは拗ねる声でも笑い声でもない、何処か戸惑いがちなそれだった。思わず凝視すると、彼女の頬は赤く染め上がっていたのだ。


「な…に、その、かお」
「えっ、いや!あの!冗談のつもりで言ったん、ですけど、雲雀先輩が肯定、するから、つい反応しちゃって…あの…――ご、ごめんなさ…」

 謝罪の言葉を言い終わるまで待たず、雲雀の手は麗の手を握っていた。無意識、だった様に思う。途切れ途切れに紡がれる言葉とか、伏せがちな瞳とか、真っ赤に染まった頬とか、それら全てが妙に煽情的で、無意識に手を伸ばしていたのだ。はっとこちらを見る視線にも気付いていたが、どうしてかそちらを見る事は出来ない。それはきっと、――日比野と同じような顔をしていると思う、から。
 しかし、そんな恥ずかしくも和やかな時間はすぐに幕を閉じる事となる。情けない顔を隠す為に俯いている雲雀は、鋭い殺気を感じたのだ。しかしそれは自身ではなく、麗に向かっている。それに気付いた彼は握っている手を引き寄せ、抱き締める。そして、仕込んでいたトンファーで迫り来る剣を受け止めたのだ。


「な、なに……!?」
「……不法侵入者、だね」
「け、剣…?」
「――日比野、今すぐこの場から離れて、家に帰って」
「え…?」
「血が怖いなら、いるべきじゃない。――帰れ」

 ガッ、そんな殴打音が響いた直後、地面に何かが転げ落ちる音が響いた。それと同時に鳴る金属音は剣だったらしく、刃の部分には紅いものが付着している。血、だろうか。それに驚いた事は確かだが、その後に言われた雲雀の言葉が麗にとって、衝撃的なものだった。こうやって言葉として投げ掛けられたのは、思えば初めての様な気がする。けれど、もうその答えは決まっていた。


「――嫌です」
「は?」
「連れてって、ください」
「…それこそ、嫌だって言ったら?」
「……こ、腰に」
「腰?」
「腰に、しがみつき、ます」
「――ほんっと馬鹿」
「ばっ、馬鹿じゃないです!」

 理解できない、と言いたげな雲雀の顔が酷く歪む。それに負けじと言葉を紡ぐ麗の努力は認めるが、彼の威圧感に既に負けている。頑なにそれを認めようとしない彼女は、端から見れば馬鹿みたいな事を口にした。その一言に気が抜けたのだろう。彼の顔には控えめな笑みが浮かんでいた。そこからは何時もの調子だ。違う所と言えば、喪服の連中に囲まれている事だろうか。


「日比野、死んでも避けなよ」
「し、死ぬ前に、守ってください……」

 しかし厳しい言葉が本音ではない事は、一度も離さない互いの背が証明していた。


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