だから嫌だったんだ
じり、と足元の砂利が声をあげる。すっかり秋も深まって来た頃合いだと言うのに、何故か身体はじんわりとした熱を孕んでいた。緊張と僅かな高揚で占められているその身体は、まるで自分のものではない様な感覚に陥っている。それに嫌悪感を抱く者と興奮を覚える者である二人は、どうやったって相容れない存在である。しかし、それでも離れられないのは互いが惹かれる何かを持っているからなのだろう。――それが何か分からない内は、僕はきっと君に触れる事は出来ない。
黒い、艶のあるジャケットが風に靡いている。この表現だけ読めば爽やかささえ感じるが、そんな様子が見えた事は一瞬たりともない。悲しきかな、そんな風流染みた事を楽しんでいる時間ではないのだ。チャキ、と言った金属音が響けば、後ろに居るであろう雲雀に殺気が籠る。そんなあからさまな変化に気付かない程、麗は鈍くはなかった。そんな彼女の腕には母に頼まれた食材が入ったビニール袋が抱えられている。麗の武器はそれになりそうだ。――頼りないって?そんなの自分が一番分かってる。
「……日比野」
「はっ、はい!」
「後ろでガタガタ震えるの、止めてくれる?」
「だ、だって、怖い……!」
「だから帰れって言ったのに」
「い、嫌ですよ!」
思わず笑いそうにもなるが、僅かに緩んだその空気を引き締めたのは他でもない、雲雀の声である。声を掛けられた麗の身体は小刻みに震えており、初めて感じる恐怖やら殺気やらにすっかり萎縮しているらしい。思わず溜め息を漏らしたくなる現状だが、この場を離れる事には頑なに拒否の姿勢を崩さない。このしつこさは何なんだろうとも思うが、彼女を折れさせる事は、酷く至難の業の様に思えた。そう感じた彼は「前を向け」と、ただ一言そう告げて、再びトンファーを握り締める。
「日比野」
「は、はい」
「攻撃する、なんて考えるな。君はただ避けてりゃ良い。――ちゃんと言うこと聞いてたら、僕が助けてあげる」
「っ…――はい」
そう返事した瞬間、今まで二人を囲んでいた喪服の集団は、一斉にして動き出した。ビク、と肩を跳ねさせた麗はきゅ、っと唇を噛み締め、ビニール袋を抱く力を強めてみせる。そして、突き出された剣を紙一重で避けたのだ。しかし、それだけである。震える足が重心を崩し、彼女はそのまま地面に座り込む事になったのである。
こう言う状態に陥る事は多々あったが、思えば、本気の殺気を向けられたのは初めてだった。下世話な敵意を向けられる事はあっても、殺意を向けられるのは初めてなのだ。すっかり忘れていた、一人では何も出来ない事を。――「弱者が慣れない事をするものではない」と言う、六道君の言葉を。
その瞬間に響いた鈍い音に目を瞑ったわたしは、きっと何も変われてない。
「ひ、ひばり、せんぱ…」
「――怪我」
「へ?」
恐る恐る見上げると、そこには敵の顔面に思いきり膝を打ち付けている雲雀が居た。雲雀はぎゅ、っとトンファーを握り直し、それを使って敵の鳩尾を殴り付けたのである。その衝撃で敵の身体は地面を舐める事となり、僅かだが、相手方に動揺を与える事が出来たらしい。その間に麗の様子を盗み見れば、微かに見える赤い線に、雲雀は思わず目を見張った。――紙一重で避けたせいで出来たものだろう。仕方ない、と割り切れば良いはずなのに、それが出来ない僕は、まだまだ人間として未熟だった。
麗の血をぐい、と指で拭ってみる。僅かな痛みがあるのか、目の前の少女は少しだけ顔を歪めていた。それでも触れる事を止めない雲雀は、その場で唐突に舌打ちを響かせた。びく、と跳ねた肩に罪悪感を抱く事は、もうない。それ程までに、彼の神経は目の前に立ち塞がる敵達に注がれていた。そして、彼はふと口を動かす。
「――少しだけ、目を瞑ってろ」
「え…」
「そうすれば、君は傷つかないんでしょ」
「そ、れは…」
いよいよ、核心を突いてしまった。こんな事を言うつもりは無かったのに。それなのにも関わらず口から零れた言葉に大きく反応した麗を見て、僅かな爽快感を得たのも確かだった。その後に続く言葉は今まで雲雀が言いたくて堪らなくて、けれど、言えなかった言葉である。――柄にもなく守るべきだと、そう思って、馬鹿みたいに身体を張って、それでも守れなくて。僕が怪我をする度に、まるで自分が死んでしまうみたいに傷つくなら、手放した方がマシだと思った。血を見せなくなる事でいつもの日比野に戻るなら、僕はその方が良かった。だから、嫌だったんだ。
だから、会いたくなかったんだよ。
返事は返って来なかった。そして、その隙を狙って再び動き出した喪服の連中を雲雀は見逃さない。再びトンファーを握り直すと、装着していた滑り止めからきゅっと言った軽快な音が響く。それに気を取られる事もなく、雲雀は土を踏み、駆け出した。次々と耳に届く鈍い衝撃音は麗の大嫌いなもので、どれだけ雲雀の傍に居ても決して慣れるものではなかった。それでも逃げ出す気にはなれなくて、それはきっと強いけれど何処か儚い印象がある雲雀がこの場に居るからなのだと思う。
暫くして音が止み、恐る恐る辺りを見渡すと、この場に立っている存在は二人以外には居なかった。思わず安堵の息を吐くと、再びじり、と砂利が声をあげる。どうやら、雲雀がこちらに近付いているらしい。何時もと違う、何処か居心地の悪い感覚を感じては、麗はちらり、と雲雀を見上げた。そこには何時もと何ら変わりは無い、真摯な表情がある。それに対して臆病にならなくなったのは成長だと信じたい。そう感じた麗は、震える唇をそっと動かした。
「……血は、苦手です。見てるだけで吐きそうになるし、痛そうだし」
「うん、知ってる」
「けど、気を遣われるのはもっといや」
麗がそう言い放てば、雲雀は灰色の瞳を僅かに大きくさせる。そして、その手は無意識に彼女に伸びていた。触れたそれは、酷く細く、そして小さい。少し力を込めれば折れてしまいそうだ。しかし、こちらに注がれる双眸は酷く真摯なのだ。稀に見る儚さは今はもう見当たらず、少しは強くなったと、感じざるを得ない。
「……良いんだ?もう」
「――はい。もう、とっくの昔に決めてます」
「…そう。なら、僕の学校を壊すやつらの元に、早く行かないとね」
ふう、と一息付き、雲雀は確信めいた問いを投げ掛ける。その手に収まっていた筈のトンファーは既に制服の中に仕舞われていた。そして僅かに口角を上げながら、彼は校内に歩を進めたのだ。――相変わらず真っ黒なその背中は堂々としてて、わたしは、いつだってそれを眺めるだけ。それにいつも安心するけど、いつだって少しだけ、寂しかった。わたしの事を思ってした事も、わたしにとっては寂しさを増やすだけだった。
けど、それはどうやら勘違いらしい。