もう、逃げ出せないよ。
「な、何で…」
目の前に映る沢田の表情は絶望を示す様な重苦しいものではなく、隠していた事がバレた様な、そう言ったものの様に見えた。その事にすぐに気付く事が出来たのは、自身が常に避け続けて来た事だからである。だから、出会って二年以上も共に居る初めての友人を愛称で呼ぶ事が出来ない。「沢田くん」なんて他人行儀な言い方を脱したい、そう思ったのは一度だけではなかった。
「え、ええと…取り敢えず、ごめん?」
「いや!謝らなくて良いんだよ!ほんと!ね!」
「ツナめっちゃ焦ってんじゃん」
「まさか来るとは思ってねーからだよ!何笑ってんだ野球バカてめェ!」
へらり、と笑みを浮かべるも、何時もよりも困惑した表情に気付いたのだろう。焦った様に取り繕う言葉を述べている。そんな光景を見ても尚、何時もの調子を崩さない山本はやはり大物なのではないだろうか。彼に言葉をぶつけている獄寺も、何時も山本に振り回されているに違いない。――僅かながらに和んだ雰囲気に頬を緩ませた。しかし、それもとある声色によって壊される事となったのである。
「麗じゃん。何でいんの?」
「ベ、ベルく…な、何で松葉杖?こけちゃったの?」
「こけただけで松葉杖に世話にはなんねーよ。お前やっぱり馬鹿だろ」
「ば…っかじゃない!せっかく奢ってあげたのに…!」
「オレ、あの値段の倍以上は稼いでんだけど」
「う、ぐぐ…!」
――普通に口喧嘩してらっしゃる…。それが、この場に居る全員の総意であろう。嵐戦の時、ヴァリアーの誰かと顔見知りである事は周知の事実であったが、まさか一番危険そうなベルだとは誰も思うまい。そして、ここまで軽口を叩き合える仲だと誰が思うだろうか。うしし、と独特な笑い声を響かせるベルは新しい玩具を見つけた、と言いたげに酷く楽しそうだ。一方の麗はと言うと、悔しげに顔を歪めている。もちろんそれが己の頭の弱さが原因である事は重々承知である。
「っあ!ちがう!ちがうんだよ!ベル君とどうでも良い言い合いをしに来た訳じゃなくて!」
「殺(や)んぞ?」
「ごめんなさい!でもわたしの用事は髑髏ちゃんなんです!」
「私…?」
はっと思い出した様に声を上げる麗の言葉はあまりにも命知らずのそれで、本人もその事実には気付いていた様だ。しかし、今はそれに構っている時間は無いのである。疑問でいっぱい、と言いたげにこちらに円らな双眸を向けるクロームは、何処か見覚えのある三叉槍を手にしていた。そんなクロームに、麗はとある物を差し出した。――そこで本来の持ち主に気付いていればこの縁もなかったのだ、と。運が良いのか悪いのか、今では分からない。
「これ…」
「落としたでしょ?大切な物だって言ってたから、なかったら困ると思って」
「麗、ちゃん…」
「ん?」
麗が手渡した物は、クロームが大事にしていると言っていたブローチである。ベースの黒色に僅かに紫が掛かったそれは神秘的、且つ美しい代物だ。それを見たクロームはキラキラ、と瞳を煌めかせ、呆然とした様子のまま麗の名を呼んだ。そして優しげな麗の笑みを視界に映すと、きゅう、と唇を一文字に結び、震える唇でとある一言を告げたのである。
「――あ、りが、とう」
その赤らんだ頬に、少しだけ、安心したわたしはきっと現状を理解していない。
プリーツスカートをひらり、と翻し、クロームはすらりとした二本の足を動かした。ぴり、と嫌な空気が麗らを包み込む。それが好意的なものではない事は、一年半にも及ぶ雲雀との経験が麗に教えてくれていた。殺気、とでも言えば良いのだろうか。
この戦いの趣旨は不明だが、明らかなるデスマッチである事は確かな様だ。様々な属性があるらしく、どうやらクロームは何かを創り出す性質を持つらしい。その戦いぶりをただただ静観し、手出しは許さぬ。そう言いたげに赤外線勘感知式レーザーが麗らを囲い込む。――これで、準備は完了だ。
背丈以上もある武器を幾度か回転させ、それの底を軽く床に置く。するとそれを中心として亀裂が走り、地面が盛り上がった。それらはまるで巨大な瓦礫の様に浮き上がり、体育館内の足場を崩して行く。それはまるでこの世界が終わる時の様で、そして、酷く見覚えのある光景だった。その思いは、隣で告げられたリボーンの言葉が間違いではなかった事を教えてくれている。
しかし、マーモンはそんな現状にも狼狽えない。宙に浮かぶ巨大な瓦礫を足場にし、器用に渡り歩く。そしてクロームの真正面を捉えれば、フードの中から勢い良く出した触手でクロームの動きを封じ込めたのだ。その瞬間、今まで宙に浮いていた巨大な瓦礫達は姿を消す。そうして恐怖から逃れた麗は、目の前に広がる光景に思わず悲鳴を上げた。
「っ、髑髏ちゃん!」
触手はクロームの首を締め上げて彼女の息を奪おうとする。それが、彼女に刻一刻と死を悟らせている事実なのだ。そして、それが分からないほど麗の頭は弱くは無い。聞いていて悲しみを助長させる様な麗の声に、耳が痛くなりそうだ。そんな麗を視界にも入れず、マーモンは冷淡な声色で「弱すぎるね」と呟いた。しかしその言葉は、その後に響く靴音によって途切れる事となる。――そこに広がる光景は、触手に絡め取られたバスケットゴール。そして、それを傍観するクロームだった。
「ど…どーなってんの!?」
「これって…」
「幻覚だぞ」
「――げ、んかく?」
「互いに譲ることなく幻をつくりだす、息をもつかせぬ騙し合い。こんなすげー戦いはめったに見られるもんじゃねーぞ。――麗は特に、良く知ってるだろ?そのすごさも、恐ろしさも」
「ろくどう、くん」
「…認めたくねェか?」
「――ちがうよ」
ぽそり、そう呟かれた青年の名は、麗に恐怖を植え付けた張本人の名だ。――忘れた訳じゃない。否、忘れられる筈もなかった。笑顔で人を追い詰め、言葉で心を切り裂く。そんな男の存在を忘れられる筈がないのである。しかし、今はそれだけではない。三叉槍を突き刺された後、視界に広がった迷子の様な瞳がどうにも頭の中にこびり付く。強い人間の弱さを、麗はそこで知った。一番前で真っ直ぐ進む怖さを感じた。だからこそ、最後の最後まで嫌いにはなれなかったのだ。
「…弱い子を見捨てられないあの人が残酷な程に優しいなんて、あの時から知ってるよ」
だから、そんな彼を眩い瞳で見つめるあの子も、見捨てられる筈がなかったのだ。
「よかったよ、ある程度の相手で。これで思う存分アレを使える。――あのマヌケチビ二匹の前でね」
今までクローム基いバスケットゴールを縛り上げていた触手は幻覚でその姿を象っていたらしく、今では背に備え付けられたトイレットペーパーに姿を変えていた。バキン、と鍵が外れる音が響けば、床に古びた鎖が垂れ落ちる。その後に蠢き出す「ファンタズマ」と呼ばれた蛙は皮を脱ぎ、尻尾に齧り付いて輪となる。そしてそれを頭上に、マーモンの身体を浮かび上がらせた。その瞬間、胸元のおしゃぶりが藍色に瞬く。
「あの巻きガエルと藍色のおしゃぶり…生きてやがったのか…コラ!」
「やはりな…奴の正体は――アルコバレーノ、バイパー」
その光と共鳴する様に輝く青色と橙色のおしゃぶりは、麗の目には酷く幻想的に映ったのだ。