かすかに触れる術
クロームの身体を包み込んでいた霧は次第に嵩と濃さを増して行き、禍々しい気を纏い始めていた。そして、次第に鼓膜を震わせる独特な笑い声は、麗に数ヶ月前の忘れられぬ記憶を湧き起こす。――たった数週間の事だった。何度も罵られ、憐れみを向けられた声だ。どれだけ恐怖を抱いても、それでも嫌いになれなかったのは、あの人が何よりも怖いのは独りである事だからだろう。身体だけ成長した迷子のあの人を、嫌いになれる訳がなかったんだ。
ふと霧が晴れ、体育館の床に杖が突き刺さる。その瞬間、そこからマーモンの足元へ、一直線に床板が隆起されて行けば、二つの衝撃波が彼女に襲い掛かったのである。衝撃波の反動で後ろに転んだ瞬間、霧は完全に晴れ、独特なシルエットが浮かび上がった。――鋭いながらも何処か柔らかいその気配は、ひどく懐かしく思えた。
「随分いきがっているじゃありませんか、――マフィア風情が」
「――誰だ……?」
「娘が…」
「骸…無事だったんだ……」
「――お久しぶりです。舞い戻ってきましたよ…輪廻の果てより」
数ヶ月前から変わりのない青年――骸――は薄く口角を上げ、こちらに視線を向けた。そんな彼は、リボーンの反応を見た所によるとボンゴレ側の霧の守護者らしい。そんな彼の表情を見てぞくり、と肩を震わせる沢田は、骸の真意を読み取る事が出来ないようだ。――ふと、視線がこちらに向けられた気がした。と思えば、その足までもがこちらに向かい始めたのである。そして、骸の手は赤外線レーダーをものともせず、首を飾り付ける麗のネックレスへと伸び、それに指を引っ掛けたかと思えば無理矢理こちらに引き寄せたのだ。
「っ、ちょ、急になに…!」
「なぜお前がいる日比野麗」
「……ま、巻き込まれて…」
「……相変わらずトロいですね。雲雀恭弥は?」
「こんな深夜に会ってる訳ないじゃん」
「本当使えませんね……ふざけてます?」
「怒って良いよね?」
唐突に距離を縮められた挙げ句、散々一方的に罵られた麗は怒って良い。白々しく溜め息を吐く様がどうにも苛立たしく、彼女はひくり、と笑みを浮かべながらもこめかみに青筋を刻んだ。心底見下す様な視線で見下ろされては、普段あまり怒る事がない彼女が怒るのも無理は無かった。彼女の周辺ではあわあわ、と言った様子で沢田とバジルが慌てているが、二人には意味を成さなかったらしい。――そんな骸の後ろで動くマーモンは、床板の欠片を落としながら再び浮かび上がった。
「……ウム。六道骸…どこかで聞いた名だと思ったが、思い出したよ。たしか一月程前だ。復讐者の牢獄で脱走を試みた者がいた。そいつの名が、――六道骸」
「あの鉄壁と言われる、復讐者の牢獄を…」
「ま…っ、また脱走したのー!?」
「……ばかなの?」
「あなたに言われたくないです」
マーモンの口から告げられた事実に、沢田や獄寺だけではない、ヴァリアーの人間でさえも僅かに瞳を見開かせていた。その「復讐者の牢獄」のセキュリティは並大抵のものではないらしい。目線を合わせ、麗は思わず思った事をそのまま言葉として放つも、骸はしれっとした様子で眉を顰めるばかりである。――しかし、その脱走は失敗に終わり、骸は最下層の牢獄に居るのだと言う。その言葉に、一番最初に反応を示したのはその当人だった。
「ボンゴレが誇る特殊暗殺部隊ヴァリアーの情報網も、たかが知れてますね。――現に僕は、ここに在る」
「面倒くさい奴だなぁ。いいよ、はっきりさせよう。君は女についた幻覚だろ」
今までフードの中にあった筈のマーモンの顔は消え失せ、代わりに凄まじい勢いの吹雪が巻き起こる。そして、それは骸の足元から全身へと、次第に凍らせて行ったのだ。恐らく幻覚であろうそれは彼だけではなく、背後に居る麗らにまで影響を及ぼしていた。――その吹雪が収まる事は無く、三叉槍を含む彼の全身を覆い尽くしたのだ。余りに厚いその氷から逃れる事は、不可能と思われる。実際、この場に居る全員はそう思った筈だ。その内の一人であるマーモンは、フードの中から艶掛かったハンマーを顕現させる。
そのハンマーは勢い良く氷漬けにされた骸へと向かって行き、誰もが骸の敗北を確信した。――ふと、彼の右目が六から「一」に変わる。その瞬間、マーモンの全身は薄暗い緑の茎によって絡め取られてしまったのだ。そこには、厭らしい蓮の花が煌めいている。
「――誰が幻覚ですか?」
「ムグ!!何て…力だ……!く…苦しい……」
「うわ…あいつ何者?」
「あのバイパーを圧倒してるぜ……」
「あれがツナの霧の守護者、六道骸だ」
「やっぱり本物なんだ……」
「しかし…だとしたら、さっきまでの女はどうなるんですか……」
「クロームと骸をわけて考えちゃダメだぞ。クロームがいるから骸は存在し、骸がいるからクロームは生きていられるんだ」
リボーンのその言葉に皆が首を傾げる中、麗はまた何かに気付いてしまったらしい。その憶測は、密かに囁かれた「今はこうするしかない」と言う言葉で確信に変わった。そして、そんな彼女に気付かない人間ではないのだ。――ちらり、と黒くつぶらな瞳がこちらに向けられる。その時に感じたぞくり、とした感覚は、後で考えてみれば殺気であったのだろう。
「……麗、気付いてんだろ」
「……な、何となく」
「見てろ」
「え?」
「――大丈夫だから」
沢田をからかっている時とは違い、酷く硬い声音は麗のみに向けられていた。その事を理解しているからこそ、彼女はリボーンと目線を合わせる事はせず、その顔は僅かに下に傾いただけである。しかし、そんな彼女を奮い立たせる様に前を見ろ、とリボーンは言う。少しも安心できる要素などない筈なのに、彼女の双眸は骸の背中に真っ直ぐと注がれていた。不敵な笑みを浮かべているであろう骸は、きっと気付いている。それでも何も反応を示さないのは、ある種の信頼の形に見えた。――一方で、酷く悔しげに唇をへの字に曲げるマーモンは、力の限りに蓮の茎を千切る。そして、再び形勢を立て直した。
「図にのるな!!」
「――惰弱な」
感情を激昂させたマーモンは数多の自身を顕現させ、その全てを骸に向けさせた。しかし、彼の右目は一から「四」へと変化し、殺傷能力が増した三叉槍でマーモンの幻覚を全て切り裂いてみせたのだ。――この能力を、麗と沢田は目にした事があった。だが、マーモンにとって「戦闘能力のある術士」とは、地雷以外の何者でもなかったのである。
「ムムゥ!!格闘のできる術士なんて邪道だぞ!!輪廻だって僕は認めるものか!!」
「ほう」
「人間は何度も同じ人生を無限にくり返すのさ。だから僕は集めるんだ!!――金をね!!」
そう叫ぶと、マーモンは頭上に円盤の物を出現させる。その直後、体育館の床板が捲れ上がる様にぐにゃり、と空間そのものが歪み始めたのである。――こう言った考えに触れたのは、初めてのような気がする。人は見た目では分からないと、改めて思う。六道くんの考えとマーモンって子の考え、どちらに救いがあるのかなんて分からないけれど、考えれば考えるほど、術士の深みに堕ちて行く気がした。
「バイパーの奴、力全開だぜ」
「そうするしかねーだろうな」
「強欲のアルコバレーノですか。面白い……だが、欲なら僕も負けません」
体育館の床板は段々と丸い円を描いて行き、麗らをその球体の中に閉じ込める形になった。この状態では、戦闘が始まる前に仕組まれた赤外線レーダーのゲージもほぼ意味を成していないのだろう。そんな中で骸は、ふと三叉槍を幾度か回転させる。すると、球体の中では蓮が絡められた、夥しい数の火柱が出現したのである。それらが突き出している所にはマグマがどろりと垂れており、見ているだけで熱気が込み上げて来る。幻覚である筈なのに、酷く現実味を帯びているこれらが骸の力なのだろうと、酷く生ぬるい扱いを受けていたのであろう、と彼女はここで初めて気付いたのだ。
ずきん、ふとこめかみ部分に鈍い痛みが鼓動の様に響き渡る。どうやらこの現象は、コロネロ曰く「幻覚汚染」と呼ばれるものらしい。今夜、ここに来なければ絶対に耳にしない言葉だ。――ずきん、ずきん、頭痛が鳴り止む事は無い。だが、先程よりは随分とマシになったようだ。しかし、隣で蹲る沢田は違うらしい。
「――沢田くん?」
「しっかりして下さい!10代目!」
「大丈夫?頭が痛いの?」
「わ、割れそうだ……」
声はしっかりと聞こえている。しかし、意識はここではない、別の何処かに行ってしまっているらしい。時折呟かれる「父さん」やら「骸」やらの言葉に、麗は沢田の意識があちらに吸い寄せられている事を朧気に悟る。――いけない。そう感じたわたしは、沢田くんの肩を掴み、こちらに向かせた。後ろで獄寺くんが何かを言っているけれど、これ以上六道くんに引き寄せられてはだめ、な気がした。
「――骸くんは今!目の前で戦ってるんだよ!」
そう叫んだ瞬間、はっとした様子で我に返る沢田がそこにはいた。ぼそりと紡がれた「日比野さん」と言う声に思わず頬を緩ませれば、そっと抱き締める。――きっと沢田くんは残酷な程にやさしいから、六道くんの全てを受け入れようとしてたんだよね。悪い事じゃないけれど、今はまだだめだよ。きっと、リボーン君も同じような事を言うと思う。六道くんの過去じゃなくて、今を見てよ。全部全部、今を守るために、あの人は戦ってるんだよ。
ふと骸の方へ眼を向ければ、自身の幻影を多く顕現させたマーモンがその身をもって彼に攻撃を仕掛けていた。一方、彼は三叉槍を回転させてその攻撃を防いでいる。しかし、僅かな隙を突いて本体である彼女が一直線に近付けば、フードを大きな布に変化させ、それは一口で彼を喰ってしまったのである。極め付き、と言いたげに棘を出したファンタズマを縛り付けられれば、ぐちゃり、と生々しい音が響く。ぞくり、と寒気がした。まさか、と言う考えが頭を過ったのだ。――しかしそれは、マーモンの信じ難い、と言いたげな声によってなきものとなったのである。
「――堕ちろ、そして巡れ」
蓮の花に包まれる妖艶なる術士は、酷く澄んだ瞳で笑んだのだ。