凡人Fの恋慕
風が、涼しい。自然のそれが吹く度に柔い茶髪が揺れる。足元の草原も踊っている様に見えた。ちくちくしないそれは、人の手が加えられていない事を明確にしてくれている。思わずそれに触れると、さらりとした感触が手の平に伝わる。――ここは、どこなんだろう。夢見心地、けれどどこか現実味が溢れるここは見た事もない場所だ。辺りを見渡しても自然が広がるだけで、人一人見当たらない。でも、不安を覚えずに済むのは周りの木々がわたしを包み込んでくれているから、だと思う。そんな時に響いた声は、わたしにとっては恐怖でしかない、けれど慈しみたくなるような寂しさを含んだものだった。
「――骸くん」
「……なぜあなたがここにいるんですかね」
「ここ、どこ?」
「僕の夢の中です」
「夢?すごいね」
麗が軽く褒め称えると、骸は額を押さえ、呆れた様に項垂れた。それに首を傾げる彼女の仕草にはほとほと腹が立つ。何時の間にか変化した呼び方も、当たり前の様にそれを口にする彼女も、酷く苛立つ。――なにがしたいんだ、この女は。僕に擦り寄っているのか、媚びを売っているのか。それとも、命乞いか。そんな僕の思考を遮るように、日比野麗はこちらに近寄って笑みを浮かべる。
「骸くん、元気?」
「…元気ですよ。水の中からは出られませんけど」
「なあにそれ」
「…封印されているんです。この右目」
「こんなに綺麗な赤色なのにね」
「――止めて下さい」
口から吐き出された言葉はなんでもない、意味もない世間話だった。復讐者の牢獄に囚われてから生まれてしまった余暇を恨みながら、骸は仕方ない、と言いたげに言葉を紡ぐ。裏社会も、戦いも、恨みも嫉みもない時間だった。それをしてるのが麗と言う事に悶々とした思いが広がるが。しかし、それを口にしても麗はきっと笑う事しかしないのだろう。全てを包み込む様に、慈しむ様に、受け入れる様に、ただ、悲しい笑みを浮かべる事しかしないのだ。しがない妄想の麗にさえも舌打ちを響かせれば、骸は自身に触れた手を振り払った。
「……髑髏ちゃんは大丈夫だよ。ちゃんと病院に運んでもらったから」
「そうですか」
「気になってたんじゃなかったの?」
「ええ、まあ…でも、犬と千種がいるので、そこまでは…」
「…ほんと、骸くんと城島くんって似てるよね」
「は?」
「不器用なところとか、素直じゃないところとか。城島くんの方が顔に出やすいから分かりやすいけど」
「……あなたはそうやって敵を作って行くんですね、日比野麗」
「エッひどくない?」
「ひどいのはあなたです」
振り払われた手は少しだけ、温かかった。それを幾度か摩り、麗は話題を変える様に再び口を開く。それに自然と乗ってしまった骸は、随分と彼女のペースに乗せられてしまっているらしい。それを嫌だ、と思っていない事が酷く苛立つ。――どうしてこうにも距離を縮めて来るのか。僕は、あなたにひどい事をしたのに。罵倒の言葉を浴びせ泣かせて、殺そうとしたのに。どうしてこの女は、あなたは、僕に笑いかけてくれるのか。惜しみない優しさを、残酷な程の偽善を使って、まるで僕を刺し殺すように。
「…どうして?」
「一体なんのつもりなんですか。トラウマの相手に笑いかけるだなんて、どうかしている」
「…ひどいな。そんな事を思ってたの?」
「なに笑ってるんですか」
「いや、別に…」
「――最初からそうだ。僕はあなたが分からない」
麗はただ笑うだけで、「トラウマ」を否定しようとはしなかった。――それがすべてだ。――そう結論付けた骸に、麗の真意が届く事は難しいのだろう。分からない、とただ否定するばかりで、彼は正面から彼女の顔と向き合う事はしなかった。それはおそらく、恐怖や怯えから来るものだろう。それが少しだけ寂しい、と思うのはやはり彼女が残酷な程に優しいからだ。こんなこと、雲雀の耳に入れば刺し殺されるのだろうが。
「馬鹿で間抜けで、身のほど知らずなのに、どうしていつも前に立ってるんですか。どうしてその優しさを僕に向けるんですか。どうして、どうしてあなたがその瞳(め)をする!」
「――骸くんはいつも難しく考えすぎなんだよね」
「はあ?」
「意味は無いよ。強いて言うなら…そうだなあ、心配なんだよ。骸くん、迷子の子どもみたいで」
「……意味が分かりません」
――骸くんは、いつもわたしを「残酷な程に優しい」と言う。けど、わたしはそんなに良い人間じゃないと思うんだよ。自分の常識から外れたものを認めるまでには時間がかかるし、自己満足の為にヒーローみたいな事もする。それってきっと、悪人ではないだろうけど善人でもないんだよね。そんなわたしを「優しい」だなんて言う骸くんは、たぶん、きっと、すごく不器用なんだと思う。って言ったら、骸くんは綺麗な顔を面白い程に歪ませた。その顔を、わたしはむに、と両手で挟み込む。
「っ…な、なにを」
「わたしは骸くんの事が好きだよ」
「…僕は嫌いです」
「うん。知ってる」
「なんなんですか。放しなさい」
「嫌です」
ぷち、なにかが破裂する様な音が微かに響いた気がした。その直後に胸倉を掴まれるも、麗は笑みを絶やさない。得意気なそれを浮かべ、骸の片腕を掴んでいた。温かなそれは、彼になにかを伝えようとしていたのではないだろうか。そんな言いようのない気持ちに苛まれる。どうしても好きになれない人間に出会ったのはこれが初めてだった。恨みや憎しみ、そんな負の感情を孕まぬ、ただ受け付けない、そんな「嫌い」を感じた事は無かったのだ。それさえも受け止める麗が実は強い事なんて、骸の三叉槍を受け止めた時から知っている。
「わたしは並盛に来て、変わった。だから、骸くんも城島くんと柿本くん、髑髏ちゃんに出会って変わったと思う」
「あんたは僕のなにを知ってるんですか……」
「完全無欠じゃない骸くんなら知ってるよ」
「死ねば良いのに…」
「あっ、それ結構傷つくんだからね!また勝手にお邪魔するんだから」
「不法侵入で訴えますよ」
逃げてばかりだったその先が、こんなにも危険な事に続いてるだなんてもはや笑い話だ。しかも、一般人の人生を波乱万丈な骸のそれに当てはめるのも馬鹿げている。しかし、それを告げられた骸は呆れた様に、小さく声を響かせた。歳相応なその姿に、麗は笑みを深める。そして、ようやく骸の両頬から両手を放した。何処か垢抜けたその表情に安堵したのだ。骸は、話を変える様に再び口を開く。
「――早く戻りなさい。待ってる人がいるんでしょう」
「うん、そうだね。また会いに来ても良い?」
「『また』があると思われてるとは心外ですね。来ないで下さい」
「やだよ。意地でも来てやる」
「意地汚いクソ女」
「汚くないよ馬鹿!」
――日比野麗は、僕がどれだけ胸クソ悪い暴言を吐いたとしても決して顔を歪めたりはしない。黒曜ランドに監禁していた頃も、霧戦に巻き込まれた時も、そして今も、明るくも儚い笑顔を浮かべている。僕はその強気が、底抜けの明るさが嫌いだった。僕が溜め込む闇をすべて取っ払うようで、今までの「僕」が消え失せるようで、恐ろしくて堪らなかった。それと同時に、とても羨ましかった。すべてを巻き込むその明るさが欲しい、とさえ願った。それを言えば、きっとこの女は「良いよ」と受け入れるのだろう。その優しさを受け止め、甘さに縋る道だってきっとある。それをしないのは、僕が冷酷だからだ。そんな自分を隠すように、僕は「日比野」と口にした。すると、日比野は憎くて止まない、あまりに眩しい笑みを僕に向けた。
「――またね、骸くん!」
最初から、僕は君の明るさを憎み、ひどくそれに惹かれていたのだと思う。
なにかに叩かれる様に、麗の視界は先程とは違う明るさに独占された。ゆっくりと開かれる琥珀は何時もとなんら変わりは無く、何時もの明るさを保っている。この空間を照らす何本もの蛍光灯を見上げ、喉を震わせる。しかし、声は出なかった。――ああ、夢から覚めたんだ。――この瞬間に麗は自身が生き延びた事を悟ったのである。その直後、病室の扉がカラカラ、と音を立てながら開けられた。黒に近い紫のVネックに細身のGパンの組み合わせは、あの人が好きそうなそれだ。ボディバッグに手を掛けた状態で、彼女と訪問者――雲雀――の視線が絡み合う。色素の薄い雲雀の灰色は、酷く丸かった。そんな彼は靴音を立て、麗のベッドに駆け寄る。
「日比野…?」
「……あ、え、っと、おはよう、ございます……?」
出ないと思われた声は、どうやら枯れていただけの様らしい。その事に安堵を覚えながら、麗は律儀にも挨拶を口にした。こてり、と首を傾げたのはどう言う反応が正しいのか分からなかったからだ。そんな彼女は、唐突に触れた雲雀の指先にぴく、と身体を震わせる。まるで柔いものに触れる様に、それは彼女の輪郭を確かめて行く。冷たい筈の指先からは、じんわりと熱が帯びている気がした。それはきっと、根拠のない期待を持っているからなのだろう。そんな思いを裏切る様に、彼は口を開いた。
「…身体は?」
「い、痛いですよ。でも、苦しくは無い、です」
「弾を抜いたからね。出血も止まってるって、聞いた」
「そ、そうなんですか……じゃあ一安心?ですね」
「――ちがうでしょ」
ベッドの脇に畳まれていたパイプ椅子を立ち上げ、雲雀はそこに腰を落ち着かせる。邪魔するものがなにもない状態で視線が絡み合うのは、随分と久し振りの様な気がした。それがどうにもくすぐったくて、麗は撃たれた箇所を摩る。それを見抜く様に、責め立てる様に、彼は鋭い声音を響かせた。びくり、と身体を震わせるのは仕方のない事の様に思える。今までならそうだったのだろう。しかし、今回はもう逃がす事は出来なかった。――その理由を、日比野は自覚しているはずだから。
「血が足りないって、母親がいなきゃきみ、死んでたんだよ。分かってんの?」
「ご、ごめんなさ…」
「勝手な行動して、撃たれて、死にかけて、僕はそんな事がして欲しくて君を許した訳じゃない」
「ひばり、せんぱい」
「……ちがう、責めたい訳じゃない。ごめん」
ただならぬ雰囲気に、麗は思わず顔を歪ませた。それと同じくらい、雲雀は苦しそうだ。言いたくもない言葉を紡いで、悲しげに謝って、しかしそれが限りない本音である事も確かである。それに気付いた彼女は、ゆるりと涙腺を緩ませた。琥珀の双眸には、薄く膜が張っている。そんな彼女は、シーツの上で固く握り締められる彼の手の甲にそっと触れた。ぴく、と震える反応も無視して指同士を絡ませる。彼は、そこでようやく彼女の涙腺の緩さに気付いたらしい。
「――死ぬのかと思った」
ぽすり、と額をうずめた肩はあたたかく、確かに血が通っていた。
「…目の前で血だらけで、僕には壊す事しか出来ないから処置の仕方なんて分からなくて、それでも失いたくなくて、ただ、離れたく、なくて」
「雲雀先輩、ごめんなさい、あの」
「あの時、実体もないものに日比野を奪われるのかと思うと、肝が冷えた」
――わたしの腕は、まるでなにかに操られたかのように雲雀先輩を抱き締めていた。それを拒絶しないのだから、わたしは泣きそうになるくらい苦しくなった。わたしは、並盛の最強をこんな風にさせてしまう、させてしまったんだ。こんなにも弱く、儚くさせてしまうんだ。優越感なんてなかった。ただただ苦しかった。ただわたしがいなくなるかもしれない、それだけの事でこの人を、雲雀先輩を弱くさせてしまった。今まで危ない事に巻き込まれて「ヒバリの弱点」と呼ばれて、やっと自覚した。苦しい。悲しい。強くて不器用なこの人が、とてもいとしい。けれど、どうしたらこの想いを伝えられるのだろう。
「…わたし、あなたと同じ視線でいたかったんです。黒くて大きくて、頼もしい背中だけを見るのがつらかった。でも、それを雲雀先輩にさせてしまったんですよね」
「…こんなにもなにも出来なかったのは初めてだ」
「うん、そうですよね。ごめんなさい。わたしも、言いたい事さえ言えずに死ぬのはいやです」
「僕だってそうだよ。どれだけ焦らされたと思ってるわけ」
「ごめんなさい……」
雲雀と同じように、麗は彼の肩に額を押し付ける。そして紡がれる言葉は、今までどうしても言えないものだった。今だから言えるのは、きっとこの空気に乗せられてしまっているからだろう。それでも良かった。これ以上離れたくは無かった。それはきっと彼も同じなのだ。――自覚を持って焦らしたのはいつからだっただろう。雲雀先輩の優しさに甘えて、周りに縋って、のらりくらりを繰り返した。好きで好きで堪らないのに、雲雀先輩の優しさがわたしだけであれば良い、と何度も願ったのに。それでも雲雀先輩を受け入れなかったのは、わたしが弱いからだった。
「……覚悟、出来たの」
「…はい」
「…もう、我慢しないの」
「しません」
「なら、言って。せめてもの仕返しだよ」
「ここで性格の悪さを出さないで下さい」
「うるさいな」
でも、もうそれも終わり。弱いわたしにはもう飽きた。一つ一つの意思を確かめるように、雲雀先輩が優しく言葉を紡ぐ。そして、初めてわたしに強請った。わたし、今まで誰かの為に行動を起こしても、誰かの為に感情を晒すなんてなかったんです。恥を忍んで泣くだなんて、した事がなかった。全部、あなただけだった。わたしの唯一をあげたのは、あなただけだった。そんなあなたの唯一の強請りを、わたしが拒める訳もなかったんだよね。少しだけ隙間を作って、わたしは雲雀先輩を見上げた。色素の薄い灰色の目は儚くて、でも、芯が強い。ああだめだ、折れそう。でも逸らせないその瞳は、わたしがだいすきなもの。それにふれる距離にいるのに逃すだなんて、もう、わたしには出来そうにもなかった。
「――すきです」
痛い身体も、この涙も、すべてあなたのためのものだから。
「…ずるいです。こんな事を言われたら、もう、逃げられないじゃないですか」
「逃がすつもりもないよ。ふざけないでくれる?」
「ずるい。すき、すきです」
「……急にデレるなよ、ほんと」
感情も分からないままに顔を歪めれば、雲雀は麗の身体を掻き抱いた。小さな身体に確かに植え付けられた痛々しい傷痕、それら全てが惚れた男の為だと聞いて我慢できる人間など居るのだろうか。すん、と鼻孔を擽れば、身体全体に彼女のにおいが広がる。それが酷く尊くて、いとおしくて仕方がなかった。――この手にふれられる。――それがどれだけしあわせな事か、きっと麗に出逢わなければ分からなかっただろう。もう一度、この手で抱き締める。擦り寄る彼女が、酷く可愛く思えた。仕返し、と言いたげに彼女の頬に唇を寄せると顔を真っ赤にしてこちらを見上げた。
「…結構ロマンチストですよね」
「なに言ってんの」
入院中、麗の病室には様々な人が訪れた。沢田、獄寺、山本とリボーン、笹川兄妹、ハル、クロームや千種は見舞いの品を持参して少しの時間をこの空間で過ごした。犬が訪れる事は無かったが、何故か大量のガムを与えられた。本当に不器用な男だ。部下を引き連れたディーノは、酷く申し訳なさそうな表情を浮かべて腰を折った。全てがディーノの責任と言う訳ではないのに。そう言うと、沢田に良く似た笑顔を浮かべて額に唇を寄せた。ここに雲雀が居なくて本当に良かった。そんな雲雀は、気持ちを伝えた以来、病室へは来ていない。きっと委員会の仕事が溜まっているのだろう。けれど、さみしい、などと思う事くらいは許して欲しい。もちろん、麗の母と茉莉はすぐに来た。怪我人にも関わらずビンタをかまし、熱い抱擁を交わされた。――ああ、また泣かせてしまった。でも、わたしも泣いてしまったからお相子だと思う。そう言ったらまた怒られた。ベル君は来なかった。
一ヶ月の入院期間を終え、麗はようやく登校を許された。一ヶ月と言うものは早く、しかし、ブランクを与えるには充分な期間だ。話した事もないクラスメイトにも進んで話し掛けられ、こんな体験をするのも一生に一度だけだろう、と何処か冷酷な事を考える。昼休憩に入り、今日は久し振りに教室で茉莉と昼食を取る事になった。――お弁当を開けると、わたしの好物ばかりで泣きそうになった。バレてるかな、バレてないと良いな。親孝行、いっぱいしなきゃ。感傷に浸っていると、そんなわたしの顔を見て茉莉が笑う。
「な、なに?」
「ヒバリとはどうなったの、麗ちゃん」
「えっ」
「私に隠し事が出来ると思って?」
「で、出来ない……」
「でしょ。教えなさい」
「えっと、その、――つきあう事に、なって」
すぐさま雲雀との関係を突(つつ)く茉莉は、麗に遠慮などはしていないのだろう。寧ろ、何処かエンターテインメントの様に扱っている様な気がした。しかし、その真意は全て麗の幸せだけである。羞恥を晒しながらも事実を述べれば、茉莉は予想通り、と言いたげに麗の茶髪を柔く撫でた。口元を覆う仕草は酷く愛らしく、しかし、こんな表情にさせる事が出来るのは雲雀だけなのだと思うと僅かに苛立ちが募る。だが、茉莉は今の幸福を壊す事などしないのだ。
「やっと?長かったわね」
「え、えっ、茉莉、知ってたの?あの人の気持ち」
「知ってたと言うか、ヒバリ、明らかにあんただけ特別扱いしてたし、察したと言うか」
「う、わあ、そうなの。わあ……恥ずかしい、な。わたしの気持ちも、分かってた?」
「…確証は無かったけど、あんたがそんなに悩むの、ヒバリだけでしょ」
「え、ええ…筒抜けじゃん…恥ずかしい……」
――こう言う所が、ヒバリは堪らないんでしょうね。笑ってしまう程に弱くて、愛おしい、そう言う部分がヒバリの心を揺さぶって仕方ないんでしょう。私だってそうだもの。決して恋愛ではないけれど、麗のこう言う一面が可愛くて仕方がなかった。色素の薄い頬を赤らめて、必死にあいつを想う、その姿が一番可愛かった。小さな口でおかずを頬張る、子どものようないじらしさがあった。そんな麗を独占して行くんでしょ、羨ましくて仕方がない。
「…茉莉は、その、あの人と仲良いでしょ?嫌じゃない?」
「まさか、ずっとくっつく日を待ってたのに」
「で、でも、良く話してるもん」
「あいつとの共通の話題なんて、麗しかないわよ」
「……そ、そうなの?」
「そうよ」
プチトマトを掴み、それを口に含む。それを行いながらぱちくり、と瞬きを繰り返す麗の姿に、思わず笑みを零した。頭上にクエスチョンマークばかりを浮かべる彼女は酷く幼く、それだけで茉莉の中に満足感が広がる。――ずっと、ずっと麗を守って来たのは私なんだから、今度死にかける事があったら許さないわ。分かってるのよね、雲雀恭弥。そう言ったら、誰に言ってるの?って言われそうだけど。前科があるから言ってるの、理解してるのかしら。
「…へ」
「へ?」
「変なこと言ってない?」
「ただの惚気話よ」
――けれど小さく声をあげた麗は、やっぱり可愛かった。
放課後、少しだけ応接室に籠り、溜まっていた書類を片付けた。それに集中していれば、時刻はとっくに18時を過ぎている。初秋も過ぎたこの季節は、陽が落ちるのも夏と比べて幾分か早い。それを見かねた心配性の雲雀は黒曜まで送る、と告げたのだ。しかし、進む先は駐輪場ではなく、正門である。理由を聞けば、足の方が長く一緒にいれる、と言うなんともかわいらしいそれだった。――この人は、どれだけわたしの心臓を押し潰せば気が済むんだ!そう思ったわたしと雲雀先輩は今、所々に街頭が灯る道を一緒に歩いていた。
「…最後にね、ベル君に会いたい、って言ったんだけど、却下されちゃった」
「…そりゃそうだろうね。イタリアの監視下に置かれるらしいから」
「もう日本にはいないんだよね。もう一度ご飯、行きたかったんだけど」
羞恥心を抱えながらも手を繋ぎたい、と強請れば、雲雀は無言ながらも指同士を絡めた。少しずつ感じ始める秋風の中に、彼のぬくもりを感じ取る。そんな些細な感覚が、麗は嬉しくて堪らなかった。そんな彼女は、今はもう居ないベルを話題に出す。たった一度のご飯、たった数時間の会話だったが、確かに繋がれた縁を彼女は惜しんでいた。そんな彼女の言葉に溜め息を吐き、雲雀は一枚の紙を彼女に見せた。
「なに?これ…」
「ベルフェゴールの連絡先。相手に貰った」
「え、えっ、い、良いの?」
「繋がるよ」
「う、嬉しい。ありがとう、でも、あの」
「……他の男の元にやるなんて真似、したくないけど。後悔してるなら連絡くらいすれば」
渡された一枚の紙には、ベルの私用電話番号とメールアドレスが記載されていた。どうやらこれでコンタクトを取れ、と言いたいらしい。しかし、その直後に複雑な心情を伝える事も忘れない。――先輩と後輩から恋人同士、と関係が変わってから、この人は少し素直になった。わたしも、散々焦らしていた気持ちを隠す事は無くなった。良い傾向、だとは思う。でも、正直、心臓が持たない。どきどきして、破裂しそう。わたし、こんなにも雲雀くんの事が好きだっけ、と思ったのは一生の秘密だ。そんな感情をもぞもぞとしているうちに、家の近くに着いてしまったらしい。もう終わりか、と落胆してしまったのはきっと気づかれている。
「あの、ありがとう。連絡先と、送ってくれたの。応接室、明日も行く、ね」
「当たり前でしょ」
「うん。じゃあ、また明日」
「――麗」
「…ん、なに?」
「……しても良い?」
キイ、と古臭い金属音を響かせながら門を開ければ、父親が置いて行った植物らが姿を現す。植物や花を育てる事を趣味としている彼は単身赴任が決まるまでに多くのそれらを植え、それらの世話を麗と母親に任せ、北海道へと飛んでしまった。とんだ気分屋である。日課となってしまった溜め息と呆れた笑みの後ろで、雲雀は麗の名を響かせた。そして、抽象的な強請りを口にしたのだ。ゆるりと掴まれた手首は、もう動かせない。
「…一回だけ、だよ」
「…なに照れてんの」
「だ、だって、久し振り、だし」
「あまり煽らないでくれる?」
「し、してな、――」
次第に近付く雲雀との距離に、麗は頬を赤らめた。それは、月夜でようやく分かる程度のものだ。しかし、彼はそれで良かった。――ようやく、僕を意識してくれている。全てを守る先輩じゃない、麗の初めてを奪う男として、意識してくれている。その事実が僕の熱を高揚させていた。その証拠として、僕は麗の声を奪うように唇を塞ぐ。くぐもった声が妙にいやらしく響いた。かわいい。声には出さないけど、僕の中は麗へのいとおしさで溢れていた。一度だけ唇を解放して、もう一度それを塞ぐ。
驚いた様に、しかし何処か嬉しそうにそれを受け入れた麗は、仕方ない、と言いたげに瞳を伏せた。自然に上がった睫毛が震え、雲雀から与えられる仄かな快感を耐える。重い茶髪から耳が姿を現せば、それは赤く熟れていた。我慢を弾けさせ、僅かに舌先を差し出せば、彼女はびくん、と肩を震わせる。――今回は、ここまで。苛めるのはもう少し先だ。そうして、僕はようやく麗の唇を解放した。
「……い、一回だけ、って言った」
「そうだっけ?」
「…ず、ずるい。わたし、まだ気持ち、聞いてないのに」
「……証拠、欲しいの」
「…そりゃ、欲しいよ。嬉しいもん」
解放した時、わざと響かせたリップ音に麗は再び頬を赤らめる。わざと、だと気付いているのだろうか。多分、気付いていないだろう。そんな彼女は、きゅ、と雲雀の手首を握り、無意識ながらに甘えた声音を響かせる。それさえも気付かぬ彼女は、魔性を持ち合わせているのだと思う。――少しだけ、イラッとした。この僕が、好きじゃない相手にこんな事をする訳がないのに。分かっているはずなのに、この女は証拠を求める。それにひどく苛立って、けれど、ひどくいじらしい。そんな僕は麗の腰を引き寄せ、麗の口元で口を開いた。
「――すきだよ、麗」
中学生にしては低いその声音は、麗の身体全体を蝕む。しかし、その感覚がひどく心地好かった。そんな事を言えばもっと苛められるだろうから絶対言わない、と心に決めているが。その響きは酷く甘くて、彼女の全てを痺れさせる。麻薬の様だ、と思う。それでも、彼女はそれを拒む事は出来なかった。それは酷く嬉しさを孕み、何よりもいとおしいものだからである。その対象である雲雀に向かって、彼女は心底緩んだ表情を浮かべ、彼が慈しんで止まない笑みを浮かべた。
「うん。知ってるよ」
――その一言で、雲雀は麗の恋慕の全てを感じたはずだ。
(終)