温かな心、きみじゃないの。
 最近、睦は頻繁に進路相談を受けている。体育祭も終わり、夏に向かって一直線の時期だ。その時期になれば、最高学年である三年生は自身の進路を考えざるを得ない。その空気が、顕著に表れるのが普通科である。最高学年ともなればヒーロー科への引き抜きなどは、現実的ではない。そのため、各々が普通のビジネスマン、ビジネスウーマンになる為の下準備を始めるのである。――さつきもその一人だ。一つ付け加えるとすれば、彼女自身が頭脳明晰である点だろう。しかし、志望校を国立に絞っている今、彼女にとって学部などはどうでも良かった。適当に決まって、適当に学んで、適当な社会に出て行く。そんな未来を思い描いている。
 元々、夢などは持ち合わせていなかった。幼い頃からヒーローと現行社会を嫌い、その上好奇心を放つ場には、居る事は叶わなかった身だ。趣味と言える様なそれは読書くらい、そんな面白みも何もない幼少期だった。――きっと、轟が異色だった。この短い暮らしの中で、彼だけがおかしかった。その事に、今更ながらに気付きつつもさつきは弁当のおかずをつつきながら、側に寄る小動物を愛でる。
 そんなさつきの側で、草の擦り切れる音が響く。そして、その音の正体は彼女に声を掛けて来たのだ。


「――あの」
「……あれ?」
「お久し振りです。――深海、さつきさん」
「心操くん、だったよね?」
「……覚えていてくれてたんですか」
「そりゃ猫仲間、だからね」

 目元に濃い隈を携えた、同じ普通科の後輩――心操人使――が、戸惑いがちにこちらを見下ろしていた。初めて存在を認識した時とは異なり、表情には気遣う様な色さえ見える。そのお陰で一瞬気付く事が遅れたのだ。それを誤魔化す様に猫を口元まで抱き上げると、心操は嬉しげにぴくん、と表情筋を緩ませた。猫の顎を指で擽ってやると、柔らかな毛と共に甘える様な声がその身に降り掛かる。制服に毛が付く可能性もあったが、そんなものは些細な問題である。


「……なんか吹っ切れた?」
「そ、うですか?」
「初めて会った時はガッチガチに見えたから」
「……先輩も、じゃ、ないですか」
「え?」
「明るく、見えます。…少しだけですけど」

 さあ、と茹だる様な風が吹く度に猫の集団は疎らになるけれど、それが止めば再び二人の指に甘える。それを何度も何度も繰り返す姿に、さつきは確かに口角を緩めたのだ。言葉を発さない、言動に噓がない動物であるからこそ彼女は笑みを零す。それに気付かない心操は、余計な一言を紡ぎつつも数週間前とは打って変わり、僅かに希望を孕ませた視線を彼女に向けた。――露骨、だっただろうか。あの時、保健室で思い切り泣いて、それでもなお寄り添ってくれる友人を漸く認めて。少しだけ、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのだ。それを言い当てられてしまったのは少しだけ、恥ずかしかった。


「――心操くん、お昼食べた?」
「…………えっ」
「あ、もう食べた?約束とかしてる?」
「えっ、いや、ちが、…まだ、です」
「じゃあ一緒に食べよ。だめ?」

 そんな羞恥心を隠す様に、心操へ声を掛ける。畳み掛ける様に問いを投げてしまうのは、もしかしたら睦の話し方が移ってしまったのかもしれない。戸惑いがちに答える彼は、ぱちくり、と何度も瞬きを繰り返していた。幼い頃の幼馴染も、似た様な仕草を繰り返していた気がする。――可愛い、かわいいあの子。それでも、声変わり前の声は忘れてしまった。まるで試すように首を傾げて、猫の頭を毛並みに沿って撫でる。昔は、この距離にいたはずなのにね。


「だ、めじゃ、ないです……」




 昼食の途中だったらしいさつきは、芝生の弁当箱を足に置き直して箸をつついている。その横で、心操はもくもく、とジャムパンを貪った。その合間に甘えて来る猫は、二人の癒しだ。彼女も、口元は笑ってないが、少しだけ、空気は柔らかかった。――多分、変わったのは体育祭が終わってからだと思う。俺と似ているから自然と分かった。ほんの少しだけ吹っ切れた先輩は、その一面を誰かに認められたんだろうか。


「体育祭、見てました」
「…………えっ」
「強かったんすね、先輩」
「……恥ずかしいな。見られてたんだ」
「中継してたんで」
「…強くないと思う。――ただ泣いて、喚いて、迷惑をかけて終わったから」

 そう吐き捨てて、さつきは冷え切った唐揚げを口の中に運んだ。決して美味しくは無い、油が染み出るだけの肉の塊だ。しかし、もきゅ、と噛む咀嚼の感覚は嫌いじゃなかった。――目を瞑ると、まだ思い出す。情けない程の本音と、それでも手を差し伸べてくれるヒーローの卵。何度も思ったよ。初めて出会うヒーローが彼みたいな人だったら良かったのに、って。今は少しだけ、わたしの人生は運が悪いんだ、って思えるようになった。だからこんなにも、緩やかな気持ちなんだと思う。


「……でも、前と雰囲気変わりましたよね」
「それ、友達にも言われた」
「じゃあ、間違ってなかったですね」
「どうして?」
「――俺も変わったから」

 惣菜パンの袋をくしゃり、と丸め、コンビニの袋に突っ込む。その乾いた音に見向きもしないさつきは、水分が飛んだ白米を既に平らげていた。空になった弁当箱をひとりでに黙々と片付けるその姿は、孤独への慣れを示しているようである。その姿に瞳を細めつつも、心操はぽつり、と言葉を呟いた。――視界に入る青空は、春から夏の経過を表している。生ぬるい風が制服を通り抜け、涼しささえ感じた。


「…………そっか」
「……まだ、ヒーローは嫌いですか」
「…そうだね。最初に憧れてたら、良かったんだろうけど」

 そう言ったさつきは、ぎゅう、と白い猫を抱き締める。制服に毛が付く事は、やはりどうでも良かった。口元に肉球が埋まれば、少しだけ嬉しそうに双眸が弧を描く。しかし、英雄の話ともなれば、彼女は目元に陰りを見せたのである。ただ、嫌悪するだけではない。僅かな関心さえ向ける態度が見え隠れしたが、その陰りは消えなかった。――憧れる前に憎しみを持ってしまったこの人は、多分、すごく生きづらいのだと思う。「嫌い」だけで完結できないこの人は、あまりに優しすぎる人だと思うから。


「――いた」

 だから、そろそろ誰か、この人をたすけてやってくれないか。




「…さつき」

 ――心の中で願う気持ち、と言うものはすごいと思う。たった今願っただけなのに、こんなにも綺麗にタイミングが合うものなのか。思わずその場に現れた奴――轟――を見上げるが、こいつは先輩の事しか頭にないらしい。そこで、俺はようやく先輩の幼馴染が轟なんじゃないか、と思い始めた。そして、人の視線を恐れる反面、敏感になった俺は、愛おしさが含まれた轟の声にも気づいてしまった。噂に聞く人物像とは正反対でびっくりする。こんな熱っぽい視線を向ける奴なのか。


「……なんでここにいるの」
「相澤先生に教えてもらった」
(相澤ちゃんの馬鹿!)
「会って、話がしたかった」
「この前会ったじゃん。それで良いでしょ」
「だめだ。相澤先生と麗日がいただろ」
「なんでだめなの。あの二人を邪魔者みたいに言わないでよ」
「そんなこと言ってねえだろ」

 一連の会話を耳にして、心操は己の仮定を確定的なものにした。そして、思ったのだ。――本気で嫌っているのか、ただの痴話げんかなのか分かんねえ――と。おそらく、体育祭を経て僅かに吹っ切れた事が原因であろう。塞ぎ込む様に膝を抱えるさつきに、轟は逃がさない、と言いたげに詰め寄って行く。幼馴染と言えど、押しの強いその姿を見た事がなかったのだろう。彼女が戸惑うのを良い事に、轟は引くつもりもないようだ。


「……逃げるなよ、さつき」
「逃げてない。……そっちこそ、追いかけて来ないでよ」
「嫌だ。避ける理由を聞いてねえ」
「避けてないし理由ならこの前言った」
「俺は納得してねえ」
「なんでそんな強情になっちゃったの」
他人ひとのこと言えないだろ」

 心操の存在など既に頭の端っこにあるのかどうかすら不明なこの二人は、一向に視線を交わそうとはしない。――否、轟だけは押し倒す様にさつきに視線を向けている。しかし、彼女が頑なにそれから逃げている、と言う形なのだ。そんな彼女は幼馴染である男を「強情」とのたまうが、己の膝小僧に口元を隠す方がよっぽど強情である。しかし、そんな中でも彼女の視線は揺らぐ。それを視認してしまった心操は思わず手を伸ばすが、それを遮る様に彼女はこちらに視線を向けたのだ。


「ごめんね、変なところ見せちゃって」
「……あ、いや、大丈夫です。それより先輩、あの…」
「ん?」
「俺、やっぱり先に戻った方が…」

 そこまで言葉を紡いで、さつきは心操の手の甲に、手の平を重ねた。やさしい力ではない、縋り付く様な力強いそれ。ぱちくり、と瞬きを繰り返して彼女の様子を窺おうとするも、少し伸びたらしい前髪のせいでそれは叶わない。良く見れば、噛み締められた唇は震えていた。――気丈に振る舞っていた、その事に気づいたのはこの時だ。嫌い、と言う訳じゃあないと思う。嫌いなら、この場から逃げれば良い話だ。

 怖いのか。あれだけ強い、この人が。


「なんで、来たの。……轟」
「轟って呼び方、それ、止めてくれ」
「昔みたいで甘えちゃうから、って言ったじゃん」
「だからその理由もかわいいから止めろっつってんだろ」
「だから何でキレてんの!」

 ――実はこいつら仲良いんじゃねえの――心操がそう思ってしまうのも無理は無い。誰がどう見ても嫌い合ってる訳がないのに、どうやらさつきは轟の優しさが怖くて怖くて仕方がないらしい。それをちゃんと突っ撥ねる事が出来ない彼女も、あまりに優しいのだと思うが。――以上が、俺の見解だ。先輩の事情は部外者から見てもえげつねえものだと思うし、轟がやっちまった事は人間関係を築く中でやっちゃいけない事だ。多分な。でも、あまりに拗れたこの二人にとって、これは特段意味を持ってなくて。きっと、意地の張り合いでしかないんだと思う。


「ちゃんと謝りてえんだ」
「……っ」
「だめか……?」
「ず、るい……」
「え?」

 ほら。轟が先輩の心に入りこんで、優しく、少し素直になれば先輩は拒めない。その事にたぶん気づいてない轟は、先輩の言う通り「ずるい」んだと思う。俺でも思う。顔を真っ赤にして、けれど潤んだは決して見せないで。震えた声は、どうやら轟の耳には届かなかったみたいだ。――唇を一文字に結んだまま、さつきは勢い良く立ち上がった。赤く熟れた顔はまだ見えない。まだ、弱みを露見させる覚悟は持ち合わせていないようだった。


「謝られたら、許すしかないじゃん……!」
「な…」
「心操くんごめん。また今度、ちゃんと時間取るね」
「ちょっ、待てさつき!」

 轟の制止の声を綺麗に無視し、心操に対してぼそり、と呟く。その時、顔の赤みは全く取れていなかった。傍にいたい、と言う欲を必死に抑え込んで、それでも素直になれなくて。轟の不意打ちを突いたとは言え、父親による毎日の暴力のせいで反射神経が良くなったとは何と言う皮肉であろうか。――見てしまった、ただの女の人としての顔。思わず驚いてしまったけど、それを轟に言うつもりは毛頭なかった。到底年上には見えないその表情かおを、先輩の弱みを、俺は一生忘れないのだろう。




 逃げ出す様に、さつきがこの場から居なくなってから何分経っただろう。――否、時間はこの際どうでも良い。いま最も重要なのは、なぜ轟はこの場に留まっているのか、と言う事だ。残っていたコンビニでの購入品も底を着き、ただ猫と戯れる事しか出来ない。そんな状況の中でも威圧感すらない彼は、体育祭以降、本当に変わってしまったらしい。ちらり、と視線を横にずらしても、憑き物が取れた様な清々しい顔付きしか見えなかった。


「…………なあ、轟」
「…なんだ」
「謝ってどうするつもりなんだ」
「あ?」
「どう言うつもりで謝ろうとしてんだ、お前」

 さつきを話題に出しては、僅かに緊張感の生まれる轟を纏う空気に、心操はひくり、と肩を震わせた。――先輩、こいつ絶対坊っちゃんなんかじゃないですよ。そう思った事は、あんたと轟の仲違いが解決したら何回でも言ってやろうと心に決めた。だから、引く訳にもいかなかった。俺は、じっと轟を見つめて返答を待つ。もし返答がなければ「軽い気持ちで『謝る』なんて言うなよ」くらい、言ってやろうと思ってた。けれど、轟はゆっくりと口を動かす。


「――自己満足だよ」
「自己満足…?」
「許してくれなくても良い。笑ってくれなくても、昔みてえに話せなくても、それでも良い。…それでも、俺はあの人を手離せねえから」

 もう、あの人のいねえ生活は嫌だった。もう、クソ親父への憎しみだけでは生きて行けなくなった。「俺の力だろう」と力ずくでぶち壊して来やがった緑谷ももちろんだが、俺に笑顔を教えてくれたさつきのいねえ人生なんて、俺には考えられない。手離せない事なんて、ちっせえ頃から分かってた。だから、もう、俺の側から離れて欲しくない。――自分勝手だな、って?うるせえよ。こんな気持ち、さつき以外に向けるつもりもねえんだから良いだろ。


「――許すか許さないかは、さつきの自由だ」
「お前…」
「まあ、それに気づけたのもクラスメイトのおかげなんだけどな」
「……変わったな、お前」
「どこがだ」
「なんつうか、……ピリピリしてねえ」
「ぴりぴり」

 ――こいつ実はボケボケなんじゃねえか――そう思った心操の直感は決して間違っちゃいない。しかし、轟も決して馬鹿ではないのだ。友人の受け売りだとしても、納得をしていなければきっと口にもしていないだろう。だから轟は結論をさつきに委ねる事を決めた。――昔から、俺は「俺」の事ばかりだったから。喋る事を許してくれるなら、もう一度だけ、さつきが泣く事がねえような世界が欲しい、と思った。


「――今の方が話しやすいよ、お前」
「え…」
「でも、ちょっと鈍くなったな」
「……さっきから喧嘩売ってんのかお前」
「まさか。親切なアドバイスだよ」
「どうだか」
「その『親切なアドバイス』で、もう一つ。――先輩は、たぶん昔のお前しか見てない」

 心操がそう告げた瞬間、轟は色違いの双眸を僅かに見開かせた。分かっていた筈だが、他人から言の葉に乗せられると何処か重みを感じる。――分かっていた事だった。だから成田さんも、相澤先生も何も言わなかったんだろう。小さくて、弱くて、世界が家とさつきだった時の俺。本当はずっとたすけを求めていたさつきに、ずっと守られていた俺。七年経って、ようやくその事に気づいた弱い弱い自分。
 わりいな、さつき。もう、そんな「焦凍」じゃなくなっちまった。そんな事は分かってるけど、お前から手を引く事はねえよ。そんな俺は「心操」と声をかけた。


「――ありがとな」

 よう、昔の俺。あの人の心からさっさと出てっちゃくれねえか。