それでも、よわいぼくのものでいて。
「…一人か?」
「…………はい」

 ――なぜこうなった――轟がそう感じてしまうのも無理は無い。禁煙席である事が不幸中の幸いだろうか。半個室に仕切られたテーブルに、彼と相澤は向かい合って座る事になった。近くに知人が居る、あの微妙な空気感をどうか分かってくれ。こんな空気で食事をするのは母親が入院した日、父親と食事を共にした最後の日以来である。轟が頼んだのはネギトロ丼の定食、さすがにファミリーレストランにはざる蕎麦は無かった。
 轟には、教師の前で堂々と携帯へ夢中になる度胸は無い。手持ち無沙汰ながらにもお冷やを喉へと注いでいると、唐突に相澤が喉を笑みで震わせた。


「ンな緊張しなくても良いだろうよ」
「ッ、緊張なんか…」
「それとも、――妙な対抗心か?」

 「対抗心」、茶化す様に紡がれたその単語に、轟の顔には熱が集中した。ちがう、と思った。しかし、それを否定しなければ顔の熱の理由を証明できない。――こくり、とコーヒーが喉を通る音が響く。料理は来ない。校内で常日頃見掛ける、操縛布を纏った見た目ではない。おそらくオフであろう相澤は、ゆったりとしたニットとスキニーパンツ、と全身を黒で纏めていた。そして、視線も僅かに異なっている、気がした。何処か蔑む様な、品定めをされている様なそれ。


「…イレイザーヘッド」
「なんだ」
「――俺のこと、どう見てますか」
「……深海の唯一」

 悔しいけどな、と付け足した相澤は、再びコーヒーを喉に流し込んだ。言葉とは裏腹に、轟に対して生徒とは異なる何かを抱いている様である。それは決して良いものではなく、他人事な歪みが孕んでいる様な気がした。それを感じ取る程度には、轟は聡いのである。――俺がいない間、さつきを一番守ってくれてたのはおそらくこの人だ。だからこそ、さつきの弱さも歪みも過去も全部受け入れて、それの極めつけだった俺に敵意を抱いているんだろう。少しの歪みと困惑の視線は、生徒に向けるものじゃない。


「――一つ、聞いて良いか」
「なんですか」
「…………お前、何であいつを独りにした」

 それをいの一番に聞いて来るこの人は、きっと意地が悪い。その理由に明確なものなんてない。強いて言うならば、自分の事しか考えていなかったからだ。つい最近まで、俺は親父の事しか見えてなかった。さつきのトラウマも、昔から泣きたいのを必死に我慢して来た事も、俺を心の拠り所にしていた事も、全部忘れてた。そんなクソみてえな俺と交わした約束を、あの人は今でも律儀に守ってる。料理はまだ来ない。


「……全部忘れてたんですよ、俺」
「あ?」
「約束してた事も、どれだけ大事にされて来たのか、――俺が、どうして本気でヒーローを目指そうとしたのか。…全部、忘れてました」

 それが理由です、と言えば、相澤は歯を食い縛る。――当たり前だよな。さつきをぞんざいに扱いました、って言ってるようなものだ。でも、この人には全部言わなきゃだめなような気がした。俺のような生徒にとっては教師であるこの人も、曲がりなりにもプロヒーローなんだと実感する。ひと睨みだけで、俺の身体はぞくり、と恐怖を感じ取った。さつきの育ての親とも言えるこの人にとって、俺は憎むべき存在なんだと思う。


「お前がいなかった約三年間、あいつの生活の事は聞いたか」
「…いえ、話してくれなかったです」
「だろうな」
「…………イレイザーヘッド、は、三年間、ずっとさつきの側にいたんですか」
「…いただけだ」
「え?」
「――あいつの逃げ場にしかなれなかったよ、俺じゃあ」

 そう呟いた相澤はコーヒーを喉へと流し込み、再び口を開いた。――幼少期の詳細を聞いた訳でも、轟とのすれ違いの全てを聞いた訳ではない。この三年間で深海の笑顔を見た事は、ついぞなかった――と相澤は言う。漸く来た料理は美味しそうだった。しかし、流れる様に始まった、轟の知らないさつきを知る事で精一杯だった。笑う代わりに泣く様になった彼女に、轟の視界を避ける様に泣く彼女に、ただ想いを馳せる他に、轟には術がなかったのだ。




『――深海、休憩だ』

 一年次の初夏から始まった相澤との訓練も一年が経った、二年目の春先の事だった。あれだけ頑なだった敬語も呆気なく取れ、彼の事を「相澤ちゃん」と呼ぶ様になった。笑顔を見せずとも、素の性格を見せる様になったさつきは案外普通の少女だった。好きな物は紅茶、少しだけ砂糖を入れる事がポリシーらしい。洋食よりも和食派、だから毎日お握りの具は異なる。――トレーニングルームの使用は21時まで、それまでは相澤との時間だった。小さなチョコレート一欠片を口に含み、壁に凭れ掛かりながら座り込んだ。


『あー…………しんど』
『汗拭けよ』
『ヒーロー科って毎日こんな事してるの?すごいね』
『いや、……多分こっちの方がキツい』
『うそでしょ……馬鹿じゃん』

 項垂れるさつきのこめかみや首筋からは、止め処なく汗が垂れて行く。鞄に入れたままのタオルに顔をうずめて、溜めに溜めた本音を吐露した。ヒーロー科の人間よりもヒーローを目指している、とはどんな皮肉なのだろう。しかしこの一年間、さつきがそれを拒絶する事は一度たりともなかった。――一年前、「強くなって自分を守れ」と、「俺を居場所にしろ」と言われた時、何処か救われた気がした。本当に居場所が出来た様な気がした。だから、その言葉をうそにはしたくなかったのだ。


『でも倒れなくなっただろ』
『そう言う問題ではないんだよ相澤ちゃん』
『なにがだ』
『……まあ、良いけどね。気が紛れる』

 ――そう言った深海は少しだけ、寂しそうに見えた。二つの膝を抱えて、そこに片頬を埋める。こいつには、別の何かが見えているんだろうか。今のヒーロー社会に甘んじる大多数とはちがう、何かが見えているにちがいなかった。けれど、俺の事を「相澤ちゃん」と呼ぶようになった深海は、確かに楽しそうに見えた。ニュースで流れた、あの瞬間の絶望した顔じゃない。少しだけ、ほんの少しだけだろうが、その「絶望」は薄まった気がした。その代わり、深海の儚さは増してしまった気がする。


『――ン』
『……なに』
『一つ寄越せ』
『…いつもゼリー飲料しか口にしないのに』
『うるせえ』

 ふと、相澤はさつきの方向に手の平を差し伸べた。お互いがお互いに口数を増やそうとはしないため、この空間は自然と静寂に包まれる事になる。しかし、お互いがお互いに憎まれ口を叩いても、その場には何処か緩やかな空気が流れていた。きっと、彼女は笑おうとしてくれていた筈だ。その代わりに彼は僅かに口角を歪ませる。――小さな正方形のチョコレートを手渡す。相澤には似合わないな、と思った。


『一人暮らしは慣れたか』
『そうだね。自炊もマシになって来た』
『そうか』
『たまに成田が来るの、『突撃隣の晩ご飯!』って叫びながら。隣じゃないし』
『あいつの家、逆だろ』
『うん。東の方』
『アホだな』
『うん。アホだよ』

 淡々と進む会話は、この一年で相澤が漸く手に入れたものだ。当初は謙遜な態度を崩さなかったさつきも、今ではこの態度である。睦に対する時と同じ様なそれに、彼は微かな達成感さえ感じていた。――カリ、とチョコレートの表面に歯先を突き立てる。カリ、カリ、と進めるたび、それに舌を触れさせる度に固形は次第に形を崩して行った。甘ったるいそれは、蓄積した疲れを確かに癒して行く。美味しかった。


『……最近、ね。『人殺し』って、あまり聞かなくなったよ』
『…そうか』
『相澤ちゃんと成田のお陰だね』
『成田?』
『『人殺し』って言うものなら胸ぐら掴み上げてガン飛ばしてるみたいで、あの子』
『……輩か?』

 話題を変える様に、唐突に紡がれた言葉は朗報である。一人で居ては耳に入りやすい「人殺し」と言う言葉も、睦と言う存在が抑止力となっているらしい。その抑止の方法が妙に積極的であるため、陰では「裏のヴィラン」などと呼ばれているとの事だ。そんな睦を「輩」とのたまった相澤も助力している事も忘れてはいけない。しかしさつきは、その事には気付いていないのである。
 ゆるり、と目元を細め、くつり、と喉を震わせた。しかし、未だ口元は見せてくれない。




 訓練再開は19時。そこから二時間は訓練を受け、21時には下校。そして、そのまま夕食を共にする手筈になっているらしい。最近はずっとこのスケジュールだ。そんな約束を取り付けた相澤は飲み物を買いに行ってしまった。――もう一欠片だけ、チョコレートを口に放り込む。そして、鞄から携帯を取り出した。ロック画面には、つい最近撮影した睦とのツーショット。知らない間にロック画面に設定されていたらしい、何時の間にロック解除をしたのかは謎である。そこからメールのアプリをタップし、新規作成の画面を開いた。
 高校進学を機に携帯を変えた。けれど、メールアドレスを変える勇気は無かった。あの子の文字が残ってる。あの子のメールアドレスが登録されている。そんな愚かな思い出を消す事は出来なかった。慣れた手つきで目当ての名前をタップして、「焦凍くん」と打ちこんだ。たったそれだけのメールを送ったけれど、それはエラーメールとして返送される。


『――いつものこと』

 ぽつり、とそう呟いた。そう、いつもの事だった。最初は絶望とか寂しさとか、空しくなる事ばかり考えていたはずだった。それなのに、どんどん溜まるエラーメールに、安心するようになって来たのはいつからだっただろう。繋がらない事に安心し始めたのはいつからだったかな。――繋がれば、話さなきゃいけない。あの、小さくて強いあの子と会わなきゃいけない。それは、会えない事よりもつらかった。

 声変わりが始まったばかりの、ハスキーがかったあの声のきみはもういないのに。


 高校一年の秋、一度だけ街で焦凍くんを見かけた。学校指定の学ランを少しだけ着崩して、何に対しても興味がなさそうな顔をして歩いている姿を見かけた。目は合わなかった。合っても、名前は呼んでくれないだろう。――どうして、とか。最初から見捨てるつもりだったの、とか。色んな事を考えた。あの時、泣いてしまったから。弱さを見せてしまったから、あの人のせいだ。そんな責任転嫁をして、またあの人を思い出して死にたくなった。
 気づかれないまま通り過ぎた事が、わたしの中では一つの区切りになったんだと思う。考えないようにして、ヒーローの卵さえ恨むようになって、そのくせプロヒーローの彼には頼って。――最低だ。会える訳がない。「さつき姉ちゃん」って、「さつき」って呼んで欲しいなんて、ばかじゃないの。

 それでも、きみの笑顔ばかり願ってたんだよ。わたし。




 近くの自販機に飲料を買いに行ってからトレーニングルームに戻るまでの時間は、たったの数分だった。その間にさつきは眠りの世界に落ちてしまったらしい。彼女は腹部に携帯を沈ませ、脱力しきった姿勢で壁に凭れ掛かっている。肩が凝りそうなそれであるにも関わらず、彼女は酷く気持ち良さげに安眠を貪っていた。――上瞼を覆う前髪と伸ばすばかりのサイドの黒髪が、輪郭を隠して行く。微かながら前髪に触れると、予想よりも幼い顔付きが露わになる。その顔は、10代の子ども以外の何ものでもなかった。


『…………深海』

 ――俺は、少し勘違いをしていたのかもしれない。強くなりたかった訳じゃない。ただ、守られたかっただけなのかもしれない。おそらく、真意はいつになっても分からないのだろうが。そんな子どもの名前を、俺は呼ぶ。こいつが憎んで憎んで仕方がない名字を、そっと呼んだ。深海は起きない。名前は呼べない。「さつき」と呼べる人間は、きっと俺じゃない。ぴくり、と跳ねた肩は訓練を始める前と変わらず、細く小さかった。


『…深海?』
『……しょう、と、くん』
『――しょう、と…?』

 寝言だったらしいその声は、静かなトレーニングルームには妙に響いた。室内の照明に反射して煌めいたのは涙、だったように思う。泣きながら、「しょうと」と言う男の名前を呟いて、それでも辛い記憶を見ている、かわいそうな子ども。そんな子どもを守らなければ、と思う俺も、とても愚かだろう。なにも知らねえくせに、何も分かろうともしねえくせに手を伸ばすただのヒーローひと。――一度だけその名前を繰り返し、思わず溜め息を吐いた。

 同情心は、消えなかった。





「――訓練を続けて行くうちにそれは無くなった。けど、お前を忘れるようにしたんだろうが、出来なかったんだろうな」
「……それを俺に言って、どうして欲しいんですか」
「なにかしてやりてえのはお前だろ」

 轟の知らないさつきの話がひと段落ついてから、彼は漸く木製のスプーンで丼の中身を口に運んだ。美味しい、んだと思う。しかし、何処か苦々しい味覚は否定できなかった。そしてその苦味は、相澤の言葉によって図星を差された瞬間に強まる事になる。――なにかしなきゃいけねえ、って事は思ってる。その「なにか」がどんな事なのかも分かってる。さつきの傍にいる事だ。それをしなけりゃ、俺は何の為に全てを犠牲にしたのか分からねえ。


「もう、離さねえ、って決めました。だから、――手出さないで下さい」

 そう言った瞬間、相澤先生は少しだけ笑った、気がした。




 啖呵を切った手前、奢られてしまった、と言うのは妙に居心地が悪い。まさか、轟の帰り道と相澤の行き先が同じ方向であろうとは誰も思わないだろう。よって、その居心地の悪さは未だ継続中なのである。今のところ、連絡先を知るのは緑谷、上鳴、お茶子、そして飯田の四人だ。それに加え、暇を潰す為にメッセージを送る、と言うコミュニケーション力の高い行為を轟が出来る訳もなかった。そして、それは相澤にも多少は当てはまってしまうのである。
 そんな二人に、とある声が降り掛かる。それは、お互いにとって見知ったそれだったのだ。


「やっぱり!轟くんとイレイザーヘッドや!」
「…麗日、と、さつき?」
「……妙な組み合わせだな」
「たまたま会って、お茶してたんですよー」

 轟と相澤を追い掛ける様に現れたのはお茶子だった。その後ろには戸惑いがちなさつきも居る。おそらく、さつきの心持ちも知らずに巻き込まれたのだろう。さつきと轟の視線は一向に交わらない。しかし、それも数秒の事である。さつきがちらり、と視線を動かした事により、それは叶う事となった。――その瞬間、轟はさつきの手首を掴み、己に近付けた。唐突に揺らいだ身体の重心に、彼女はぱちくり、と瞬きを繰り返している。


「…………泣いたのか」
「え?」
「目、赤い」
「いや、その」
「……泣かされたのか?」
「ちが、――」

 僅かに膝を折り、顔を覗き込まれる。端正な顔立ちは、昔と何ら変わりは無かった。変わったのは、声の低さと背の高さだけ。微かに暖かい左手も、あまりに真っ直ぐ過ぎるその視線も、何も変わりは無かった。そして、意外と話を聞かないところも変わっていない。妙に圧が強い彼の雰囲気に圧されてしまっていると、空いた左腕に絡み付く温もりがある。――見るまでもない、お茶子だ。


「映画をね、観て来たの!すッごい感動しちゃって、泣いちゃったんだよ!ね、深海先輩!」
「う、うん」
「そ、そうか。声でけえな」

 泣いたのは本当だ。しかも個室などではない開放された喫茶店で、馬鹿みたいにぼろぼろ、と泣いた。我に返っても止まらないそれを消す術を、さつきは持ち合わせていなかったのである。そんな時にお茶子が優しくして来るものだから、寧ろ目の腫れは酷くなった。――こんな事を馬鹿正直に伝えれば、轟がどんな行動に出るか分からない。咄嗟に出た言い訳に、彼が引っ掛かってくれる単純な少年で良かった。


「……さつき」
「…なに?」
「――見舞い、行って来た。…お母さん、の」
「…うん」
「笑って、名前、呼んでくれて。…さつきには、知らせたくて」
「……そ、…っか」

 ゆっくりと離される温もりに物足りなささえ感じた。それを誤魔化す様に語尾を強くするも、その後に続いた言葉を耳にしては目を見開く。時間を掛けてゆっくりと、それを緩めたら相澤は僅かに、瞳を丸くさせた気がした。――この子のお母さんと会った訳じゃない。けれど、小さい焦凍くんから話はずっと聞いていたから、もしかしたら向こうには、わたしの事は知られているのかもしれない。また少し自惚れてしまった気がするけれども、また一歩前を向けたようで、ずっとこの子を見ていた身としては嬉しくて堪らなかった。


「――良かったね。焦凍くん」

 三年振りに聞いた「しょうと」は、どこかあまく響いたような気がした。


「…………ちがう。忘れて」
「は?なんでだ、嫌だけど」
「…呼ばない、って決めてるの」
「なんでだよ」
「あ、……」
「あ?」
「……あ、あまえちゃう、から」
「…………なんだそれ、かわいいな」
「!?」