グラジオラスを抱いて笑うあなた
 どうしても家に帰る気力がなかった。――たまにあるでしょ。自分のメンタルの状態と空の風景があまりに違い過ぎてる、とか。へらへら、と笑う周囲に意味もなくイライラしちゃったり、とか。寂しいのに一人になりたい、矛盾した思いとか。でも、そんな事を思っちゃう自分が嫌で。それを振り切るように、決まってウチは防音の視聴覚室に籠ってギターを掻き鳴らす。ヘッドフォンをしてるから周りの音は何も聞こえない。それが、ウチには心地好かった。
 夕陽と空の暗がりが交じる時間帯、中途半端なそれ。時刻は18時を回っていた。――と言っても「真夏」と言う季節、生温い風が廊下を吹き抜ける。じんわり、と汗が纏わり付く様な感覚に、少女――耳郎響香――は思わず眉を顰めた。そして、それから逃げる様に視線を逸らす。その直後、細々ながらも儚く響くその音は、かなり近くで鳴り響いていた。


(ギター…?)

 アンプに繋がれた音でもピックで弾く機械的な音でもない、指先を犠牲にして響く生音。ネックをスライドさせるとキュッ、と音が鳴る。それも、アコースティックギターの魅力でもあった。その音色が鼓膜を擽り、耳郎の好奇心を煽って行く。そして、それに惹かれる様に歩を進める事になった。――繊細な指遣いであろう単音、ゆっくりとしたコード進行が耳郎の心を揺らがせて行く。生温い風なんて、もうどうでも良かった。
 一歩、一歩、と足を踏み出して行くと、ギターの音に交じって小さな歌声に囁かれる。独り言の様な、ただの呟きの様なそれを目指して、耳郎はとある空き教室の扉に手を掛けた。――艶やかな黒に包まれたギターは、年季が入っているのか、所々に傷が目立つ。しかし弦は綺麗に手入れされており、夕陽に反射してキラキラ、と煌めいていた。それを弾く指先も美しく、それに対する執念さえ感じ取れる。輪郭を隠す黒髪は、生温い風に揺れていた。


「…………どちらさま?」
「…えっ、いや、あの、……歌、聞こえて来て、気になって」
「ごめんね。うるさかったでしょ」
「全然!」
「ッ、わ…」
「すっごく上手でした!」

 色素の薄い瞳に映る風景はくすんでおり、どうやらさつきの興味を煽るものではなかったらしい。淡々とした言葉を紡ぎ、横に立て掛けてあったギターケースに手を伸ばす。しかし、その手を耳郎のそれが制止したのである。そして、ぎゅう、とそれを握り、さつきにキラキラ、と煌めく視線を向けたのだ。――さつきは、それに弱かった。昔も今も、押し付けがましいその視線にとてつもなく弱いのだ。


「……あ、りがとう」
「ウチ、音楽が好きで。昔から色んな音楽聴いてたけど、さっきの歌は聴いた事がなくて。何の曲なんですか?」
「……小さい頃、母が良く歌ってくれていた曲。だから詳しくは知らない」
「――思い出の曲?」

 呆気なく折れてしまったさつきは仕舞う筈だったギターを抱え、つるり、と木目をなぞる。そんな中で、ふと鼓膜を震わせた「思い出」と言う一言に彼女は一瞬、瞳を大きく見開いた。――思い出、にしたい曲、って言い方が正解なんだろう。けれどこんなこと、初対面の女の子に言う事じゃない。分かってるよ、言う訳ないじゃん。でも、思い出に出来ていない事にも気づいてた。脳裏にはまだ居座ってる、あの柔らかな笑顔。そして、血だらけの手をわたしに伸ばす、弱い弱いあの人も。


「……君は、よっぽど音楽が好きなんだね」
「え…」
「頬っぺた、赤くなってる」

 さらり、と胸元まで伸びた黒髪が膝小僧を擽る。そんな感覚を気にも留めず、さつきは耳郎の頬に指を伸ばした。すり、と撫でるそれはぴり、ぴり、と赤らんでいる。ひくり、と引き攣る表情筋も感じ取れた。耳郎は、ぱちくり、と何度か瞬きを繰り返し、そこで漸く現状に気付いたらしい。ぶわわ、と遅れて頬を赤らめるその姿は、幼い腐れ縁の姿を浮かばせたのだ。――けど、笑えなかった。ヒーロー科の女の子、あの人とは似ても似つかないはずなのに。


「あ、あの…」
「――ごめん。距離、近かった?」
「び、びっくりして…」
「そう」
「……う、あの」

 思考に自我を奪い取られたさつきは、無心に耳郎の頬を苛めている。耳郎の戸惑う声など露知らず、むに、むに、と頬の弾力を楽しんでいた。そんな行為に戸惑いを覚えつつも決して拒みはしない耳郎は、さつきの緩やかな雰囲気に絆され始めていたのではないだろうか。――一方、さつきはその全てを視界に捉えてはいなかった。とても似ている感触と反応、やはり彼女は幼い彼しか見えていないのである。

 そんなさつきの意識は、何時の間にやら過去へ飛んで行く事になる。




『――あら、さつきちゃん。宿題?』
『うん。明日ね、クラスで発表があるの』
『発表?楽しみね!』
『なんでお母さんの方が楽しみなの』
『だってさつきちゃんの雄姿だもの!』
『雄姿って……お母さんってばかだね』

 小学校二年も終盤に差し掛かった頃、さつきのクラスでは「最後の思い出作り」と言う事で、児童全員で鍵盤ハーモニカの演奏会をするらしい。それの練習のため、さつきはリビングの床に楽譜と楽器を広げている。――これは、拳人が居ては出来ない事だった。この家は全て彼のもので、彼の為にあるものだ。故に自室以外で私物を広げる事はあってはならない。しかし、今日の帰宅時間は日を回ると聞いている。そのため、さつきと母であるらんの心中は僅かながらも穏やかなのだ。


『ばかじゃないわ、可愛い可愛い娘の事ですもの』
『恥ずかしい……』
『髪の毛も随分伸びたわね』
『話聞いてる?』
『ね、良いでしょ?』
『……いいよ。可愛くしてね?』

 鍵盤を見下ろすと、鎖骨辺りまで伸びた黒髪がさらり、と肩から垂れ落ちる。嵐はそれを掬い取り、流れる様な所作でさつきを抱き上げた。癖一つない嵐の黒髪は照明に反射してキラキラ、と煌めいている。――その真っ直ぐで綺麗な黒髪が好きで、羨ましかった。綺麗で、優しくて、いつも笑顔のお母さんが大好きだった。でも、耐え忍ぶ事しか出来ないお母さんはとても愚かだった。それでも、わたしは幸せだった。




 両サイドの髪を後ろに向かって編み込んで行き、一つに纏める。ぴょん、と跳ねるその髪を少しでも抑える為に、くるん、と一度だけ回転させれば完成だ。上瞼を覆うまでに伸びた前髪は眉を隠すくらいにまで切ってやり、量を梳く。吊り目だが大きな瞳を出さなければもったいない、と言うのは、嵐が常日頃言っている事である。――着飾ってもらったさつきは、嵐と共に食事を取る。拳人が居れば食器の音しか響かぬリビングも、今夜は自然な会話が行き交っていた。


『お肉、美味しい』
『ほんと?良かった。スーパーで安売りしてたの、国産なのに珍しいわよね』
『…珍しいのはお母さんもじゃない?』
『なにが?』
『アレでもNo.5のプロヒーローでしょ。そんな人の奥さんだし、いつもひどい事されてるのに、家計も全部支えて…』

 さつきがそこまで言った所で、嵐は娘の名を厳しく紡いだ。びくん、と怯える様に震えるさつきの肩は、嵐の声に敏感にも反応したのである。――言ってはいけない事ではなかった。さつきが紡いだ言葉は事実の羅列である。なのに、嵐は優しげな笑みを酷く歪めている。「ひどい事」と言うのも様々な意味合いが含まれているが、それを子であるさつきに言って欲しくは無かったのだ。そんな生活をさせてしまっている事実に、死にたくなるのだから。


『…………ごめんなさい』
『……私こそごめんね、なにも出来なくて。――大きくなったら家を借りて、二人で住もっか。私働くし!』
『…うん。わたしもバイトして稼ぐから』

 ふわり、と桃色のグラジオラスが二人の鼻孔を擽る。この花は、嵐がずっと好んでいるものである。定期的に買い替えられているそれは、何時もリビングの食卓に飾られていた。それの匂いが充満する空間で、二人は久方振りの朗らかな笑みを浮かべる。この家の惨状に絶望する今、ただ未来を思い浮かべる事しか出来ない。――そんな時、ガチャリ、と音が響く。それは、地獄へ繋がる鍵を示している様に思えた。


『っ…は、早かったんですね。お帰りなさい』
『…………これ、こいつの?』
『そ、それは』
『――そうだよ』
『ッ、さつき!』
『ふうん……』

 「家に着くのは日が回る」と己が口にしていたくせに、リビングへと足を踏み入れたのはその「己」である拳人だった。相も変わらずこの男は、プロヒーローの仮面を剥がせば驚く程に人相が悪い。また、他人に対して酷く興味がないのだ。そんな彼の興味を惹いたのは、床に広げたままだったさつきの楽譜と楽器だった。それに気付いた瞬間に嵐はさあっ、と顔を蒼褪めさせたが、時すでに遅し、である。嵐が娘の名を叫んだ瞬間、その娘の身体は激しく壁に吹き飛ばされた。


『け、拳人さん!なにを…!』
『だってここ、俺の家だぜ?俺に許可、取らなきゃ。そう思わないか?嵐』

 問い掛ける形を象るも、拳人の視線は小さな存在――さつき――に向けられていた。何度も咳き込むその身体を引き寄せ、胸倉を掴み上げる。苦しげに呻き声を上げるが彼は聞き届けるだけ、意味深な笑みを浮かべるだけなのだ。相変わらず、顔には一切傷を付けないスタンスを貫き通し、成熟しきらない小柄な身体に衝撃を与えた。痛々しい打撃音は、家庭のリビングで鳴り響いて良いものではないだろう。
 だらん、と脱力しきった細い腕に瞳を戦慄かせていれば痺れを切らしたのか、拳人は右の拳に個性である「ナックル」を発動させた。その瞬間、嵐は悲痛ながらに娘の名を叫ぶが、それさえも彼には程よいカンフル剤となってしまうらしい。


『ッ、――さつき!さつき!』
『う"、あ、ぁ…ッ』
『こ、こんな小さな子どもに、あなた、――ッ、何を考えてるんですか!?』
『うるせえな、穴が調子乗って口答えしてんじゃねえよ犯すぞ』

 壁に凭れ掛かる形で息を荒げるさつきの腹部からは、生々しい血液が流れ落ちる。それは留まる事を知らず、彼女の命を奪う様に容赦なくフローリングに吸い込まれて行った。浅い呼吸を繰り返し、必死に酸素を欲する。しかし、深海に沈み込んでしまった様に呼吸は苦しくなるばかりであった。――意識の端では嵐と拳人の口論、そして、鈍い打撃音が響く。とても恐ろしい、「家庭」と言う名の監獄のようだ。「この程度ならば耐えられるんだ」と確信して笑むその感覚が、酷く恐ろしかった。

 ――そして、看守から与えられるものは受け入れなければ、と思うわたし自身もひどく、おそろしかった。




 あの一件から、さつきはなるべく生活音を立てなくなった。立てれば嵐は必ずさつきを庇ってしまうだろうし、そのせいで殴られて、また身体を酷使される。それはさつきの意図したものではなかった。――小学校も三年を過ぎた頃、最初で最後の我が儘として自室を与えられた。そこが、さつきの唯一の楽園である。仕事のストレスを溜めた拳人に殴られる事はあれど、自然と顔を合わせない状況に助けられていたのも事実だった。
 さつきが四年生に進学した年に、彼女は轟と知り合った。それが影響してか、自宅での滞在時間は必要最低限のものである。そんな中、拳人が不在期間を狙って、轟は何度か彼女の家へ遊びに行っていた。不在期間、と言うのもエンデヴァーから情報を提供してもらっていたので、過去の様な事にはならなかったのである。


『焦凍くん、甘いもの平気?』
『だいじょうぶです』
『良かった!――駅前にね、美味しい和菓子屋さんがあるの。焦凍くんは和ものが好きって聞いてたからどうかな、って思って』
『あ、ありがとうございます』
『さつきちゃん、お茶にしましょ』
『はあい』

 優しげに首を傾げれば、さらり、と艶のある黒髪が肩から垂れ落ちる。照明に照らされ、白く輝いた一瞬、轟のには己の母――冷――の姿と重なって見えた。――優しくて、きれいで、包みこむような温かさ。さつき姉ちゃんと良く似た、女のひと。同じ優しさに、笑顔に、胸元辺りがとても、温かくなった。お茶請けに出されたのは葛餅と水まんじゅう、透明がかった二品はみずみずしくて冷たい。とても美味しい。嵐さんがどうしてあんなにも嬉しそうに話してくれたのか、分かった気がした。


『お母さん、ここの水まんじゅう好きだよね』
『えっ、美味しいでしょ?』
『うん、美味しい。――焦凍くん、お口に合いましたか?』
『…うん、合いました』

 もぐ、もぐ、と何度も咀嚼を繰り返し、飲み込んだ。舌に纏わり付く水気と甘ったるい餡子が妙に絡み合い、程よい甘さに変化して行く。――水まんじゅうを飲み込んだタイミングを見計らい、さつきは轟の表情を覗き込む。ふわり、と薫るグラジオラスが濃く感じた。そんな二人を眺めて、嵐は無意識ながらに双眸を細める。普通ならば、この光景にとてつもない幸福感を覚える事もないだろうに。
 ――思えば、この三年間が一番幸せだったんじゃないかな。焦凍くんがいて、お母さんがいて、わたしは「犯罪者の娘」じゃなくて。この時、思わず口ずさんでいた歌を歌わされてしまったけれど、それを聴いた焦凍くんがキラキラ、としたを向けて来るものだから守らなきゃ、なんて思っちゃってた。小さくて小さくて、弱くて不器用な子だから、弱いところなんて見せたくなかった。だから今も、強くて、わたしを守れるほど逞しくなった今でも、わたしは弱音さえ吐けないんだろう。

 意地なんてかなぐり捨てて、泣いてしまえば楽なんてそんなこと、誰よりもわたしが一番知ってるはずなのに。





「おーっす耳郎!」
「おはよ」
「……なんか機嫌良くね?」
「――ああ、昨日会ったよ。轟の幼馴染」
「エッ、マジで!?どんな人だった?」

 昨日とは打って変わり、本日の耳郎は酷く機嫌が良い。個性であるイヤホンジャックをゆらゆら、と揺らがせて、鼻歌まで紡ぐ始末である。彼女曰く、その理由とは昨日の放課後にまで遡る事になるらしい。――耳郎は、元々上鳴と轟経由でさつきの存在を知っていた。しかし特段興味を持っていた訳でもなく、どちらかと言うと興味津々だったのは上鳴だ。だが、前に身を乗り出す形で耳郎の返答を待つ上鳴は、好奇心とは違う感情を持っているらしかった。


「――不器用な人、かな。すごく意地っ張り」
「へえ……」
「…なにその返事、さっきまで興味津々だったじゃん。もうちょいリアクションしてくんない?」
「エッ、いや!ちがくて!……轟も似たようなこと言ってたなあ、って」
「……そうなの?」
「おう」

 暫く、否、数瞬の間は上鳴と視線が合っていた様に思う。ぱち、ぱち、と何度か瞬きを繰り返して、耳郎は思わず笑みを吹き出した。「なに?なに?」と何度も彼に問い掛けられるも、彼女は頑なに答えようとはしないのである。――この時ウチは、さすが幼馴染、と思ってた。似たような結論を出して、似たような不安を抱いてる。轟の方が重い感情を持っているのかと思ったけど、そうでもなかったのも理由だった。
 正門の前で、深海先輩は恐る恐る、と言いたげに口を開いた。その内容は随分と前の話題で、そんな、たった一つの何気ない質問なんてウチも忘れてたけど。それを受けた先輩は律儀にも覚えてたらしい。――思い出の曲じゃない。思い出にしたい、曲。すきな人が、好きだと言ってくれた曲――先輩は、泣きそうな顔でそう言った。多分これを轟に教えたら、あいつは教室から飛び出して先輩に会いに行くんだと思う。それはあまりに衝動的過ぎるだろうから言わないけど。


「…でも、笑ってはくれなかったなあ」
「無愛想だっけ?」
「いや、どっちかって言うと、――」
「え、なに?」
「…………やっぱ言わない」
「なんでよ!」
「女同士の約束だから」

 隣で上鳴がうるさいけど、言わないものは言わないって決めたの。――無愛想?ポーカーフェイス?多分、どれもちがうよ。強いて言うなら、天邪鬼でしょ。笑ったらストッパーが外れそうになるから、そうしたら泣いちゃうから隠れて、喉を震わせて笑うんだ。そんないじらしい姿を見ちゃったら、もう、部外者のウチは何も言えないよ。ただしあわせになって欲しい、って轟だけを想う、純粋すぎるあの人を問い詰めるなんてそんなこと、出来る訳がない。
――いつか轟の隣にいれるようになったら、その時は笑って下さい――そう約束した時の、崩れ落ちそうなあの表情かおを思い出して、さっさと奪っちまえ、って轟に願った。つうかさっきからうるさいなこの上鳴アホ


「横でぎゃいぎゃい言わないでよ!ウザい!」
「だって耳郎が隠し事するから!」
「男はお呼びじゃない、って言ってんの!」
「俺だって女子会に混ざりたい!」
「絶対先輩引くから止めな!」
「ひどくね⁉」