「何も変わっちゃいなかった」
「
敵の大量発生?」
あと二週間で夏休み、と言う突入間際。権力者であるヒーローが蔓延る超人社会では、あるニュースが人々の不安を拡散させていた。それが、今睦が広げようとした話題なのである。――体育後の女子更衣室とは、酷く喧噪に
塗れている。噂ばかりが蔓延るそこの話題は恋愛、愚痴、薄っぺらい事件、と様々だ。そしてそんな、ぐちゃり、と色々なものが混ざり合った空間が、さつきは嫌いだった。
「そう!昨日の夜のニュースでやってたんだけど、知らない?」
「……家にテレビないし」
「はあ!?なにそれ!何時代の人?」
「バリバリ現代っ子ですけど」
「じゃあ家で何してるの?」
「勉強か睡眠」
「なにそれガリ勉じゃん……さすが首席」
「うるさいな」
入学してからと言うものの、さつきが首席を他人に譲った事は一度たりともない。それを知る睦はからかう様な声音を響かせて、さつきの肩口に頭部を預けた。改めて言葉にされる羞恥心は馬鹿に出来ないらしい。運動のせいではない、湧き上がる感情によって火照った頬は僅かに赤らんでいた。しかし、これも全て己が為である。「犯罪者の娘」がどうすれば生きやすくなるのか、社会的地位を獲得する他に術は無い。
そもそも睦から振られた話題と言うのも、さつきの興味はさほどそそられなかった。――
敵が居るからヒーローが称えられる――その利害関係が理解できるから、特に記憶にも残っていないのかもしれない。しかし、睦はその話題を続ける。その「大量発生」と言うのもここ――静岡県周辺――に集中しているらしい。窃盗やヒーローを狙った犯行ならまだしも、頻繁に一般市民が被害に遭っているとの事だ。こう言った事実が「緊急事態」と言われる所以なのである。
「珍しいね、庶民狙いなんて。狙われるのって大体ヒーロー事務所でしょ?」
「だからニュースで特集組まれたり、新聞の一面を飾ったりするんじゃない?」
「――まあ、関係ないよ」
「そうかなあ。さつきちゃん、ヒーロー関連の知り合い多いじゃん」
「……誰の話してるの?」
「誰って、――」
くすんだ青色の肌着を隠す様に、カッターシャツを着込んで行く。常に袖は捲るため、半そでは必要ない。この後はHRに出るだけなので、赤のネクタイもリュックサックに押し込んでしまった。未だにもたもた、と支度をしている睦はネクタイを雑に締め、さつきの隣に並ぶ。そんな睦の視界には色鮮やかな髪色が滲み始めた。それに気付き、睦は思わず口角を上げる。しかし、双眸が弧を描く事は無い。――ふと廊下を駆ければ、睦はその人影をこちらに引き寄せたのだ。
「――この子に決まってるじゃん!」
「……は?」
「…………新手の嫌がらせ?勘弁してよ」
「さつきちゃんひどい!労わりだよ!ね、轟くん!」
「いや、話が全く見えないんですが」
睦が引き寄せた人影とは、叶うなら出来るだけ寄り付きたくない幼馴染――轟――だった。事情も何も聞かされず、追い求めていた存在に溜め息を吐かれるとはあまりに不憫な状況である。――轟は、偶然にも体育館
側の廊下を歩いていた。HRが早くに終了し、今から帰ろうとしていた所である。そんな時に、嫌われている筈の人間に捕まった事を嘆くべきか、会いたかった存在に会えた事を喜ぶべきかは分からない。
「せっかくヒーロー科の鍛錬を受けてる幼馴染がいる事だし、送って行ってもらったら良いじゃん!」
「いや、あの」
「嫌なの?」
「っ、……い、やってわけ、じゃ」
「じゃあ良いじゃん」
「ちょっと成田!」
「――嫌じゃねえのか」
半ば暴走してしまっているらしい睦の勢いを止める為に声を荒げるが、それに反応を示したのは当人ではなく轟だった。くい、と捲ったカッターシャツを軽く摘まみ、さつきを見つめる。何処か不安げに緩んだ双眸は、幼少期と何も変わっちゃいなかった。――そしてわたしも、その表情には滅法弱かった。恨みに恨んで、大嫌いって思って、もう、顔も見たくない、って思ってたはずなのに。雄英なんか行くもんか、って意地になってたくせに。今、わたしはこの子の言った通りの人生を歩んでる。それが、泣きたくなるほど情けない。
「…………勝手にして」
「じゃあ教室まで迎えに行く」
「そ、それは止めて」
「勝手にしろっつったろ」
「揚げ足取らないでよ」
「……じゃあどこだったら良いんだ」
「…………正門」
「分かった」
そんな気持ちを押し込む様に、さつきは視線を逸らし、歩を進める。それの後を追う轟の姿は、やはり幼少期と何も変わっちゃいない。しかし僅かに強引な物言い、随分と低くなった声音、見上げる背丈はどう頑張っても男の子だった。――そんな二人の会話を、睦は後ろから眺める。何処からどう見ても意地を張っているだけのさつきの姿に呆れながらも、睦は漸くゆるり、と目を細めた。そして、轟の肩を掴む。
「貸し一だからね」
「…………あんた、俺のこと嫌いじゃなかったのか」
「嫌いだよ。さつきちゃんはあたしのものだもん」
「…イラつくな」
「自業自得でしょ。あたしのせいじゃない」
戸惑いの中に僅かな苛立ちが募るのが分かる。それに気付かないふりをして、睦は煽る様に表情筋を緩めた。単細胞はこうすれば理性を崩すんだろう、と言いたげな表情である。ふと、轟の肩を掴む手に力が宿った気がした。そして、それは気のせいではない。手を振り払わないのだから罪悪感、図星でさえ感じているのだろう。しかし、その鋭い眼光は収まる事を知らない。――寧ろ、あたしを殺そうとしてるみたい。
「――あんたには渡さねえ。さつきは俺のだ」
でも、散々泣かせた男にやれるほど、あたしの執着は安くないんだよ一年坊や。
従順にも正門でさつきを待っていた轟は、やはり周囲の視線を集めていた。――当たり前だ。No.2ヒーローのサラブレッドに個性の複数持ち、それに加えてあの容姿では目立たない方がおかしい。顔の火傷もその人気を助長させている様な気がした。そんな幼馴染に声を掛けるのを躊躇っていたのだが、そんな戸惑いさえ無視して轟はこちらへ駆け寄って来る。その瞬間、僅かに緩んだ頬にときめくなんて絶対におかしい。
微妙な距離感を保ったまま、ゆっくりと通学路のアスファルトを踏み締めて行く。その途中で買い物を思い出したさつきは、何時も利用している駅前のスーパーへ訪れる事となった。
「なに買うんだ」
「……お刺身、かな」
「魚好きだよな、昔から」
「蕎麦とちがって健康的でしょ」
「蕎麦にも栄養はあるぞ」
中学の頃、さつきが頻繁に通っていたスーパーとは異なる店舗だ。しかし、その雰囲気は何処か通ずるものがある様な気がしている。――夕方だからか、品揃えが豊富とは言い難い。惣菜コーナーには、油分が多いだろう揚げ物が並べられている。酒はケースごと売れ残り、お菓子コーナーでは小さな子どもが楽しげに物色を重ねていた。そんな様子を見て、さつきはゆるり、と
瞳を細める。愛おしそうに、しかし羨ましそうに、諦めの視線を向けた。そして、轟の発言にふと笑みを零す。
「…なにそれ」
――そう言って笑ったさつきは、昔と何も変わっちゃいなかった。困ったように下がる眉も、恥ずかしそうに赤くなる目元も、控えめに緩む口元も、俺が知ってるさつきだった。優しくて、俺にとってはどんな人にも負けないくらいかわいくて、今すぐ抱き締めたくなるくらい小さな女の人。そんな気持ちをめいっぱい押し殺して、買い物かごを一緒に持つ。驚いたように俺を見るけれど、引く訳がない。拒まれない嬉しさに、思わず笑った。
「学校に戻るのか?」
「近くだから。こっち通った方が早い」
買い物を終えたさつきは元来た道を辿り、僅かながら涼しくなったアスファルトの陰を踏み締める。その歩みをなぞる様に、轟もその後に続いた。――雄英高校を囲む塀が見えた所で角を曲がる。昔、何度も訪れたあの場所とは大きく異なる、狭苦しい住宅街だ。一軒家よりも小さいマンションや古臭いアパートが多く立ち並ぶここは、過去を断ち切りたいさつきの決心がひしひし、と見え隠れしている。
「……なんで、教えてくれたんだ」
「…なにが」
「食堂で鉢合わせた時は何も教えてくれなかっただろ。…恨まれてる事は知ってる、けど」
「…………少し、冷静になれた、から」
「え?」
「…あの時は大人げなかった、と思う」
何処か言いづらそうに、さつきは言う。その言葉達に、轟は思わずぱちくり、と瞬きを繰り返した。――轟はもう、さつきを大人だとは思っていない。寧ろ、守りたいと思える存在だ。しかし、その当人がその想いに気付く事は無い。それでも良かった。自己満足でも、ずっと恨まれても、ずっと側に居ると決めているのだから。そんな想いが向けられているとは知らず、彼女はくるり、と踵を返す。夕陽に照らされたその姿は、酷く眩しいそれとして映った。
「さつき…」
「…本当は、わたし――」
僅かに身じろぎをしただけで、買い物袋が音を立てる。それに目を向けられぬほど、轟はさつきの言動に夢中だった。――近付こうとすれば、ジャリ、とアスファルトが意図せず喋る。ぴく、と僅かに跳ねる細い肩を掴みたくて仕方がなかった。そんな時だ、彼の視界の端に居てはいけないものが映ったのは。夕陽に反射する光は確かに、さつきに照準を定めていて。轟は反射的に、彼女に手を伸ばしたのである。
「ッ、――さつき!」
その名を叫び、小さな身体をその腕に抱き留める。その直後、さつきが立っていた場所には巨大な斬撃の痕がくっきりと残っていた。――耳元で、焦凍くんの息遣いが聞こえる。荒くて、焦っているようなそれ。ゆっくりと視線をずらすと、普通の人間では到底太刀打ち出来ない程の影がわたし達を覆っていた。もしかして、これが成田の言っていた
敵なんだろうか、と考える。焦凍くんの、腕のぬくもりだけが現実のように思えた。
「なんだ、これ」
「
敵…?」
「デカ過ぎだろ、ありえねえ……」
「でも、これ、わたし達、狙ってる」
夕陽の眩さを掻き消す様にさつきと轟の前に立ち塞がる
敵は、ゆるり、と楽しげに口角を上げた。その瞬間、ぞくり、と湧き上がる感覚はきっと恐怖である。きゅ、と轟の腕を掴めば、轟はより一層強く彼女の身体を抱き締めた。片言で紡がれる彼女の言葉に、轟は無意識に歯を食い縛っている。――どうする、どうする。学校とは微妙な距離、さつきは恐怖から震えが一向になくならねえ。俺が、俺が守らなきゃ。なんの為に鍛錬を繰り返してんだ。なんの為にクソ親父の鍛錬に付き合って来たんだ。
全部、さつきを守りたいからだろうが!
「……さつき、掴まれ」
「へ、ッ」
「――走るぞ!」
さつきが反応を示す前に、轟はその小さな身体を抱き上げた。地面から足が離れてしまえばその腕に縋るしか術は無い。控えめながらも彼の首筋にしがみ付けば、その彼は広がったメインストリートへと駆け出したのだ。ふと顔を上げてしまった先にはこちらに、明確に敵意と殺意を向ける
敵が居る。思わずぞくり、と恐怖を味わうも、すぐさま包み込んで来たのは一回り大きくなった轟の掌だった。――見るな――そう言いたげにさつきの髪を撫でたそれは骨張っていて、とても、男の子だった。
「ッ、ねえ!どこに行くの!?」
「表の国道に出る!こんなところで個性なんか使えねえだろ!」
「ばか!私的に個性使っちゃだめなの忘れたの!?」
「そんなこと言ってる場合かよ!」
時折仕掛けられる攻撃を器用に避けながら、轟はさつきを抱えて国道へ続く道を走り続ける。ちらり、と地面を見下ろせば、明らかに彼の足元を狙った攻撃の痕跡が見て取れた。――このままじゃ、死ぬ。そう思った。腕にかかる息は焦凍くん以外考えられなくて。わたしを抱えてるからこんなにも息が上がってるんだろう。無意識にぎゅ、と力をこめたら、焦凍くんはより一層強くわたしを抱き締めた。
個性の使用を咎めたが、さつきのそれでは時間稼ぎ程度にしかならない事は明白である。轟は守れるかもしれないが、当人は捨て身の覚悟だ。そして、そんな状況になる事が分かっていて彼が許す筈もないのである。――二人が国道へと出た瞬間、周囲の建物が音を立てて崩れて行く。ガラスの破片や割れたコンクリートが周囲を巻き込みながらも、
敵は二人しか眼中にないようだ。鋭い鉤爪をこちらに向け、どう切り刻んでやろうか、と舌なめずりをする。その瞬間、巨大化した
敵は掻く様に、大きく腕を振り下ろしたのである。
それと同じタイミングで、耳を
劈く様な音がさつきの鼓膜を震わせた。恐る恐る目を開ければ、そこには巨大な氷の壁が存在している。ほっ、と安堵の吐息を漏らす一方、彼女は言いようのない焦燥感に襲われた。周囲の喧騒も、プロヒーローの到着も、何も聞こえない。――あ、だめだ。これ、この氷、あの時。髪の毛。伸ばされた手を掴めなかった。殺されそうになった、守られた。なにも出来なかった。
嘲笑うような、冷たい声。
『元無個性が喚き散らしてんじゃねえぞ、出来損ない』
――なにも!
「……さつき?」
あれだけの逃走劇が噓の様に、目の前の
敵は呆気なくプロヒーローに捕らえられた。事情聴取は警察署で行われるらしい。――その様に話が纏まった所で、轟は漸く安堵した様に胸を撫で下ろす。そして、さつきを降ろそうと僅かながら腕に力を込めた。しかし、彼女の震えは収まっていない。寧ろ、酷くなっている気さえした。名を呼んでも、顔さえ上げないこの状況は明らかにおかしい。
今度は二回、「さつき」と呼ぶ。すると、当人は失神したかの様にがくり、と膝を折り、倒れたのだ。
「おい、さつき!」
「ッ、……や、いや」
「さつき?」
「……さ、れる。ころさ、れ」
「ッ、しっかりしろ!」
「…しょうとくん、が、ころされ――」
「――え?」
地面に座り込み、何度も何度も「いや」と呟く。轟の呼び掛けにも答えず、ただただ同じ言葉を繰り返した。なにがそんなに恐ろしいのか、さつきは唇を震わせて耳を塞ぐ。そして、漸く呟いた「しょうとくん」と大粒の涙に、彼は思わず目を見開いたのだ。――それと同時だ、さつきが気を失ってその場に倒れたのは。軽く身体を揺すってもぴくりともしない。その状況が、五年前のあの日と重なった。乱雑に髪を切られ、ボロボロになった「さつき姉ちゃん」。血飛沫が付着した、真っ白のブラウス。俺の声が届かないのは、もう、いやなのに。
「さつき、さつき、ッ」
俺の泣きそうな声に野次馬が増えて、プロヒーローもこっちに目を向けている。でも、そんな事はどうでも良かった。ふれたくて、感じたくて堪らない、いとしいぬくもりが離れて行く。それが、恐ろしくて堪らなかった。――あの時と一緒だ。なにも出来なくて、守る事さえ、手を出す事さえ出来なくて。もう嫌だって言っただろ。頼むから、起きてくれ。もう離れねえ、って誓うから、今ここで眠るのだけは止めてくれよ。
「ッ、――さつき!」
俺はもう、お前がいねえと弱い「焦凍」に戻っちまうんだから。
「――起きたか」
ふと、自然に光が与えられる。目には優しくない、真っ白い、生きた心地のしないそれだ。身体が浮いた感覚が消えない。それから突き放してくれたのが、この空間には似合わぬ低いベースの声が響いた。首元以外が黒く覆われたその人影に威圧感を感じつつも、僅かに緩んだその目元にさつきも表情筋を緩める。そして、掛けられた一言に彼女は漸く気絶していた事を知る。道理で身体が怠い筈だ。
「……相澤、ちゃ…」
「記憶はあるか?」
「う、ん。ここ…」
「雄英の保健室だ」
「…怪我は無かったけど、何で倒れたか分かるかい?」
「……いえ、
敵が確保されたところまでしか、分からなくて――」
「アングラ系ヒーロー」と呼ばれるに相応しい、微妙な表情筋の動きだ。しかし、その双眸に仄かな温もりが宿っている事を知っている。ベッド脇では、リカバリーガールが心配そうにこちらを見下ろしていた。黒目しか見えないが。――寝起きだからか、何処か惚けた様子でゆっくりと言葉を紡いで行く。しかし、一旦それを区切った瞬間、あの時ずっと己を守ってくれていた存在を思い出し、思わず上体を起こしたのである。
「ッ、焦凍くんは!?」
「『焦凍』…?」
「廊下にいるはずだよ」
リカバリーガールのその一言を聞いた瞬間、さつきは相澤の呼び掛けを無視して一目散に立ち上がった。――激しい音を立てて、保健室の扉が開かれる。そのすぐ横で壁に凭れ掛かっている轟は、さつきの存在に気付くや否や、安堵の吐息を吐き出した。随分と離れてしまった互いの背丈だが、絡み合う視線の熱は変わらない。――どうしてこれを手離してしまったんだろう――轟はそう思う。そんな彼は、鎖骨まで伸ばされた目の前の黒髪に触れた。唐突な温もりに、さつきはぴく、と肩を震わせる。
「……身体、平気か」
「…うん。あの、急に倒れちゃったって、聞いて」
「気にすんな。学校が近くて良かった」
「……別に気にしてない」
「そうか」
――ああ、またこんな憎まれ口。ありがとうって、その五文字を言うだけで良いのに。怒ってくれて良いのに、何でそんなに嬉しそうに笑うんだろう。伸びたサイドの髪を撫でつけられて、頬っぺたが擽ったい。でも、楽しそうに触るものだから何も言えない。多分、この子がわたしをここまで運んでくれたから。どうしてか言葉は出ないけれど、「ありがとう」と言いたくて、わたしは思わず目を細めた。
「…俺、ずっとさつきに謝りたかったんだ」
「え…?」
「自分の事しか見えてなくて。お前がどんな思いで雄英に進んだとか、全然、分かんなくて」
「…うん」
「緑谷、…友だちに言われた。――許されないのを怖がるのは我が儘だ、って」
「……うん」
「だから、ごめん。許さなくて良いし、恨んで良い。……それだけ、言いたくて――」
きゅ、と髪に触れる手を、さつきは軽く握る。その手はやはり震えていた。――この人はまだ、俺の前では泣けない。歪んだ顔さえ見せてくれない。分かってたし、さつきは昔のままだった。でも、さつきから手を伸ばされる事が嬉しくて堪らなかった。――さつき、すき、すきだ。たいせつだ。そばにいたい。もう、誰にも渡さない。――そんな気持ちを押しつけるように、俺はさつきの身体を引き寄せ、抱き締めた。
「とどろ、き」
「……嫌か?」
「…………ち、がう」
「なら、良かった」
「……轟の、体温」
「ん?」
戸惑いがちに呼ばれる他人行儀な名も、もうどうでも良かった。回されない腕も、今触れる事が出来るならどうでも良い。――ストレスだろうか。少しパサついた黒髪に口元を埋め込む。仄かに香る、柑橘系の香りが鼻孔を擽った。腰に回した腕をきゅ、と力ませた瞬間、胸元にさつきの吐息が掛かる。女性にしては少し低めな、落ち着いた声音が轟は好きだった。そんな彼女を見下ろし、泣きそうになる。僅かに緩んだ灰色の双眸が、酷く愛おしく感じた。
「――あったかい、ね」
さつき、すきだ。昔から何も変わらない、あまりに純粋なこの人がすきでたまらない。