そうしてきみは泣いて、笑った。
「さつきちゃん、おっはよ!」
その一声で、さつきの意識を覚醒させたのは睦である。何処か涼しげな視線を向けても、睦の表情は変わらない。寧ろ視線が合った事で、笑みをより深めてしまった気がした。その表情には、昨日、轟に向けた様な薄暗いそれは見当たらない。――気のせいだったのだろうか――そんな事を思いつつ、さつきは睦の隣を陣取った。そして「おはよう」と返す。僅かに緩やかな声音は睦だけの特権である。
「……ね、ね、昨日どうだった?」
「……あー、ちょっと、ね。色々あって」
「いろいろ?」
「――
敵に襲われた」
そう言った瞬間、睦は「はあ!?」と声を張り上げた。そんな彼女の様子に思わず苦笑を漏らしつつ、少しだけ、伸びたサイドの髪を耳に掛ける。涼しげに見えるそれは、仄かに赤く熟れていた。それを視界に収めた睦は、さつきの見えぬ所で眉を顰める。聞かずとも、轟が関係している事は明白だった。――それが腹立たしくて仕方がない。けど、さつきちゃんには怪我一つ見当たらない。それが余計に腹が立った。
「……やっぱり今日、ご飯止めて帰る?」
「え、何で?」
「だって昨日今日、って大変じゃん」
「やだよ。楽しみにしてたの、わたしだけ?」
「…………あたしも楽しみにしてた」
「なら良いじゃん。予約してくれてるんでしょ?行こうよ」
…ほんッとこう言うところがあるんだよこの子は!――体育祭が終わってから、さつきは妙に本音を曝け出す事が増えた。明け透けに笑う事はしないものの、雰囲気が柔らかくなったのだ。天喰との対戦を観て、あの激昂の言葉を聞き、彼女を「人殺し」と呼ぶ人間も減った。人の噂とは、そう言うものだ。初戦相手である角田も、敵意が篭ったあからさまな視線を向ける事は無くなった。寧ろ、何処か気まずいそればかりを与えて来るのである。
「……行かないの?」
「行"ぐ……」
「なんで潰れた蛙みたいな声なの?」
「さつきちゃんのせいだもん!」
「意味分かんない」
「ここの予約、良く取れたよね。いつも大行列じゃなかった?」
そう言って、さつきはメニューに目を通して行く。――睦が予約をしてくれたのは、静岡県で有名な肉専門店である。何時見ても行列を作っているその店は、恐らく予約を取るのも難しかっただろう。しかし睦はえへへ、と笑って誤魔化し、同じ様にメニューを見下ろした。周囲を見渡すと、客層は男女のカップルや家族連れが殆どである。そのどれにも笑顔が浮かんでいて、思わず頬が緩んで行く。叶わないながらも、羨んでしまうのは仕方のない事の様に思えた。
「いつか来たいね、って話してたから来ちゃった。平日で良かったよね!」
「夜だもんね」
「わたし、このエビフライのやつ」
「じゃあ、あたしはビーフシチューのやつにしようっと!」
「…………成田って見た目に似合わずめっちゃ食べるよね」
「エッ、普通でしょ?」
「……もう何も言わないね」
呆れた様にさつきがそう呟くも、睦はこてん、と首を傾げるばかりである。――これは、さつきが睦と知り合ったばかりの頃から不思議で堪らない事だった。その細い身体の何処に大量の食料が入るのか。苦しい表情も見せず、ただただ美味しそうにそれらを喰らうのだ。一度聞いた時は「『個性』の関係で気力の消耗が激しいからいっぱい食べなきゃいけないんだよね!」と話していたが、見た目とのギャップに二度見した日は決して忘れないだろう。
15分後、二人が頼んでいた物がジューシーな音を立てながらテーブルに届いた。ココットの中にはぼてっとしたタルタルソースが入れられており、それを押し潰す様に揚げたての、大きなエビフライが存在を主張している。睦の前に置かれたプレートには耐熱のシチューボウルがあり、その中ではどろりとしたビーフシチューがぐつぐつ、と煮立っていた。その横にある楕円形のハンバーグは鉄板に焼かれ、綺麗な焼き目が付いている。それらを見て、二人は思わず瞳を輝かせた。
「美味しそう……!いただきます!」
「いただきます」
二人して手を合わせ、ハンバーグを一口サイズに切り分ける。ナイフによって肉が鉄板に押し付けられ、じゅわり、と音が鳴った。その上でぐつぐつ、と煮立つハンバーグソースを絡め、口へと運ぶ。すると、口いっぱいにソースの味と肉の熱さが広がった。ちらり、と睦の様子を盗み見ると、既に目の前の物に夢中であるようだ。思わず含み笑いを零しつつ、さつきはエビフライを鉄板の上に移動させ、再び一口サイズに切り分けた。それをタルタルソースに
潜らせ、噛み砕く。サク、サク、と響く衣の音が心地好い。
時たま会話を挟みつつも、評判以上だったこれらをぺろりと平らげてしまった。会話が少ないのは何時もの事である。
「…さつきちゃんはさ、轟くんのこと嫌いじゃないでしょ」
「…………えっ」
「その反応腹立つ!」
「ご、ごめん」
「……二年かけてさつきちゃんの親友ポジまで上り詰めたのに」
じとり、とした視線を向けられているのにも関わらず、さつきはびくん、と肩を震わせ、図星を突かれた様に頬を赤く染めた。――可愛い。可愛い!のに!そんな顔をさせてるのがあの男だって事がむかつく!そんなあたしの気持ちにも気づかず、きょとん、と首を傾げた。こんなさつきちゃんを見たのは、三年に上がってから。多分、轟くんが入学したから。そして、轟くんがさつきちゃんをもう一度追いかけてるから。
「…わたし、睦のこと好きだよ」
「っ、〜〜もう!こんな時だけ名前呼びとかずるい!」
「ごめんね」
「……いくら甘やかされても轟くんは嫌いだからね」
脈略もなく、さつきはぽつり、と言葉を零す。何時もの三文字ではない、何処か慈愛さえ籠った二文字に睦は思わず瞳を細めた。そして、拗ねた様に手の平で両頬を支える。――多分、全部わたしの為に、轟に何も言わない事は分かってる。誰だって、自分のポジションを脅かされそうになったら警戒するもんね。ただ意地を張っているだけのわたしに気づいて、嫌いじゃない事も知ってるくせに、しっかりと向き合ってくれる成田だから好きだった。
「――うん、良いよ」
轟が羨ましい。人気者の暗い感情なんて、なかなか向けられるものじゃないんだもん。
21時を過ぎ、睦を駅まで送り届ける為に店を出た。店から駅までは徒歩五分、彼女はそこから暫くの間は電車に揺られなければならない。最寄り駅が大きいそれで良かった。何時の時間もパワーが溢れる彼女は、改札を抜けた先でもぶんぶん、と手を振っている。その様子に呆れつつも控えめに手を振り、さつきも帰路に着く。仄かな街灯を視界の端に捉えながら、さつきは少しだけ、ゆっくりとアスファルトを踏み締めている。
――轟の事は嫌い、じゃない。二年前、街中で見たあの子じゃなかった。でも、昔、「さつき姉ちゃん」と懐いてくれていた頃ともちがう。どこか、熱が篭っているような。思わず目を逸らしちゃうような、あまりに真っ直ぐ過ぎる視線だった。嫌いじゃない、うそじゃない。ただわたしが、突然あの子の人生から弾き出されたような気がして、さみしかっただけ。
国道から逸れて行くにつれて、眩い程のビルの明かりではない、温かな一軒家のそれが増えて行く。幾ら夏だと言っても、真ん丸い月が顔を覗かせては微かな肌寒さを感じた。ふと端末の画面を見ると、時刻は既に21時半を回っている。それを確認した瞬間、ぞくり、と背筋に何かが這い回った、気がした。思わず
頭を振り、足早に歩を進めると、コツン、コツン、とローファーが高らかに鳴く。――止めてよ、もう。
「…………どうすれば良いの」
「――死ねバいイ」
ローファーの音とは対照的に、唸る様な声音がさつきの全身を駆け巡る。月明かりの影さえも失ったアスファルトに気付き、ふと後ろに振り返った。そこにあったのは先日、彼女と轟に襲い掛かった
敵と瓜二つなそれだったのだ。――暑さのせいではない汗が輪郭を辿り、地面へと落ちて行く。「え…」とたった一言の声音が響いたかと思えば、口内が乾いて仕方がない。さつきの小さな身体を飲み込む様に伸びた胴体は黒く、そして澱んでいた。
「な、んで…」
「ゆウ、エイ、――殺、ス!」
独り善がりにもそう叫ばれた瞬間、その場には鼓膜に響く衝撃音と煙が広がる。それが静まり始めた時、その場に見えたのはさつきの身体を切り裂こうとせん鉤爪、そしてそれを個性で受け止める彼女だった。双方の力が拮抗すればするほど、その場にはギリ、ギリ、と危険な音が響き渡る。そんな中、爪先を凝視すると、そこに付着する赤黒いものが視界に映った。――血だ――ぞくり、と心臓を握られた感覚に襲われる。
――だめだ、殺される。そう思ってしまえば小細工なんて、とてもじゃあないけど考えられなかった。個性を消す事も、攻撃する事も。ただ、逃げて、願う事しか出来なかった。
あの時みたいに救けてよ、焦凍くん。
「悪りい、こんな時間まで付き合わせちまって」
そう言ってトレーニングルームから出て来たのは轟だ。その後ろには緑谷と麗日も居る。――元々、今日は放課後をトレーニングに充てるつもりでいた。21時のタイムリミットまで氷の最大出力の向上をみっちりと、炎熱のコントロールを少しだけ。憎くて堪らないあの男のレールのままに進んでしまっているのは癪だが。しかし、そこには先客が居た。それが、緑谷と麗日だったのである。
「全然ええのに!寧ろ轟くんとこんな風にトレーニング出来るとは思ってなかったもん!」
「なんでだ?」
「ほら、体育祭の前まではそんなに喋らなかったじゃないか」
「……悪りい」
「エッ、いや!大丈夫だからね!?」
「…そうか」
轟と緑谷は電車通学、麗日は駅近くのアパートを借りているため、三人はその駅へ歩を進める事になった。その道中で話題となるのは、やはり轟の急激な性格の変化である。それの自覚はあるらしく、ぽつり、と声を響かせる。――轟くんのせいじゃないのになあ――それを言っても轟はまた首を傾げるだけだろうから言わないが。以前の性格がなければ、さつきとここまで拗れていない。しかし、それがなければ緑谷とここまで仲良くなっていないんだろう、とも思う。
「…そう言えば、幼馴染の人には謝れた?」
「――ああ、謝れた」
「そっか!良かった!」
「轟くんは深海先輩に告白せんの?」
「…………いや、まだ、だめだと思う」
「どうして?」
「だって、あいつは――」
ふと変えられた話題に、轟は僅かながら表情筋を緩めた。その脳裏にはやはり、何時だってさつきが居る。己の腕に抱かれる小さな身体と柑橘系のシャンプーに混じる、温もり。戸惑いながらも「あったかいね」と響いた少し低めの、落ち着く声音。それを思い出しながらも、決してそれを口にはしなかった。――五年前のあの日を清算しない限り、喉まで出かかったその二文字は言えやしないのだろう。
ふと顔を上げて、緑谷の方へ顔を向ける。その瞬間、目の前ではあまりに激しい衝撃音と煙が広がったのである。
「な…っ」
「――轟くん!」
「なんなんこれ!」
衝撃音の正体は轟によって受け止められ、そのまま雄英高校の防壁に突き当たったのである。前方では、混乱の色が孕んだ緑谷と麗日の声が響いている。――げほ、げほ、と煙によって呼吸器官が圧迫される。漸く煙と轟の視界が晴れた先に居たのは、多数の掠り傷を与えられたさつきだった。地面に手をつき、汚れた身体を必死に支えている。その姿が妙に震えている様に思えて、彼は思わず小さなその身体に手を伸ばしたのだ。
「さつき、お前…」
「ッ、下がって!」
轟の言葉を遮り、さつきはそんな彼の身体を壁に押しやった。そして、それを守る様に三重に重ねた空気の盾で
敵の攻撃を受け止める。その様子を眺める事しか出来ない緑谷と麗日は驚きを露わにし、後方の衝撃による突風をいなしていた。その様子を細まった視界で見届けたのち、さつきは
敵の
項に狙いを定め、空気を鋭利に凍らせたナイフをそこに振り翳す。しかし、それは異常にリーチが長い鉤爪によって薙ぎ払われ、防戦一方にならざるを得なくなったのである。
その勢いのまま鉤爪は再び振り翳され、さつきの個性を突き破った。――もう一突きを浴びれば、大怪我じゃ済まない。――そんな仮定を立てた瞬間、目の前には寒気さえ感じる氷が広がり、攻撃を受け止めていた身体は轟の手によって抱かれる事となったのだ。
「あいつ、昨日の
敵か!?」
「多分、ちがう。爪が血だらけだった。――恐らく、アレが主犯」
「どう言う事ですか!?」
「……異形型なのか、個性の複数持ちなのかは分からないけど、何らかの方法で
敵を量産してる、…かも」
「そんなん出来るんですか?」
「分からない。けど、『雄英殺す』って言ってた」
「ここら辺りで有名なヒーロー校は雄英くらいか」
轟に対する返事の代わりに、さつきは彼の肩をきゅ、と握った。――多分、アレの狙いはわたしだ。二日連続、似たような場所で同じような
敵に襲われるなんてどんな悪運持ちだ。もしそうだとしたら、彼らを巻きこんじゃいけない。そう思ったわたしの行動は早かった。轟の腕の中から脱出し、わたしの背丈より何倍も大きいそれを見上げる。それも、わたししか眼中に入っていないみたいだった。
「プロヒーロー、…いや、警備員さんでも良い。誰でも良いから呼んで来てくれない?」
「……さつきはどうするんだ」
「…多分、コレの狙いはわたしだから」
「っ、まさかタイマン張るつもりですか!?」
「だ、だめですよ!危険過ぎます!」
「――却下に決まってんだろうがクソさつき」
「ッ、は、はあ?」
――わたしが一手に引きつける――雄英所属のプロヒーローも、こんな住宅街を律儀にパトロールする警察も居ない。ここに居るのはヒーローの卵が三人、強大な力を最も恐れる一般人が一人だけである。さつきは既に引く気は無い。しかしそんなさつきに向かって、轟はエンデヴァーに投げる時の様な暴言を吐き出したのである。思わずさつきが振り返ったその瞬間、轟は氷で
敵の動きを止め、さつきを睨み付けた。その鋭い視線にびく、と跳ねた肩には、きっと気付いている。
「――ふざけんなよ、いい加減にしろよ。一人で相手する?出来るわけねえだろ。ばかも休み休み言えよばかさつき!」
「な…っ」
「いつまでガキ扱いするつもりなんだよ、お前」
「が、……ガキじゃん」
「っ、何の為に嫌いで堪んねえクソ親父の修業受けてヒーロー目指してると思ってんだよ!全部さつきが泣かずに済むようにだろうが!」
「そんなの一度も言ってくれた事なかったじゃん!」
「言おうとしたけど、お前が俺の事を避けまくるから言えねえんじゃねえか!」
――めっちゃ喧嘩してる…。――これが緑谷と麗日の総意である事は言わずもがな、である。売り言葉に買い言葉でヒートアップして行く口喧嘩も時間が過ぎれば、氷の耐久力も失われて行くのだ。前方からはピキ、ピキ、とひび割れの音が響き、地面に氷の破片が落ちて行く。――今まで動きを止められていた反動だろうか、
敵の双眸は先刻以上に殺意に
塗れている気がした。地面に落ちた破片を薙ぎ払う様に鉤爪を振り回す。それからさつきを守る様に、轟は彼女の身体を引き寄せた。
「素人のわたし達に抑えられるわけないじゃん!」
「それが分かってて何で一緒に逃げる、って選択肢がねえんだよ!」
「ッ、だって…」
「…ちゃんと聞くから。側にいるし、守るから。もう、手離さねえって決めたから」
「そんなの、わたしのいる意味がなくなっちゃう……」
「――は?」
敵との距離を取ったあと、何時の間にか個性を発動させていた緑谷は、それに向かって拳をめり込ませた。背丈のハンデがかなりあった筈だが、どうやら麗日に浮かせて貰ったらしい。そんな喧騒の中であるにも関わらず、轟の耳は耳聡いのだ。――さつきがいる意味なんて考えた事もない。隣にいるのが当たり前で、視界から消えるなんて考えられなくて。今だって、俺の腕の中にいる。ただ、このぬくもりがあれば良くて。この人が、さつきが、
ただ笑ってくれるなら、俺はそれだけで良いのに。
「……『意味』って何だよ。俺がさつきに懐いたのは同情でも、利用価値があるからでもねえぞ」
「しょうと、く…」
「…あの男にされた事も、死にたくなるほど苦しんでた事も、ほんとは、死ぬほど
救けを求めてた事も、もう知ってる」
「それは…」
「――けど!俺はもう守られるほど弱くねえ!側にいる!こうやって、守ってやれるから、……頼むから、言葉にしてくれ」
――絞り出すように言葉を紡いで、強くわたしを抱き締めた焦凍くん。全部全部分かってて、それでもわたしの意地をすべて赦してくれる優しい優しい焦凍くん。それに縋って、それにあまえて、それでも弱音を吐かないわたしはきっとずるい。赦してくれるって、知ってるから。でも、色違いの
瞳を細めて、わたしを求めてくれる姿を見てしまえば逃げられなかった。もう一度、口約束を信じたくなった。信じて、縋っても良いのかな。
「――ただ一言、さつきが『救けて』って言ってくれたら、俺は何があってもお前を守るから」
もう一度だけ、きみの前で泣いても良いんだろうか。
「……け、て」
「…さつき」
「ッ、――たすけて、しょうとくん」
恐る恐る、口を開く。その唇は、恐らく震えていた。その所為でなかなか声が響いてくれない。しかし、宥める様な轟のそれが響く。それに僅かながらも肩を震わせ、きゅ、と彼の裾を軽く掴んだ。その後に紡がれた言葉に彼は目を丸くしたが、満足気に笑い、「――よし」と言って頭を撫でてくれる。――あたたかかった。うれしかった。涙が零れて、仕方がなかった。随分と逞しくなった身体に抱き着くと、同じような力で返してくれる。最初からこうすれば良かったんだよ、わたし。
あのあと、麗日の個性によって浮かせられ、彼女と共に
敵との戦闘を見届ける事になった。轟の炎熱が鉤爪を焦がし、そちらに意識を向けている隙を突いて緑谷が再び拳を
敵の頬にめり込ませる。その衝撃によって意識の混濁が起こり始めた所を、轟が見逃す筈もなかった。
敵の足場を氷で固め、「緑谷!」と声を張り上げる。それが合図であると認識した緑谷は鳩尾を突き上げ、その巨大な胴体を壁へと押し付けたのである。
敵の個性はどうやら「異形型」であったらしく、気絶するや否や脅威であった鉤爪は、ぱきり、と砕けてしまった。ふと辺りを見渡すと、広範囲に亘って地面や壁が割れている。謹慎は免れないだろう、と内心冷や汗を掻くが、今の優先順位がさつきである事に間違いは無かった。「さつき」となるべく優しく呼び掛けると、瞳にいっぱい涙を浮かばせてこちらを見上げる。
「……しょうと、くん」
「……おう」
「けが、ない……?」
「なんともねえ。…さつき、もう名前、呼んでくれんのか」
「…だって、もう、呼んでも良いんでしょ」
「……禁止したつもりは無かったんだけどな」
ぽつり、と囁く様な声音は妙に甘ったるい。とろり、と溢れる様なそれに、轟は思わず双眸を細めた。そして、零れ落ちそうになる涙をそっと指の背で掬い取る。ゆるり、と力が緩んだ表情筋は、きっとさつきだけのものだった。――何かを我慢する様に、ぐっ、と下唇を噛み締める。しかし、震えるそれはさつきの願いを叶えてはくれなかった。ぽたり、と地面に染みを作る涙は次第にぼた、ぼたり、と重みが加わって行く。
「…………ずっと、呼びたかった」
「え…?」
「焦凍くん、って、ずっと呼びたくて。でも今更、呼べなくて。体育祭で炎を使う焦凍くんを見て、ほんとはわたし、ずっと、ずっと、」
「……うん」
「――ずっと、焦凍くんにあいたかった」
五年もの歳月を掛けて漸く本音を吐き出したさつきの身体を、轟はやっとの事で腕の中に収める。肩口の衣服に涙が染み込んで冷たささえ感じるが、そんな事はどうでも良かった。背に回される温もりを感じる事が出来るなら、それを信じる事が出来るなら何でも良かった。――すり、と火傷がある方の頬を擦り寄せると、さつきの身体は微かに跳ねる。しかし、離れないそれに轟は甘えた。
ぽんぽん、と彼女の後頭部を撫でると、漸く二人の距離は離れ、視線が絡み合う。色素の薄い、灰色の双眸にはあの頃より成長した轟の姿が映る。
「――やっぱり俺、さつきが泣いてるの、すげえ苦手みたいだ」
――そう言うと、さつきはおかしそうに笑った。