天国に一番近い場所
「――ンの馬鹿野郎どもが!」
翌日、さつきと轟、麗日、緑谷は相澤によって生徒指導室へと呼び出された。その後の第一声がコレである。轟と麗日、緑谷は静かに激怒する相澤に慣れている。しかし、さつきはそうではない。訓練中の助言として怒られる事はあれど、完全にこちらの落ち度を怒られる経験は無かったのだ。それに加え、今のさつきの精神状態は僅かに脆弱だ。そのため、さつきの涙腺が緩んでしまうのも仕方のない事の様に思えた。
「…さつき、泣くなって」
「だって相澤ちゃんがこんなに声を荒げる事とかないじゃんか……」
「な、……えっ、お、おま、何で泣いて…」
「今、色々と不安定なんです。すぐ泣きますよ」
「なんで先に言わねえ……」
「言う前に相澤先生が怒鳴ったんじゃないですか」
(相澤先生がめちゃくちゃ焦ってる……)
そう思ったのは緑谷だけではなく、麗日にも当て嵌まる。脈略もなく涙を零すさつきを見るのが初めてらしい相澤は、あからさまにおろおろ、と手と視線を迷わせていた。そこを責め立てる轟は何処か楽しげにさつきの髪を撫でており、恨めしそうな相澤の視線は無視である。ずび、と分かりやすい程に鼻を啜るさつきは、僅かに充血した目に相澤を映した。そして、小さく口を開いたのである。
「……相澤ちゃん、ごめんなさい」
「…………深海、怪我は無いか」
「平気。……焦凍くん、と、麗日ちゃんと緑谷くんが、守って、くれて」
「『焦凍くん』…?」
涙のせいで目は充血している。擦ってしまったのだろう目元は、赤く腫れていた。それだけで途端に幼く見えてしまうのはどう言った絡繰りなのだろうか。そんな状況のさつきは戸惑いがちになりながらも幼馴染を示す、この四文字を口にした。この二年間と少し、頑なに紡がず、ずっと避けて来たであろう言葉だ。そして、その隣に居る轟の表情筋が緩やかになっている様子を見て、相澤は己の「お役御免」を感じ取ったのだ。
「あ、あの!僕たち、プロヒーローを呼びに行こうとしてたんですけど!
敵に阻まれてしまって!」
「そ、そうなんですよ!だから深海先輩が悪い訳じゃなくて…!」
「……そうか、分かった」
「相澤先生…」
「…だが、教師と言う立場上、お前らには罰を与えなくちゃなんねえ。――よって、深海は明日から三日間の自宅謹慎+反省文三枚の提出!轟、緑谷、麗日は反省文三枚の提出!良いな!」
涙を溢れさせるさつきを宥める様に、そんな彼女の側に居る轟を背後に、麗日と緑谷は焦りつつも庇う様な言葉を紡ぐ。それらに納得してくれたか、と思いきや、それはただの杞憂で終わってしまったらしい。その後に響いた怒涛のペナルティに、さつきらはただただ圧倒されるばかりである。――さつきらはバラバラに肯定の意を示しつつも、一様に相澤と視線を合わせようとしない。そんな状況に溜め息を吐き、相澤は己の生徒らを見下ろした。
「――以上、授業を受けてさっさと帰れ!」
自宅謹慎初日、さつきは奥底に仕舞っていた、着る予定のなかった衣服たちを取り出して来た。中学の頃に轟と遊んだ時の服、小学生の時に気に入っていたそれ。そして、「大きくなったら着ようね」とかなり先走って購入した、少し遅れた流行りの服だ。艶のある黒髪をたなびかせて、何時だって小さなさつきを抱き締めてくれる。香る花の匂いも、水仕事で微かに荒れた細い指先も、大好きだった、と思う。
――随分と薄れた記憶。けれど、血まみれの指も覚えてる。今だって吐きそうだけど、それでも少しは救われた。
自宅謹慎二日目、高校に入ってから辞めていた料理を始めた。元々材料は冷凍保存をしていたので無問題、さつきは久し振りに包丁を握る。4分の1サイズの大根の皮を剥き、なるべく薄く、板状に切り分ける。それらを横にずらし、細く細く、を意識的に、そうすると大根の千切りの完成だ。それと胡麻マヨネーズを和えてサラダを作る。次に解凍してあったサーモンを切り分け、皿に並べておく。その上に乗せる予定の、薄切りにした玉ねぎを水でさらす。その間に携帯を鳴らした睦の通知に返事をしながら、調味料を混ぜたオリーブオイルを作る。そして、10分間、水にさらした玉ねぎとそれを和えた。完成したそれをサーモンの上に乗せ、余ったオリーブオイルを回し掛けて完成だ。土鍋で炊いていたご飯は出来立てで、湯気が立っている。
――中学に入ってから、人として扱われる機会は減った。それでも、焦凍くんだけがわたしの誇りだった。他人に生きる理由を委ねるなんて最低だって、分かってたけど。焦凍くんがいなくなってからは本当にだめだった。今こうして動けるのは、焦凍くんが体当たりで気持ちをぶつけてくれたから。だから今度は少しだけ、わたしから近づいてみようと思う。
「――え、放課後?」
轟がそうオウム返しをしたのは昼食を終え、自身の教室へ帰ろうとしていた時間帯だ。その相手は、
敵襲撃事件をきっかけに連絡先を交換したさつきである。しかし、頑なに電話は受け取らなかった筈だ。それにも関わらず、轟の鼓膜には彼女の声音が響く。その要件と言うのも、「放課後、ついて来て欲しい場所がある」と言うものだ。抽象的な物言いに轟は首を傾げるも、答えは既に決まっていたのだと思う。
『予定あった?』
「なにもねえ、けど…どこに行くんだ?」
『……お楽しみで良い?びっくりさせたくて』
こそり。内緒話をするみたいに、さつきは言う。周りはまだ昼休憩、喧騒に
塗れて余程の声量でなければ声は通らない。しかし、さつきのそれはやけに轟の鼓膜を震わせた。きっと、久し振りの体験だからだ。電話越しの声なんて、一体何年振りの事だろう。思わず頬を緩ませながら、轟は自身の教室へと足を踏み入れた。そこには、最近になって漸く関わる様になったクラスメイトが、そこかしこで話に花を咲かせている。
『……焦凍くん?』
「――なんでもねえ。迎えに行くか?」
『わたしの家、知らないじゃん』
「……お前が教えてくれなかったんだろ」
『…帰りに教えるから。16時半に正門に行くね』
どうやら返事をする事を忘れていたらしい轟は我に返り、咄嗟に矛盾した言葉を口にした。そしてそこで、昔のさつきとは全く異なる事を再認識したのである。しかし、何処か宥める様な優しさを持っている部分は、何ら変わりはしなかった。それが嬉しくて、彼は自身の席に座った後も携帯を耳から外す事は無く、柔く瞳を緩めたのだ。そんな彼に驚きを見せるクラスメイトは一人や二人ではない。――が、轟がそれに気付く事は無い。
「……さつき、泣いてねえか」
『…昨日の夜、急に成田が来てね。すっごいうるさくて泣く暇なんてなかった』
「そうか。――なら、良かった」
『…じゃあ、後でね。お家に連絡しなくて平気?』
「元々外で食おうと思ってたから」
『……なら、食べに来る?』
漸く口に出されたその名に、麗日、耳郎、緑谷、そして上鳴はぴくり、と肩を跳ねさせた。それを横目で確認しつつ、轟は言葉を紡ぎ続ける。もちろん、電話を切った後の質問攻めは覚悟していた。――ずるい事は知ってる。あの人の弱みを抉じ開けて、無理矢理こっちに向かせた事も分かってる。でも、さつきに一番近い人間は俺が良かった。そんな歪んだ我が儘を許してくれるうちは、年下の俺で在りたい。
「――良いな」
「幼馴染」の俺でありたいと、そう思った。
昼休憩の電話の一件で、今日は何時も以上に人との会話が多い日だった。「さつき」の名に反応を示していた四人はもちろん、噂好きのクラスメイト、相澤にまで話し掛けられた事には驚いた。――放課後、自主鍛錬を夜に回した轟は、さつきが待っている筈の正門へと歩みを速めた。ギリギリ雄英の敷地内に入っていない彼女は、私服を身に纏っている。黒いキャミソールにシースルー素材の白いチュニック、これら二つの裾には繊細なレースがあしらわれていた。白いチュールスカートは、風に揺られて涼しげである。
「――さつき」
「…焦凍くん」
「…私服、久し振りに見た」
「……そうかな」
「どこに行くんだ?」
「えっと、――お花屋さん」
幼少期は強い、とばかり思っていた。一体何を見ていたんだろう。今はこんなにも小さくて細くて、折れてしまいそうなくらいに弱い。全身を白で纏めているから、儚い印象を抱いている事も一因なのであろうが。そんなさつきはゆっくりと表情筋を緩め、伸ばしたサイドの黒い髪を風で揺らがせた。そして、「お花屋さん」とオウム返しをした轟に、くつり、と何度か喉を震わせる。そのあと、「行こっか」と言う彼女の声に足を踏み出したのだ。
轟にとってのここら一帯は「通学路」であるため、何の店があるのか、この道が何処にあるのか、などの細かい事は分からない。そのため、自然とさつきの後ろを歩く事になる。その風景は、彼の地元とは少し違う。国道から僅かに逸れた住宅街は建築年数が長く見えるアパート、木造住宅が多い印象を受けた。そこを慣れた様に通り過ぎ、曲がり角にぽつん、とある小さな花屋に足を踏み入れた。
「おばあちゃーん。さつきだけど、いるー?」
その建物は昭和レトロをモチーフにした喫茶店の様なそれだ。しかし、店内にはコーヒーの匂いではなく、花の匂いが充満している。品種別、色別に分けられたそれらの顔は全てが天井に向いており、水をやったばかりなのだろう。朧気な照明に反射してキラキラ、と輝いていた。さつきはそれらに目もくれず、レジ奥に向かって、少しだけ声を張り上げる。すると、少し間を置き、レジ奥の休憩室からのっそり、と人影が現れた。歳はかなりいっている筈だ。
「――あら、さつきちゃん久し振りねえ」
「久し振り、おばあちゃん」
「いつもの花束で良いのね?」
「うん、ゆっくりで良いよ」
後で聞いたが、ここの店主――佐倉百合花――は、さつきが中学生の頃からの付き合いだそうだ。まるで本物の親戚の様な振る舞いだが、もちろん血縁関係ではない。しかし、さつきは笑っていた。百合花を慈しむ様に、見守る様に瞳を細めていた。――作業を開始した百合花を横目に、さつきは轟の横に並ぶ。そして、同じ様に煌めく花たちを眺めた。花の事は、嵐の好きだった物しか分からない。しかし、噎せ返る様なこの匂いが好きである事も嘘ではなかった。
「さつき、お前…」
「……ちゃんと話すから、もうちょっとだけ待ってて」
「ね」と念を押す様に顔を傾げるさつきに、轟の心臓は何ものかによって鷲掴みにされた。――少しだけ、仮説は立ててあった。でも、どうしても信じられなくて、さつきの言葉で聞きたかった。俺の我が儘でしかないとしても、多分、この人は受け入れてくれるから。そんな年上の人と、視線は交わらない。少しだけ、未来を見据えている気がした。明かりで煌めく花を、ぼうっと見つめていた。
そんな時にカシャン、と音が鳴る。花はさみの役目を終えたらしい。その音の方へ顔を向けると、こっちにおいで、と言いたげに百合花がさつきに柔い視線を向けていた。
「――出来たよ」
「ありがと、おばあちゃん。お代…」
「構わんよ。サービスさ」
「……いっつもお駄賃もらってくれないね」
「大切な花束だからね」
「今日こそ多めに持って来たのに」
「もらわないよ」
白と桃色を基調とした花束を受け取る代わりに、さつきは群青色の無地の財布から千円札を取り出す。しかし、それは百合花の手には渡らなかった。百合花は、何時だってさつきの駄賃を受け取ってはくれない。優しい、柔らかな笑顔を浮かべてさつきの要求を全て呑んでくれるくせに、現実的な輝きは決して手にしないのだ。それが、ここに来る度に行われる冷戦なのである。また、何時だって折れるのはさつきなのだ。満足そうに笑みを深めた百合花は、視線を横の轟へと向ける。
「この子かい?…仲直りしたんだねえ」
「仲直りって…」
「えっ、あの、それ言わない約束…!」
「…そうだったかい?それはそれは…」
ぱち、と視線が交わったのは一瞬で、それはすぐに逸らされた。その一連の動きに違和感を抱きつつも、さつきと話し始めた途端にそれは失われて行く。そして轟も、焦りを見せ始めた彼女によって、その感覚を抱く事は忘れて行ったのである。この七年間、一度たりとも見た事がない赤く熟れた表情を視界に収め、彼は思わず笑う。
揶揄う様な笑みではない。宥める様な、慈しむ様な、そんなそれ。それを見た彼女は何処か拗ねた様に眉を顰めつつも、怒っている訳では決してないらしい。
「…………なに」
「いや、さつきってかなり意地っ張りだったんだな」
「だから何でそれで笑うの!」
「良いじゃねえか、『意地っ張りお姉ちゃん』」
「からかってるでしょ!」
それから暫く、「少し歩くね」とさつきに宣告されてから
凡そ15分、目的地には未だ着かない。10分程は真っ直ぐな道を突き進んでいたが、今は少し坂になった、森林浴を楽しめそうな木々が多く連なる道を進んでいる。何処に進んでいるのか、何処に行きたいのか、轟は全く分からないままでいた。森林に入ってからは木の影も相俟って、さつきの表情が見えない。しかし、花束はやけに大事そうに抱えていた。
20分が経った頃だろうか、小さな丘の上に白い門が聳え立っている。さつきは迷う事なくその中へと足を踏み入れ、轟を呼んだ。「早くおいで」と宥める様に響く声音は昔と変わらず、やはりあまりにも優しかった。
「墓地…?」
入ったそこは墓石で埋め尽くされていた。色は灰色、黒や白、と様々だが、全て一様に故人の名が刻まれている。そんな中、流れる様な動作で水を汲んださつきは迷う事なく突き進み、とある場所で歩を止めた。目の前には台形の、灰色の墓石があり、見た事のない名が刻まれている。それに指を這わせると、少しだけ埃が溜まっていた。それを空気に弾き飛ばし、さつきは笑う。――そう言えば、入り口のところに「メモリアル」と言う文字が刻まれていた気がする。そこで俺はようやくさつきの用事に気づいた。
「――久し振り、お母さん」
一言だけそう告げて、さつきは墓石に水を掛けて行く。ぱしゃん、と響く水音と、太陽の光と反射して輝く小さな水飛沫が涼しげに見えた。墓石や花立て、水受けの汚れを一通り水で流し終えた彼女は、ポーチから新品の雑巾を取り出す。それで墓石などを綺麗にして行く彼女は何処か寂しそうだった。しかし、少しだけ嬉しそうに見えたのも嘘ではない。それらを全て終えた彼女は、墓石に立て掛けていた花束を花立てに入れた。そして、窺う様にその場にしゃがみ込む。
「……ずっと来られなくてごめんね。焦凍くんと、やっと一緒に来たよ」
「この墓…」
「お母さんのお墓。深海のお墓からは外してもらったの」
「……これ、嵐さんの旧姓か?」
「そう。お母さんにぴったりだなあって、思ってた」
白文字で小さく刻まれた「
浮津嵐」は、彼女の個性を如実に表していた。彼女の個性は「浮力」、気力をコントロールする事で物質を浮かせる事が出来る。そして、コントロールをしなければ浮かせる対象に際限は無い。拳人は、その個性に目を付けたらしい。浮き雲の様に自由に、何時の間にか嵐の様に周囲を巻きこんでいる、そんな人だった。なのに、彼はそれを力で封じ込めて、監獄に押し込めて、今もなお生きている。その事実に気付いた時、さつきは絶対に深海嵐では終わらせない、と誓ったらしい。
五年前の事件から、さつきは父方の親戚から莫大な金銭を受け取っている。一度は拒否したものだったが、それがさつきへの脅迫を意味するものと気付いた時にどうでも良くなった。――詫びるつもりは無い。金さえ渡せば何も言えない小娘だろう。――そんな本音があけすけに見えた。そんな利己主義的な主張に少しでも抗いたくて、さつきは親戚からの金銭をずっと貯めていたらしい。目的はただ一つ、母である嵐が静かに眠れる場所を作る為だ。
「それ、いつから…」
「中学は三年間、ひたすらお金を貯めてた。バイトも出来ないしね」
「…………そうか」
「ここが出来たのは高校に入ってから。遺体の状態はひどかったけど骨は無事だったから、捜査官の人に頼みこんでお墓に入れさせてもらったの」
――ここに来るのは命日と、寂しくなった時。――と付け加える様にさつきは言う。ここに来ると本当に嵐に会っている様な感覚に陥り、もう一度生きてみよう、と思えるのだそうだ。――それがこの二年と少しの、さつきの心の拠りどころだった。それを聞いて、俺は「そうか」としか言えなかった。独りで決めて、独りでやり遂げて、多分、独りで泣いてた。その間、俺は超えたいと願う親父に乞い、権力とか恵まれた環境とか、さつきが喉から手が出るほど欲しいものに
肖ってた。
「……俺、何も知らなかった。さつきのこと、何も分かってなかったな」
「……わたしも言おうとしなかったから。それで分かったらすごいよ」
「でも」
「――今日、わたしはここに焦凍くんと来れて良かった。嬉しかったよ、ありがとう」
絞り出す様な轟の言葉に、さつきはふと彼を見上げた。決して慰める言葉ではない、傷付けない言葉を選んで紡ぐ彼女は、やはり嵐にそっくりだ。そんなさつきに感化され、締め付けられた心臓を無視して、彼はさつきの横にしゃがみ込む。そして、その場で手を合わせた。――なにも変わってないさつき。優しいままの、俺のすきなさつき。いつだって守りたい、弱い弱い幼馴染の女の子。もう一度、と俺は嵐さんに誓った。
「…焦凍くん?」
「……多分、すげえ傷つけたけど、今度は、…今度は必ず守ります」
「しょうと、くん」
「――俺が、まもります」
遠くで、さつきの声が聞こえてる。何度も俺を呼びかける小さな、女子にしては少し低い声。意味も分からず「傍にいる」と約束した時とはちがう、さつきの弱さを知って、俺はもう一度この人に笑って欲しいと思った。隣で顔を歪めて泣きそうになってるこの人を、ただ黙って抱き締める男になりたいと思った。「さつきが泣かない世界」じゃない、「さつきが泣いてもしあわせだと思える世界」にしたいと、俺は願った。
もし、嵐さんがここにいたら何て言うだろう。さつきを泣かせちまった事にすげえブチ切れるか、……多分ブチ切れるしかねえな。少し冷や汗が出て来たところで、鼻を啜ったさつきが立ち上がる気配がした。
「…帰り、お母さんが好きだった和菓子屋さんに行こっか」
「水まんじゅうと葛餅だな」
「ご飯の後に食べよ」
「晩ご飯、何にするか決めてるのか?」
「うん、決めてる」
持参していたらしい軍手を両手に嵌め、墓石を囲む様に生えてしまった雑草を抜き始める。そんなさつきに視線をやれば、彼女は無言で轟に同じ物を手渡した。サイズはぴったりだったから、彼にはこれをやらせるつもりでもあったのだろう。その事に苦笑しつつも、彼は根元から雑草を引き抜いて行く。その間に交わされる会話は何て事もない、他愛ないそれだった。それが、幸せで堪らなかった。
大きな約束なんていらない。学校帰りに寄り道するとか、明日は一緒に帰るとか、他愛もないもので良かった。多分、そんな約束で良かった。――今日、さつきの電話のせいで質問攻めに遭ったこと。相澤先生がすげえ心配してたこと。「さつきの親みてえなもの」って相澤先生本人に言っちまったこと。話す事はいっぱいある。時間も、多分いっぱいある。
「――鮎の和定食!」
さつきの笑顔をこの
瞳に焼きつける瞬間も、きっといっぱいあるはずだ。
コツン、と鉄板の床から音が鳴る。それは一定の間隔を置いて響き渡り、人の存在を表していた。その音は次第に地下へと潜り込み、人目を避ける様に移動して行く。下へ行けば行くほど凶悪犯が増えるこの場所――刑務所――は、今回の事に関しては幸運以外の何ものでもなかった。片耳だけにぶら下がるインカムからは、行動を急かす声が幾度も響いている。――うるせえよ。コンタクトを取る為だけに、何でこんなハイコストな作戦を立てなきゃなんねえんだ。
心の中で愚痴を撒き散らし、歩く事に苛立ちを含ませる。すると、特段大きな牢屋に辿り着く事が出来た。その中には、木製の机と古臭い長椅子だけが鎮座している。小さな窓はあるが、格子があって逃げられやしないだろう。そこから鋭い眼光でこちらを睨み付ける男は、
敵と言っても差し支えは無かった。
「外に出たいか?」
「……誰だてめえ」
「質問に答えろよ。簡単なはずだぜ?イエスかノー、この二択だ」
「…………出たいって言ったら出してくれんのか」
「俺の為に動くか?元ヒーロー」
「…あ?」
「歓迎してんだよ。別に悪い話じゃないはずだ。……なあ?」
脈略のない質問を投げ掛ける男は、暗がりのある顔に
悍ましい笑みを浮かべている。目元が見えない分、その迫力は倍以上にものぼっているだろう。そんな彼は人差し指と中指を立て、厭らしくも蠢かす。そして、牢屋の中に居る男を煽る様に「ヒーロー」と呼んだ。わざとらしく「元」を付けて。外に居る男は僅かに腰を曲げ、相手の反応を窺いながらも楽しげに口角を歪ませた。――思った通りだ。倫理観も道徳も何もねえ、人望だけの薄っぺらい人間。
「――深海拳人」
そう言う奴は、目の前の快楽に喰らいつくんだ。