夏の空へと、羽ばたくきみ
「耳郎―!飯食いに行かねえ?」
そう言って、鞄を肩に掛けながらこちらに声を掛けて来たのは上鳴だった。期末考査が目前に迫った今日、雄英高校全学科は午前授業で終了している。そのため、殆どの学生が自習室、図書室などを利用してテスト対策を進めている筈だ。そして、上鳴もそれは例外ではない。しかし、中間考査にてクラス最下位を取ってしまった以上、追い詰められている事も事実であった。そんな上鳴は視界に入った耳郎に声を掛けたのである。
「……良いけど、どこに行くの?」
「国道に出て、一番最初の角にファミレスあるだろ?そこに行こうぜ!」
「あんたの奢りね」
「エッうそだろ!?俺金欠…」
「知らない。勉強教えてやる対価でしょ」
「さッすが耳郎チャン…」
そんな耳郎も、仮にも英雄を志すヒーローの卵だ。勉学にしても、実技にしても、手を抜くつもりは一切ない。そして、上鳴に対する対応にも抜かりは無いのだ。そんな彼女の様子に上鳴は冷や汗を掻くも、この反応は良い意味でも悪い意味でも称賛を送っているだけである。しかし、ひくり、と引き攣る口角は隠せなかった。そんな二人は、先ほど話題に出たファミリーレストランに歩みを進める事になったのだ。
学校を出ると、何時もと違って人通りが多くなっていた。この様子だと、自習室や図書室を利用してテスト対策を進める学生は、かなり奇特な存在なのだろう。疎らな人の間を縫って行き、耳郎と上鳴は国道へと出る。まだ陽の高いこの時間帯の町は、家族連れや昼休憩に入ったサラリーマン、OLで賑わっていた。恐らく、二人も周囲からは似た様なものだと思われているのだろう。
そんな二人が入った店舗は、人が疎らだった。つい最近オープンしたオーガニックレストランと、ラーメンフェスタで優勝したらしいつけ麺の店が繁盛している事が要因であろう。中では、仕事を持ち出したビジネスマンと複数の学生しか居なかった。その中でも、一段と目を
瞠る髪色が二人の視線を奪う。――もしかして――そんな仮説を立てながらそれに近付くと、やはりそれが間違っていなかった、と確信せざるを得ない光景が広がったのだ。
「……轟?」
「――と、深海先輩?」
「あ」と揃った低めの声は、前なら想像も出来なかった現実だった。
「耳郎ちゃん、ご飯食べた?」
「ま、まだです。先輩は食べたんですか?」
「うん。このカレードリア、美味しかった」
「……一緒のやつにしようかな」
「じゃあわたしは甘いもの頼もうかな、焦凍くんの奢りだし」
「誰が奢るっつったよ」
「奢ってくれないの?」
「……ずるくねえか。その顔止めろ」
――この現状に戸惑ってるのは俺だけな気がする。轟はさっさと幼馴染さんと仲直りしていちゃいちゃしてるし、耳郎は何でか知らねえけどやたらと仲良いし。これは完全なるぼっちでは…?なんて事も思ってたけど、ふと、例の「深海先輩」の笑顔が見えた。控えめに顔を緩める、やっぱり年上だな、と思う大人っぽい笑顔。轟がずっと見たかったもの。それを見て、何だか俺はすげえ嬉しくなった。
「…て言うか轟、相席しても良かったの?」
「俺もさつきも別に嫌じゃなかったし、勉強しに来たんだろ?」
「それはそうなんだけど、邪魔になんねえかなーって…」
「……どう思ってんのか知らねえけど、上鳴にとっては朗報じゃねえか?」
「へ?」
「――こいつ、学年首席だぞ」
ちゃっかりとストロベリーのアイスクリームを頼んださつきは、それが来るまでの間、レモンの風味を香らせたアイスティーで喉を潤す。そして片手間に単語帳を眺めつつ、轟の教科書をペンで指して行く。その姿はもはや彼の家庭教師である。そんな彼女は、三年生全体における学問の頂点に居るらしい。彼がそれを告げたと同時に運ばれて来たアイスクリームを、嬉しそうに口に運ぶ。そして、驚いた様な耳郎と上鳴の視線にゆるり、と笑んでみせたのだ。
「…………エッマジっすか!」
「首席ってヤバ…」
「勉強以外にする事がなかったからね」
「え、えっ、じゃあ一年の内容とか…」
「ヒーロー基礎学とか、ヒーロー科特有の科目以外なら」
「し、深海大先生…!」
口内をひやり、と冷やしながら、さつきは苦笑を漏らす。――今更、放課後に友達と遊ぶなんて出来なくて、家に籠って勉強ばかりしてた。社会の全てに絶望して、未来に希望なんかなかったから。でも、耳郎ちゃんもそのお友達もそんな事は知らないから、わたしは笑って誤魔化した。すると、それに誤魔化されてくれた男の子がわたしを崇めて来る。その
表情に思わず笑うと、ようやく二人が頼んだお昼ご飯が届けられた。
「――そう言えば俺、名前教えてませんでしたよね?上鳴電気って言います!深海先輩の事は轟から聞いてて…」
「焦凍くんから?」
「お、おい」
「焦凍くんが何を話してたのか知りたいなあ」
「……絶対言わねえ」
「なんでよケチろきくん」
「変なあだ名は止めろ」
耳郎が頼んだ物はさつきと同じ、温玉が乗ったカレードリアである。そして上鳴は、デミグラスソースのハンバーグプレートとシーザーサラダを頼んだ。各々がそれらに口を付けながら、さつきは茶化す様に轟に笑い掛ける。そんな二人は、つい先日まで殺伐とした雰囲気を纏っていたとは思えない程に穏やかなそれを持っていた。その様子に耳郎と上鳴は思わず目を合わせるも、その穏やかさが嫌な訳ではない。寧ろ嬉しささえ感じていた。
「ね、ね、深海先輩!俺、先輩に会ったら聞きたい事があったんすよ!」
「聞きたいこと?」
「ちっせえ時の轟!こいつなーんも教えてくれなくて!」
「別に良いだろ、ちっせえ時の事は」
「それ、ウチも聞きたいけどな」
「耳郎まで…」
そんな上鳴は、僅かに身を乗り出しながらさつきに笑い掛ける。既に彼のテンションには慣れてしまった。そんな彼と轟は正反対のタイプに見えるが、体育祭の一件から仲が良くなったらしい。それに
肖る様に、耳郎もその話題に入り込む。その表情には何処か揶揄う様な、それでいて楽しげな笑みが浮かんでいた。そんな光景を見て、さつきはゆるり、と表情筋を緩める。それは、確かに幸せを示していた。
「――お友達が出来て良かったね、焦凍くん」
「え、あ…」
「中学の頃は『さつきだけで良い』とか言ってたのになー」
「ちょ、お前、急に裏切るなよ」
「なになに、轟お前、お姉ちゃんっ子なわけ?」
「へえ、お姉ちゃん大好きなんだ?可愛いじゃん」
「なんでこう言う時にだけタッグ組むんだよ、何も言えなくなるだろ」
――小学校、中学校では見る事が出来なかった光景。ずっと、こうなって欲しいな、って願っていたもの。それが今、こうして目の前に広がるのは奇跡なんじゃないかな、って思う。それはきっと、焦凍くんが手を伸ばしてくれたから。どれだけ素っ気なくされても、決して諦めないでいてくれたから。ふと口にしたエピソードは、多分照れ隠しだった。焦凍くんは本当に恥ずかしがってたんだろうな。けど、わたしの知らない五年間に、少しだけ、さみしくなった。
でも、それは焦凍くんも一緒なんだろうな、って、今では思う。
「――ありがとう、送ってくれて」
そう言って笑みを零したさつきの背後には、小さめのアパートが聳え立っている。あの男の親戚の財力に
肖りたくない、控えめなさつきの意地だ。エレベーターは無いし、オートロックなんてものは以ての外である。しかし、数年と暮らしていれば愛着も湧いて来る。生々しい臭いが充満する実家と比べれば、オンボロでも住み心地は良かった。入学して暫く経った頃、睦と安価な家具量販店を巡った事はまだまだ記憶に新しい。
「送る、って言っただろ。さつき、一人にするとまたうろちょろしそうだ」
「し、しないってば!」
「夜、もう一回連絡すると思う。起きてるよな?」
「…うん、起きてる」
「分かった。じゃあまた後で、な」
轟の後ろに居る上鳴と耳郎を置いて、轟はさつきとの会話を優先させて行く。その姿は、空白の三年間を取り戻そうとしている様に見えた。また、さつきを宥める様にも見えるその姿は酷く大人びている。それが余計にさつきを焦らせるのだ。そんなさつきは拗ねてしまったのか、羞恥を誤魔化す様に、僅かに頬を膨らませている。そんな、漸く見れる様になった歳相応の表情に、轟はゆるり、と目元と口元を僅かに緩ませた。
「耳郎ちゃんと上鳴くんも、テスト、頑張ってね」
そう言いながら手を振るさつきは、喜々として鉄階段を上り、自宅の鍵を取り出す。その姿が視界から消え失せた時、轟は漸く歩き出した。――現在は午後17時を回った頃、さつきはこれから晩ご飯を作り始めるのだろう。少しずつ、少しずつ過去の日常を取り戻し始めた彼女だが、その頭の片隅には救えなかった嵐の姿がある。その事実に時折涙を零しながら、恐らく、轟や睦の前では笑うのだろう。
「…………轟ってさ、先輩と付き合ってんの?」
「付き合ってない」
「ハ?うそだろ!?『夜連絡するね〜♡』とか約束しといて!?」
「語尾に変なやつついてなかったか。……変わらず幼馴染だよ」
「……言わないの?すきだ、って」
夕陽も刻々と地平線へ沈み、轟らの影は次第に伸びて行く。関連性が余り理解できないメンツだ、会話は弾まない。しかし、そんな中で唇を開いた上鳴は、恐る恐る、と言いたげに轟に問いを投げ掛けた。それにたった一言、投げ付ける様に言葉を紡いだ轟は何をするでもなく、淡々と現実を受け止めている様に思えたのだ。そんな轟に対して核心を突く耳郎は視線を逸らさず、轟を逃がすつもりは無いようである。
「……中学の頃なら、言ってたかもしんねえ」
「…今は?」
「俺がさつきだけじゃないように、さつきも俺だけじゃない。さつきの全部を知ってるのも、俺じゃない、と思う」
「でも先輩、絶対轟の事すきだと思うぜ?」
――あの頃、さつきを守ってくれる大人は誰一人いなくて、依存する相手は俺しかいなかった。俺も親父を恨んで、親父から逃げてばっかりで、さつきしか見てなくて。…いや、多分さつきすら見てなかったんだろうな。お互いがお互いだと信じて疑わなかった。あのまま一緒になってしまったら、さつきはきっと一生俺に、過去に、雁字搦めにされてただろう。それじゃだめだった。あの男から吹っ切れなきゃ、あの人はずっと前を向けずにいる。
「――さつきの噂、知ってるか?」
「……『人殺し』ってやつ?」
「…体育祭の戦いぶりを見て、さつきの事をちゃんと見ようとしてくれる奴はいる。でも、それでも一定数は、あの人を社会的に追い詰めようともしてる」
轟がそう言うと、上鳴と耳郎は悲痛に顔を歪めた。――この二人は、なぜかさつきにすげえ懐いてる。し、さつきの味方になろうとしてくれてる。そんなさつきは全然過去を清算できてはいないし、多分、全てを俺に話してる訳じゃないんだろう。時折、悲しそうに、
救けて、って求めてるのも知ってるから。だからもう、俺はさつきを捨てないと決めた。あの人が泣いても、笑って受け止められるような人間になる、って決めたんだ。それが、俺がヒーローを目指す理由だと、ようやく思い出す事が出来たから。
「さつきがそれに傷つかなくなるまで、吹っ切れるようになるまで、俺は言わねえ」
傍にはいるけどな、と付け足して、轟は困った様に笑みを浮かべた。――気持ちを押し付ける訳ではなく、昔の様に距離を取る訳でもない。ただ傍に居る事だけがどれだけの苦行であるか、それが分からないほど轟は馬鹿ではない。しかしそれでも良い、と彼は言うのだ。そんな男を見て、上鳴と耳郎は思わず笑みを零す。馬鹿だなあ、と。自分の手でしあわせにしてやりゃ良いのに、とも。
「…一途だねえ、焦凍クンは」
「……ひとまず今は、あの人に追いつかなきゃなんねえから」
「あの人?」
揶揄う様に、しかし笑う事はせず、上鳴は轟の肩に腕を乗せた。だが、それによって縮まった互いの距離にも、轟は目を向けない。その双眸は、何処か遠くを見つめている様な気がした。耳郎からの簡易的な問い掛けにさえも応えない轟の意識は、何処か遠く、別の場所に移っている気がしたのである。――少しずつ暑くなって来たここ最近、あの時も同じような気温だった。拗ねたようなあの人を笑ってしまったこと、俺は悪くない、と信じたい。
さつきが三日間の自宅謹慎に入り、最終日の事だった。小学校、中学校、と人相は悪かったが優等生で通っていた轟は、教師からの指導を受けた事がない。そのため、教師に怒鳴られる事も、反省文を書く、と言う行為も、初めて体験する事ばかりだった。そんな轟は緑谷と麗日に倣い、翌日には反省文を書き終え、日常に溶け込む事が出来たのである。しかし、さつきの一時的な不在が轟に空虚感を与えていた事も事実だった。そんな日常の中で、轟は相澤に声を掛けられる。
『……轟、ちょっと良いか』
『…なんですか?』
『……ちょっと、聞きたい事があるんだが』
『聞きたいこと…?』
その時の相澤の姿は何時もと違い、何処か戸惑っている様子に見えた。――聞いて良いものか、聞かない方が良いのだろうか。そもそも、生徒である子どもに聞いても平気な内容なのか。――そんな戸惑いがあけすけにも見えていたのである。しかし、それに対して確証も何もない轟は、訝しげに首を傾げてみせた。その反応に、暫し視線を彷徨わせていた相澤も意を決したのか、轟を見下ろす。その視線は何時もと変わらぬそれだった。
『……深海、あの後も泣いてたか?』
『…………は?』
『いや、後から思えば俺、あいつに怒鳴った事がなくてだな。驚かせてしまったのかと、思って』
『……それ、ずっと考えてて俺のこと、ずっと見てたんですか?』
『気づいてたのか……』
『いや、あんなあからさまな視線に気づかない方がおかしいです。仮にもプロヒーローでしょう』
しかし問い掛けられた内容は、轟が脱力してしまう程に拍子抜けするそれだったのである。そんな彼を置いて話を進める相澤には、合理的な一面は見られなかった。敵大量発生事件の翌日から、隙あらば轟を睨み付けていたその視線には、そんな単純な理由が孕んでいたらしい。それに一頻りツッコんだあと、轟は堪えていた喉奥から力を抜き、くつり、とそこを震わせて密かに笑った。
『俺、相澤先生に恨まれてるかと思ってました』
『あ?』
『さつきの人生をめちゃくちゃにした極めつけは俺なんで』
『……恨んではねえよ』
『でも好ましくはないですよね、俺のこと』
轟がそう言うと、相澤は口を噤んだ。――予想は出来た事だし、そうなんじゃないか、ってどこかで思ってた。ファミレスの一件から少しだけ、俺を蔑むような目で見ていたから。それは、さつきの友だちと似ていた。その人と一緒で相澤先生も一年の時からさつきの側にいたらしいし、そりゃ嫌だろ。ぽっと出の、年下の男に奪われそうになってんだから。そんな思いを胸の内に、俺は苦笑を漏らす。
『自業自得だけど、俺、相澤先生が羨ましいんですよ』
『……なんでだ』
『――育ての親って、唯一無二じゃないですか』
教室の掲示板に凭れ掛かりながら、轟は瞳を伏せてそう呟いた。その言葉が鼓膜を震わせたのか、相澤はドライアイのその目を丸くさせたのである。――相澤先生が、さつきの過去をどこまで理解してるのかは知らない。俺も全部は知らねえから。多分、一番知ってるのはあのクソ親父だ。さつきと一緒にあの家から逃げたあと、あの男と何を話したのかは知らねえが。聞いても教えてくれなかった。
あのあと、さつきは泣き止んだ。驚いたのもあるが、初めて愛情をもって怒鳴られたらしい。あの男は、いつも自分の力を見せつける為だけに怒鳴ってたから。嵐さんは怒鳴るタイプじゃない、さつきもあの人が大好きだったから。だから、他の誰にもなれない相澤先生が羨ましい。大きな力と長い経験で、ずっとさつきを守れるんだろうから。
『さつきは相澤先生のこと、父親のように思ってますよ、きっと』
「――轟?」
ひょこ、と轟の様子を窺う様に覗き込み、声を掛ける耳郎の存在で、漸く彼は我に返った。――時間はさほど経っていない。大きな夕陽は、未だ地平線から顔を覗かせていた。影の長さも己の背丈の倍には達しており、アスファルトを色濃く表している。それを見下ろしていたらしい轟は、弾ける様に顔を上げた。そして、両隣で歩く上鳴と耳郎を視界に収めたのである。その表情は何時もと変わらぬ、愛想の
良い笑顔だ。
「…わりい、ちょっと意識飛んでた」
「ちょ、大丈夫?眠いの?」
「いや、大丈夫だ」
「で、『あの人』って誰だよ轟クン?」
「……秘密だ」
「ハ!?ここまで引っ張っといて?うッそだろ!?」
「言ったら絶対にからかいに行くだろうからな、特に上鳴」
目に入りそうな紅白の毛先を雑に払い、駅へと向かう足を前へと踏み出す。そんな轟に、揶揄う様な声音を響かせたのが上鳴だ。しかし、頑なに秘匿主義を貫く轟に、上鳴は有り余る駄々を捏ね始めたのである。一方、耳郎は轟の言葉に共感を示していた。これ程までに上鳴の性格や言動を把握している異性、と言うのもなかなか居ないのではないだろうか。上鳴は、そんな二人の反応に頬を膨らませつつも、決して怒ってはいないらしい。――この光景をさつきが見たらどんな
表情をするかな、呆れるだろうか。もしかしたら笑ってくれるかもしれない。
「そんなに意外な人?」
「……そうだな。絶対に驚くと思う」
「じゃあ、当てたらからかいに行って良い?」
「なんでだよ。つうかからかいに行く前提の話っておかしいだろ」
「ウチ、パス。やるなら一人でやってね」
「耳郎は道ずれです残念でしたァ」
「はあ?マジ止めてこの
上鳴」
「だから上鳴って書いてバカって読むの止めてって!」
多分、呆れながら俺のすきな笑顔で笑ってくれるんだろうな。