その手に広がるまこと
 夏も本番が近付いて直射日光が厳しい。それは日本全国で至る現状である。しかし、数々の棟を所有する学校や、高層建築物が立ち並ぶオフィス街では微かなユートピアが広がる空間がある。――それはここ、雄英高校にも当て嵌まる。ヒーロー科が利用するトレーニングルームの入り口には、昼頃には必ず影が出来るのだ。所謂「穴場」と呼ばれる場所で、知らない者が居ても無理は無い。そこに、心操は居た。
 左手にコンビニのおむすびを持ち、空いた右手は足元で丸まる野性の猫を愛でている。その表情は酷く柔いものであった。――僅かに涼しげな風を受け止める中、より濃い影が覆い被さって来た。その姿には見覚えがある。しかし、数ヶ月前に見た姿とは似ても似つかない。その人影の控えめな微笑は、心操の視界を独占したのである。


「――深海先輩?」
「…こんにちは、心操くん」

 やけに柔らかな雰囲気を持つさつきは、酷く柔い双眸を心操に向ける。その場に響く声色も、何かを包み込む様に優しかった。流れる様に彼の隣へ腰を落ち着ける年上の女は、その場で弁当箱を広げている。相変わらず手作りらしいそれは冷凍食品、手作りの卵焼きとサラダで埋め尽くされていた。――それをじっと見つめていると、さつきが「食べる?」と首を傾げる。それに対して必死に首を振ると、彼女はおかしそうに眉を下げた。


「……どうして、ここに?」
「ここ、穴場でしょ?真夏は影になってるから過ごしやすくて」
「……深海先輩、ですよね?」
「…そうだよ?雰囲気が変わってびっくりした?」

 さつきがそう問い掛けると、心操は恐る恐る肯定の意を示す。彼の、そんな反応に最高学年の女は思わず苦笑を漏らした。――笑う事なんてなかっただろう。「初めて」を守るように、何かを待ち望むように涙すら見せなかったくせに。今じゃあ何かに吹っ切れたように柔らかい表情かおばかりを見せる。それに安心する反面、少しだけ悔しかった。きっと轟のお陰なんだろうが、それは口にしない。先輩が困って、ひどく照れるだろうから。
 僅かに、静かな空間に二人が独占される。しかし、それは二人だけのものではない。――時折、もしゃ、と米粒が噛み砕かれる音が響き渡る。そこに生々しさが響き、妙に生きた心地を感じる己はきっとおかしい。しかし、それを言えばさつきはきっと分かっていない振りをして首を傾げるのだ。


「……よく、笑うようになってるみたいでびっくりしました」
「……わたしもびっくりしてる。こんなに笑えるなんて知らなかった」
「……例の幼馴染は何て?」

 避ける様なさつきの反応に、心操は気付かない振りをしてあけすけに言葉を紡ぐ。きっと目の前の女も、その事には気付いているのだろう。そう思うと、何処か笑みが溢れ出る。――ふと、心操は再び唇を開いた。ただの、己の好奇心だ。それに乗り合わせたさつきは、きっとあまりに優しすぎる。そんな彼女は、再び柔い微笑を浮かべた。微笑と言うにはあまりに重苦しく、それと言うには、酷く儚いものであったが。


「――なにも。ただ、黙って傍にいてくれるだけだよ」

 そう囁いたさつきは、何処か寂しそうでもあった。――昔だったらすべてを知りたそうに見つめて、逃がさないってわたしを縛りつけて来たのに。今じゃわたしの全部を受け入れる。そのくせ、熱の籠った色違いので見つめて来るのは何なんだ。そんな風にごねたとしても、今の焦凍くんはただ微笑んで受け止めてしまうんだろう。それが少しだけ、ほんのちょっとだけさみしい。それを、誰かに言うつもりもないけれども。


「心操くんこそ、どうしてここに?」
「…………これが、目的で」
「これって、――」

 心操の視線の倣い、僅かに瞳を伏せたその先には、甘える様にこちらに擦り寄る小さな猫が何匹も座り込んでいた。その光景を視界に収めたさつきは、その双眸を期待に煌めかせる。そんなさつきに思わず目を瞬かせた心操ではあったが、僅かながら嬉しげに目元を細めたのである。――恐る恐る手の平に、子猫の毛並みを柔く押し付ける。そこから広がるか弱さと癒しは、さつきに笑みを与えた。


「かわいい……」
「ずっと誘いたかったんですけど、事件に巻きこまれたって聞いて。……もう大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫」

 「色々と吹っ切れたから」と言う言葉を加えつつ笑みを浮かべ、さつきは子猫を抱き締めた。制服に毛が付着してしまう恐れもあったが、睦の悲鳴が聞こえる気さえもするが気のせいと言う事にし、子猫の鼻先を軽くつつく。――数ヶ月前のヴィラン関連の事件は、ニュースで報道されるものにまでなった。その為にヒーロー業界まで動く事になったのである。そんな噂が広がっていたとは露知らず、さつきはただただ目の前の小動物に夢中になっていた。
 子猫を存分に愛でつつ、冷凍食品と少しの手作りのおかずを黙々と口に頬張る。そんなさつきを横に、心操はふと視線を逸らした。それと同時に響いた砂利の擦れる音に、心操はひくん、と睫毛を震わせたのである。


「――なにやってんだ?お前ら」
「あッ、……いざわ、せんせい」
「…相澤ちゃんこそ何でここに?このアングルからだと強盗犯みたいだよ」
「うるせえよ」

 夏の本番も近いと言うのに、相も変わらずの黒子姿。口元を隠す様に巻かれた操縛布も唯一の武器である筈なのに、何処か重苦しく見える。その理由は、整えられた髭と暑苦しそうにも伸ばされた黒髪が起因している筈だ。そんな人物――相澤消太――を見上げ、冗談染みた言葉を紡ぐさつきの口元には笑みが浮かんでいた。そんな彼女の額を指で弾きつつも淡々とした姿勢を崩さない相澤に、心操はぱちくり、と瞬きを繰り返す。


「……ここ、猫が集まってるだろ」
「癒されに来たの?」
「…それもあるが、お前に話したい事があってな」
「――わたし?」

 そんな心操の反応とは打って変わり、さつきは何処か楽しげに首を傾げる。笑みを堪える様な表情に呆れつつも眉を顰める相澤は、流れる様な動作でその場にしゃがみ込んだ。そして、彼女を覗き込みながら言葉を紡いだのである。その後、相澤の視界に広がった先程とは異なる瞳に思わず笑みを零した。――きょとん、と瞳を瞬かせるさつきはやはり歳相応に見える。過去二年で見る事は終ぞ叶わなかった表情が、今ここには広がっていた。


「毎年、ヒーロー科では夏合宿をやっててな。……ただ、今年は全員除籍に出来なかった分、裏方が人手不足なんだ」
「……まとめると?」
「――手伝わねえか?駄賃は出す」

 「全員除籍」と言う物騒な言葉が聞こえた気がするが、それを敢えて口にはしない。何処か呆れた様子で、問い詰めた先にて紡がれた言葉は所謂「バイトをしないか」と言う事だった。――相澤と知り合い、二年と少しが経つ。しかし、こう言った話を持ち掛けられたのは今回が初めてであった。おそらくそれもさつきが一歩、過去を清算する事が出来たからであろう。そう言った事実がある一方で、彼女は素直に頷く事は出来ずにいた。


「……深海先輩?」
「…………返事、待ってもらっても良い?」
「なんでだ?」
「……ちょっと、知りたい事があって」

 暫しの沈黙が続くに、心操は戸惑いがちにもその名を呼んだ。しかし、その声に応える事がないさつきは誰とも目を合わせず、断らせる気のない問いを投げ掛ける。――夏の乾燥で僅かにかさついた黒い前髪の隙間から、紫の双眸の暗がりが姿を見せた。また独りで何かをしているんだろう、と勘付かせるには充分な闇だ。しかし、その原因を聞き出す事はやはり叶わない事など、相澤は分かっていた。


「……三日な」
「うん、ありがと」

 そう言って、さつきはやはり微笑わらう。それが少し嬉しくて、しかしその表情が少しだけ寂しい気もした。そんな、視線を合わせなくなった彼女は綺麗になった弁当箱を閉め、袋で包み込む。そして再び、随分と人懐っこくなった子猫を愛で始めた。その行為には己への欲にも思えたのだ。――だが、それを俺がする訳にもいかない。その役目は俺じゃないし、おそらく轟だろうから。それを寂しいと思って微笑わらう俺には、どうか気づかないでいて欲しい。


「そう言えば、相澤ちゃんと心操くんって仲良かったっけ?」
「それには訳があって…」
「『わけ』?」
「…まあ、まだ秘密だけどな」
「えっ、なにそれ!気になる!」

 ――そのまま、笑っていてくれよ。




「――深海さん」

 そう声を掛けて来たのは、さつきの幼少期を陰ながら支え続けて来た捜査官――真壁ただし――である。格は何時もの様に白いYシャツをきっちりと着込み、この暑苦しい中、艶を孕んだベストを重ねていた。――しっかりとセンタープレスが刻まれたスラックスを軽く折り曲げ、さつきと目線を合わせる。薄紫の双眸に孕む厳しさの中に、僅かに柔らかな視線を感じては、彼女はゆるり、と瞳を細めた。


「…真壁さん。すみません、直前に呼び出してしまって」
「良いよ。気になる事でもあったんでしょ?」
「……自分の中で、区切りをつけたくて」
「今日はどうするの?」

 艶のある黒髪で右側のフェイスラインを隠す格は、何時もと変わらぬ態度で暑さなどは感じさせない。整えられた髭が口元を飾るが、その見た目からは考えられぬ柔らかな口調は、さつきの心情を穏やかにさせた。そんな彼女は何処か厳しくなった視線を僅かに上へと移動させ、古びた実家を視界に映す。――久し振りに見たそれは、何処か重苦しい。死の臭いが、充満している気がした。その空気に圧されて殺されてしまうんじゃないか、なんて顔を歪める。それでも、さつきには知りたいものがあった。


「――あの人の自室に行きたい、です」

 さつきがそう言うと、格は喜んで、と言いたげに頬を綻ばせ、僅かに錆びた鍵を鍵穴に差し込んだ。そして扉を開けた瞬間に鼻腔を擽るのは、未だに薄まる事を知らない血生臭いそれである。――わたしは、あの人の事を何も知らない。ただ痛みだけを与えるだけだったあの人が外で何をしていたかなんて、知りたくもなかった。もちろん今も知りたくはないけど。好きな色とか、あの人の欲も何も知らない。それを少しでも知れば、あの人の気持ちも少し分かる気がした。

 でも、それは甘い考えだったらしい。




 家の中は、まるで時が止まったかのように思える光景が広がっていた。嵐が懇切丁寧に作り上げた料理はそのままで、無造作にも床に散らばっている。あまりに凄惨である肉塊と血だまりは流石に撤去されていたが、代わりに番号札が置かれていた。無機質なそれが、彼女の最期の生だと言われている様で悲しく思えた。血痕は綺麗に拭き取られ、凄惨さが薄れてはいるが。どう足掻いても消えない事実に、さつきは思わず瞳を細める。
 玄関から数歩進んだ先に、リビングはあった。その先にそれぞれの自室があり、そこだけがあの男の干渉を免れる事が出来る。その自室にも碌な物は無かったが、彼の存在よりかは随分とマシだった。――しかし、さつきの目的はそれではない。己の部屋、母である嵐のそれには見向きもせず、さつきはあの男の部屋のドアノブを回した。群青色で統一されたそこは、限りなくヒーロー業に支配されていたように思う。


「…入った事は?」
「ないです。入ったら最期、殺されていたでしょうね」

 「そう言う人ですから」と付け足すと、格はきゅう、と双眸を細めた。――この人もヒーローの支援に回る人だから、わたしが話す事実は馬鹿みたいな夢物語になるんだろうと思う。でも、わたしが受けた痛みだとか、逃げたくなるような現実は本当だから、この人はわたしの話から逃げた事は無い。本音を話してくれた事もないけれど、それはこの人が公人だから。ただ真実だけを紡ぐその口元は、とても無機質だった。
 室内にあるのは作業用のテーブルと大きめのベッド、勉強で使われたのであろう数冊の参考書である。それらには全て埃が積もりに積もっており、生活感は既に失われていた。霞んだ木材の色を拭うと、ほんの少しだけ過去が蘇ってしまった気がするのだ。――まるで、知らない場所に来てしまった様な感覚に陥ったさつきは、周囲を見回す。そしてふと、とある一枚の床板に僅かながら力を込めた。その瞬間に響いたパキン、と言う軽快な音は、しっかりと彼女の鼓膜を震わせたのである。


「ここだけ軽い……?」

 床板の片側を足先で軽く押すと、カタン、と空間が生まれた。そこには握る事が可能な取っ手が付いており、僅かに錆びたそれは長年使われていない事が分かる。それを持ち上げる様に力を込めると、錆びた金属が擦れ合う音が響き渡った。――床に作られた一つの扉は、新たな世界へと繋がる階段を隠していたのである。先は見えず、闇に覆われている。足元に纏わり付く冷たい空気には、僅かな好奇心も孕んでいるかのように思えた。


「地下…?」
「……この場所の存在は?」
「知らないです。そもそも、地下の空間がある事さえ今初めて知ったんですよ」
「……行く?」

 一段、足を踏み入れる。ギシ、と響く軋みに時間の経過を感じた。――「来るな」とあの人に詰め寄られる感覚さえ覚えたけれども、今のわたしはその声に抗う方法を知っている。相澤ちゃんとの約束、焦凍くんとの時間。そして、真壁さんへの恩。それらを全て裏切って逃げ出すだなんてこと、あの人に殴られる事のなくなった今、やるはずもない。そんなわたしはふと真壁さんを見上げて、表情筋を緩めた。


「――愚問ですよ、真壁さん」




 地下への入り口を見守ってくれている真壁を背後に、さつきは地下空間へと足を踏み入れた。すると、体重を預ける度に軋む音が響く。次第に全身へと纏わり付く冷風は、彼女に僅かな不快感を抱かせた。――なにがあるか分からない。そう思ったわたしは右手に力をこめ、いつでも個性を発動できるように辺りへの警戒を強めた。けれど、その気持ちは周囲の光景でなくなってしまう。わたしの身長を優に超えるものが、周囲に広がっていた。


「書斎…?」

 地上の本棚とは比べものにならない程に巨大なそれは、数列にまで連なっていた。それら全てには隙間なく書籍が敷き詰められており、奥に行けば行くほど、それらは分厚いファイルに変わって行く。その事に疑問符を浮かべたさつきは僅かに首を傾げつつも、埃を被った本を一冊、その手に取った。「異能解放戦線」と書かれたその本は、どうやら思想のそれであるらしい。パラパラ、とページを捲り、数行の文字を追ってはみたが良く分からなかった。
 少し進むと、大きくひらけた空間がそこには広がっていた。中心には備え付けのコンピューター、それと繋がる三枚のモニターである。生憎と、そこには何も映されていなかった。しかし、さつきはコンピューターの周囲に散らばる資料を一枚、手に取る。そこに紡がれていた情報は、彼女の双眸に驚愕の色を孕ませたのだ。


「――ヴィラン、連合?」

 最近になって世間を賑わす様になったその言葉を、何故数年前のこの男が知っている?現在も牢の中に居る筈の彼が、知る機会がなかった筈の言葉を調べる事が出来る?――そこで辿り着いた推測にわたしは、手に持っていた資料を思わず床に落としてしまった。バサバサ、と響く紙の音に気づいたらしい真壁さんは、焦った様子でこちらに近づいて来る。そんな真壁さんは、わたしの表情かおを見た途端、はっとしたように目を丸くさせた。そして恐る恐る、口を動かす。


「……どうしたの?」
「………まかべ、さん」
「深海さん…?」
「…あの人は、自分以外に情を持てる人ですか。誰かを守れる気概はありましたか」

 優しくされた事なんて一度もない。頭を撫でられた事も、抱き締められた事も、何も。そんな人が外でどんな顔を晒しているかなんて聞きたくなかったし、どうでも良かった。でも、この資料の日付はかなり昔。あの人が本格的にヒーロー業を始めて、数年しか経っていないはずだった。たった数年、その数年をわたしは知らない。きっと、わたしの母さんも知らない。――この人は、一体何の為にヒーローになった?


「――あの人は、本当にヒーローでしたか?」

 その時のわたしはひどく泣きそうな表情かおだったと、後の真壁さんは言った。




「――どうした?」

 夜も深まり始め、余程の事でなければ端末も震える事は無い時間帯だ。そんな時間帯に、男――相澤――の端末は大いに身を震わせた。その画面に映る名は、待ち望んだ教え子のそれである。何時もより幾分か素早い所作で緑色のボタンを横へスワイプさせ、端末の画面を耳へと触れさせた。――息遣いが、細い。その事に思わず眉を顰めた俺は「深海?」と、戸惑いがちに名前を呼んだ。そのひと声に我に返ったらしい深海は、一瞬だけカチリ、と歯先を鳴らす。


『先日話してた、返事。……行くよ』
「急だな、助かるが。…どうした?」
『――渡したい物がある』
「…それは、合宿でプロヒーローの数が増えるからか?」
『……その方が、都合が良い』

 最近ようやく聞き慣れて来た朗らかな声色とは異なり、硬いそれは酷く重苦しい。まるで事務連絡の様に言葉を紡ぐさつきが今、何処に居るのか、今の相澤には皆目見当も付かないのだが。――浅い吐息を吐き出し、相澤は背凭れに体重を掛けた。ギイ、と響いた軋む音は恐らく向こうにも聞こえてしまった筈だ。しかし、何も言わないさつきは彼の返答に漸く肩の力を緩ませたらしい。微かに響いた安堵の吐息に、やはり彼も安堵した。


「――分かった」

 今はもう、独りで抱え込みはしないだろう、と相澤は根拠もなく思ったのだ。