傷を舐め合う同族どもよ
「……で、こんな早朝にこんな山奥に呼び出した理由は?」

 掠れた声でそう問い掛けるさつきは絡まる黒髪を軽く梳かし、不機嫌そうな視線を露骨に曝け出す。それを甘んじて受け入れる相澤は、僅かにも罪悪感があるのか言い淀む様に唇を何度か動かした。事前に伝えておいた持ち物は全て準備していたようで、そこまでバタつかずに出て来れたお陰でこの時間だ。もし、現地集合だと言われていたら、彼女は師と半ば本気の喧嘩を繰り広げていただろう。


「一週間の合宿中、お前には強化訓練の手伝い、初日の食事と休憩時間に補給する軽食、飲料の準備をしてもらおうと思う」
「……それ、一人で?」
「いや、今回お世話になる人達がいる。もう来ているはずだが…」

 一人暮らしが長い分、料理に関してはあまり心配はしていない。拗れに拗らせて料理をしていない時期もあったが、今まで培って来た習慣と言うものは素晴らしい。手を動かしているうちにすっかり思い出してしまった。しかし、訓練の手伝いと言われれば話は別だ。実戦の経験は皆無、身体を動かす相手と言えば相澤のみである。――などと言いたい事は大いにあるが、その疑問達が晴れる事は無かった。それは、唐突に鼓膜を震わせた掛け声が原因である。


「――煌めく眼でロックオン!」
「……お」
「キュートにキャットにスティンガー!」
「は?」
「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!!」」

 ――なんか出て来た――そう言いたげな呆れた表情をさつきは浮かべる。こう言う場面においても一切表情の変わらない相澤の表情筋は、やはり死んでしまっているのではないだろうか。そんな考えがあけすけになってしまったのか、脇腹を小突かれた。――「プッシーキャッツ」と叫んだ二人組はピクシーボブ、マンダレイと言う名のプロヒーローらしい。登場する度にこの謳い文句を言い続けているらしく、その根性は素直にすごいと思った。しかし、それだけである。


「……この方達は?」
「この合宿中、宿を提供してくれる人達だ。一週間、お前はプッシーキャッツの皆さんと裏方の仕事をやる事になってる」
「この子が、イレイザーヘッドが言ってたお弟子さん?」
「はい。…深海」
「…雄英普通科三年、深海さつきと申します。少しの間ですが、どうぞよろしく…」

 プロヒーローの力を借りる程の合宿とは、流石は国立校と言うべきだろうか。真っ直ぐ向けられる視線に戸惑いつつも、さつきは言葉を紡ぎながら手を差し伸べた。――しかし、そこではっとする。自分の立場を忘れていた。いくら轟との仲違いが解消されたからと言って、世間から向けられる「人殺し」の視線は消えないのだ。何処か冷え始めた体温を感じながら、差し出した手を下ろし始める。しかし、それをしっかりと包み込んだのはピクシーボブの、僅かに筋肉質な両手だった。


「よろしくね!さつきちゃん!」
「……よ、ろしくおねがい、します」
「すっごく礼儀正しい子だね!イレイザーヘッド!」
「口は悪いですよ」
「ちょっと!」

 あまりに真っ直ぐな視線に、さつきはぱちくり、と何度も瞬きを繰り返した。――成田を、思い出した。あの子はもう少し距離を図りながら近寄って来たけれど。それでも、変な同情がない視線は、あの頃のわたしにとっては有り難いものだった。わたしの噂を知らない訳じゃないだろうに、変な好奇心を一切見せなかった。それは、今目の前にいるピクシーボブにも言えること。それが分かったのか、口いっぱいにものを言いながらも、相澤ちゃんも少し笑ってた。
 もう少し陽が昇ってから、生徒らと共にもう一度訪れると言う事で相澤は帰って行った。残されたさつきはこれから一週間、ピクシーボブとマンダレイと寝食を共にするらしい。――やる事はたくさんある。その一つが宿の掃除だった。


「キッチンの奥にほうきとモップがあるから取って来てくれる?」

 マンダレイにそう言われたさつきは一度だけ頷き、宿の方へと足を踏み入れる。複数の長机が並べられたそこは、普段はリビングとして利用されているらしい。その奥にあるキッチンの隅には、用務ボックスが立て掛けられている筈だ。――しかしその道中、こちらを睨み付ける様に立ちはだかる子どもが居る。キャップの陰に隠れてきちんと見える訳ではないが、その瞳には僅かな苛立ちがあるように感じた。


「……この子は?」
「私の従甥、出水洸汰よ。一週間、この子も一緒に暮らす事になってるの。仲良くしてあげて」
「……洸汰くん?」

 あまりに真っ直ぐ過ぎる視線だったかと思えば、さつきがしゃがめばそれは逸らされる事となった。――妬みや恨みが大いに篭ったその視線、少し前のわたしを見ているみたいだった。全部のものが信じれない、って言いたそうなその視線。……そうだね、わたしもそうだったね。近付く人みんな、敵だと思ってたね。笑っちゃうほど愚かで、馬鹿みたいに純粋な子ども。そんな君に向かって少しだけ手を近付けると、洸汰くんは怖がるように肩を震わせた。その様子に思わず笑っちゃったわたしは、きっと意地が悪い。


「……雄英高校から来ました、さつきって言います。短い間だけど、よろしくね」
「ゆうえい…」
「知ってる?」
「……『ヒーローになりたい』なんて下らん連中がいる場所だろ」
「洸汰!」
「――わたしもね、ヒーローが嫌いなんだ」

 マンダレイの一喝を消し去る様に、さつきは静かに一言だけ言い放つ。すると、洸汰は「え」とか細い声で空気を震わせた。そんな反応に返される微かな笑みがどうにも不気味で、彼は大きく瞳を見開かせる。ひゅ、と後ろに居るマンダレイが一瞬、息を詰まらせた。――民泊の真似事をしているが、露出された手足の筋肉を見る限り、しっかりと実戦経験を積んで来たであろうプロヒーローだ。恐らく深海拳人の一件も知っている筈である。しかしさつきは口を止めようとはせず、もう一度唇を開いた。


「わたしね、お母さんの事が大好きでね。あの人にはずっと笑顔でいて欲しくて。でも、父はお母さんをずっと傷付けてた」
「……家族なのに?」
「家族なのに。……お母さんはいなくなって、父はヴィランになった。ヒーローなのにね」

 「だからわたしはヒーローが嫌い」と加え、さつきは絞り出す様に笑みを浮かべた。ごくり、と響いた生理的な音は一体誰から発されたそれであったのだろうか。――洸汰くんのその一言が、限りなく真理だったようにも思う。「家族なのに」傷付けた。「家族なのに」いっぱい泣かせた。「家族なのに」殺した。血の繋がりほど曖昧なものはないな、と幼心ながらに思った。ヒーローの力を使ってヴィランへとなった父を、一生理解する事は無いのだろうな、とも。


「雄英にいるのに?」
「そんな意地よりも、大事にしたいものがあったの」
「大事に、したいもの」
「――洸汰くんにも『大切』が出来るように、わたしがお祈りするね」

 「大事にしたいもの」と声を発した瞬間、さつきの脳裏に浮かび上がったのは、個性を如実に表した紅白の髪。それとの距離が縮まり、思わず視線から優しさが溢れ出る。――そう言えば、ここに来る事をあの子に伝えていなかった。驚くか、ちょっと怒られるか、それは分からないけど。怒られても良いな、と思った。その距離にいるのだと、あの子の言動すべてで分かっているから。洸汰くんの小さな手は、昔のあの子にそっくりだった。


「……出水、洸汰」
「え?」
「ここに住むんだろ、ちょっとだけ。その間だけは色々教えてやる」
「――ありがとう」

 そう言って頭を撫でても、洸汰は嫌がる素振りを見せなかった。そんな様子に気を良くしたさつきは漸くはっきりとした笑みを見せ、すくり、と立ち上がる。もう、恐怖は無かった。――一緒に掃除をしよう、と誘うと、洸汰くんは素直に掃除道具を取りに行ってくれた。ぱたぱた、と響く足音が可愛いな、と思わず微笑わらう。その直後、わたしの耳はマンダレイさんの声を拾った。あまりに小さな声は、どこか戸惑いを含んでいる。


「ごめんなさい。あの、変な事を話させてしまって」
「……変な同情はいりません。これでも、吹っ切れてる部分もあるんですよ。少しだけですけど」
「でも…」
「……消えない傷もあるし、歪んでしまった性格は消せない。でも、不幸じゃないんです。――だから、大丈夫」

 強い子だ、と思った。あの凄惨な事件からこれほど純粋な子が生き長らえるなんて、奇跡に近い。でも、ちゃんと笑えてない。不安も何もかも忘れて、綺麗に生きる事なんて出来ない。そう考えると、あの男がして来た事はあまりに罪深いと思う。罪深く、そしてあまりにも業が深い。ヒーローとしても、人間としても、私もかつては子どもだった事を考えてもあまりに自分勝手な振る舞いだ。
 イレイザーヘッドから話は聞いていた。「芯が強く、独りでも生きて行けるような奴だが、ひどく脆い子どもでもある」と。きっと、危ない橋を行ったり来たりして来ている。だから、守らなきゃいけないと思った。きっと、ピクシーボブも同じ事を考えてるはずだから。でもきっと、この子も同じような事を考えてるんだろうな、とも思う。――すべてを包み込むような笑みを浮かべるさつきちゃんは、確かに英雄ヒーローであったはずだから。




 ――騒がしくなって来た――時刻は5時20分、ちょうどご飯時と言っても差し支えないだろう。夕飯の準備が漸く終わり、数時間着けていたエプロンをキッチンの椅子に掛けた。その騒がしさに歩を進めると、それと同時にさつきの鼓膜を震わせる声があるのだ。僅かに急かされた足取りで外へと踏み出せば、そこには見知った顔が幾つか見えた。その中でも目を見張る色に、彼女とその当人は同じタイミングで瞬きを繰り返したのである。


「――さつき、お前なんでここに」
「お、お手伝い」
「…………聞いてねえんだけど」
「ご、ごめん。実技テストで忙しそうだった、し」

 さつきの言葉を聞いた轟は、すっかり視線を合わさなくなってしまった。そんな幼馴染を前にして、彼女は「拗ねないで」と彼の髪に柔く触れる。その雰囲気は酷く柔らかなそれだった。――しかし、年頃の少年少女にとっては酷くむず痒いものとなったのである。だが、そんな周囲には気付かず、この当人らは二人だけが理解できる会話に夢中だった。そんな中に乱入できるのは、双方のどちらかに面識がある人物のみである。その筆頭が麗日だった。


「深海先輩、お久し振りです!」
「――お茶子ちゃん?」
「お手伝いって言ってましたけど、一週間ここにいるんですか?」
「…うん、休憩時間の軽食とか簡単な物を作るってだけども。よろしくね」

 少し下に位置するお茶子の目線と合わせる為に、僅かながら膝を折る。明るい茶髪が太陽に晒され、酷く眩しかった。――ふと笑みを浮かべ、表情筋を緩ませる。少し、自然でいられたのではないだろうか。それを、この子に悟られてなければ良いけれども。にこり、とあからさまな笑顔が苦しい。だから、わたしはただ微笑わらうだけだった。昔、幼い頃に愛想を知っていて本当に良かった。


「……さつきが?」
「…なに、だめ?」
「だめっつうか、……さつきの飯食うの、久し振りだから嬉しいな、と思って」

 轟のそんな言葉に、さつきはぱちくり、と瞬きを繰り返す。しかしそれも束の間、そんな彼女の頬はぶわり、と一気に赤く熟れたのだ。――お母さんのお墓参りに行ってからと言うものの、ストレートに言葉を伝えてくれるようになった。嬉しいとか、あいたいとか、そう言う気持ちを言ってくれるようにもなった。それはとても嬉しい事なんだけれども、わたしは未だにその素直さに慣れない。だからこうして、周りからの視線に恥ずかしくならなくちゃいけない。


「…………あの」
「なんだ?」
「…そう言うの、よくない」
「なにがだよ」
「みんなの前でそう言う事を言うのは、その、……はずかしい」

 耳に掛けていた、伸びた黒髪で輪郭を隠す。それと白のコントラスト、そこに映える仄かな赤は酷く目立っていた。その色合いに視線を奪われていたが、ふと耳に届いた一言に、轟はさつきと似た様に頬を赤らめる。ぶわり、と熟れる目元に思わず目を逸らし、彼女はこの場から逃げたくなる気持ちに苛まれる事となったのだ。――そんな状況で言葉を発する事の出来る人間など、無に等しいのではないだろうか。そんな思い込みを見事綺麗に消し去ったのが、先程からさつきに敵意を向ける爆豪なのである。そんな爆豪は歯茎を露見させ、さつきに噛み付き始めた。


「……あの時の…」
「…………爆豪勝己」
「どう言う心変わりだ、てめえ」
「…心変わりなんてしてない」
「ああ!?」
「ちょ、ちょっとかっちゃん!急になに喧嘩売ってるんだよ!先輩だよ!?」
「関係ねえわクソが!」

 先程の甘ったるい雰囲気とは打って変わり、爆豪との視線が交じり合った瞬間、二人の間には鋭い空気が漂い始めた。その状況に口を挟んでしまう緑谷は、やはり爆豪の気持ちを理解する事は一生できやしないのだろう。――今まで見たヒーローの卵の中で一番ヴィラン顔で、それでいて一番ヒーローに憧れてる子。その印象はきっと間違ってないと思う。だから、わたしに苛立って仕方ないんだろう。その瞳は、きっとわたしを跳ね除けようとしてる。


「……中、入れば?」
「話す気はねえんか、クソ女」
「なにを話すの?素性も分からない人間に自分のアレコレを話す訳ないでしょ」

 「てめえ…!」と唸る様な一喝が空気を震わせる。しかし、その声を向けられた当人であるさつきは冷めた視線を何処へやら、既に爆豪から興味は失せたらしい。今にも彼女に噛み付きそうになるところを緑谷、切島らに抑えられているのもあるだろう。――先陣を切って歩を進めたさつきは、入り口付近に立ち尽くしていた洸汰に声を掛け、その手を取る。その手は少し、冷たくなってしまっていた気がした。




 それぞれ自室に荷物を置いたあと、リビングでは盛大な夕食会が行われていた。大皿料理をメインに炊き立ての白米は当然のこと、豆腐とほうれん草の味噌汁はしっかりと出汁から取ってある。次々と空になる大皿に呆気に取られるも、さつきは事前に考えていた料理を次々と作って行く。――それがひと段落着いた頃、食事が始まって一時間は経っただろうか。漸く後輩らの様子を見る事が出来る時間を手に入れた。
 その時、いの一番に声を掛けてくれた上鳴は、どうやら筆記の赤点は免れた、との事だ。実技ではクリア出来ず、と聞いたが、数年前にミリオも赤点組であったし、上鳴は大物になるのではないだろうか。そんな上鳴を遮る様に笑みを浮かべてくれたのが耳郎だった。「お久し振りです」と紡いだ声の方が久方振りだと感じたが、実際には、そんなに月日は経っていないらしい。――そう実感したと同時に、さつきは漸く一つの視線に気付く。それは、碧眼を持つ幼馴染のものだった。


「――これ、全部さつきが作ったのか?」
「いや、手伝ってもらったよ?さすがに」
「…すげェ美味い」
「ほんと?」
「…さつきの料理は昔から、ずっと美味い」
「――ならいっぱい食べて、ゆっくり休んでね」

 「ありがとう」と付け足して、さつきは轟の髪を撫でた。その手は妙に温かく、そして、昔を思い出す。ただ純粋に愛でられるだけだったあの日々が脳裏を巡った。――その事にむくれる俺は、まだまだ餓鬼である事には変わりないんだろうが。面白くねえ、って事実は変わらない。それに加えて、そんな俺の気持ちに気付かないさつきも、良くも悪くも昔と何も変わらない。それはずるいけど、愛おしくもあった。そんな轟の様子に気付いた砂藤は、覗き込む様に轟を見上げる。


「――どうした?轟」
「……いや、年上ってずりいなって」
「あー……幼馴染だっけ?二歳上ってだけなのにすげえ大人っぽいよな」
「…ん、そうだよな。だから、すげェ焦る」
「『焦る』?」
「ああ。早く追い付かねェと、って」

 僅かながら表情が柔らかくなったさつきを横目に、轟は白米を一口頬張る。その炊き加減はランチラッシュと酷似していた。大皿に盛られた唐揚げも、見た目と比べてかなり油を落としているらしい。しかし、味付けは食べ盛りの高校生向けに濃くされている。そう言う要素も全て、さつきの思い遣りの仕方だった。そして、それを当然の様にやってのけるのだから轟は焦る。強さや力ではない、人として置いて行かれた気になるのだ。


「……いや、でも、轟はかなり特別扱いされてるんじゃね?」
「え?」
「あの表情かおは轟限定のレアものじゃねえの?」

 その後に続いた砂藤の「分かんねーけどな!?」と言う保険も、轟にとってはさほど大切ではない。その前の言葉が真実であれば良いと、少しだけ、自惚れた。――この前のヴィラン大量発生事件の事は知ってる。それに轟と緑谷と麗日、そしてあの先輩が関わっていた事も。先輩の噂も、もちろん耳には入ってた。でも急に近付いた轟との距離、さっきのあまりに柔らかい笑顔、名残惜しそうに離された指先を見ちまえば、色々と察するのは当然だった。
 独りで進もう、とはしてねえ、と思う。じゃなかったら、轟をこんなに案じたりはしないだろうから。でも、当の轟は妙に遠慮がち。お前を置いて行ったりはしないと思うんだけど、歳相応に恋愛に悩む轟を見るのは少し楽しかった。

 こっちが恥ずかしくなるくらいの表情は、どう足掻いても轟を想ってた。




「――焦凍くん?」

 食堂に響くのは、僅かにとろけた幼馴染の声。その空間で、轟は母への手紙をしたためていた。筆記用具を手に早30分、未だに便箋を文字で埋める事は出来ていない。そんな時に耳に届いた己の名に、彼はふと振り返った。――水分でぺたり、と張り付いた、伸びた黒髪には何時もより艶がある。風呂場の熱気で頬は火照り、双眸も何処か潤んでいるようにも見えた。見た事のない表情に、轟の心臓はずくり、と跳ねる。それを隠す様に、彼は僅かに視線を逸らした。


「……おかえり、さつき」
「ただいま。上鳴くんに捕まっちゃった」
「ああ…懐かれてるもんな、上鳴に」
「筆記テスト頑張れたみたい」

 そう言って、さつきは楽しそうに笑みを零す。その瞬間、耳に掛けられていた黒髪がぱさり、と首筋に垂れた。そこから垂れ落ちる水滴に、轟は瞳を奪われてしまったのである。――だめだ。だめだろ、俺。まだ幼馴染で、もう一人の姉みたいなもので、決して、そんな目で見ちゃいけねえ相手だ。そんな煩悩を振り払うようにさつきの手首を掴み、引き寄せる。それは少し熱くて、俺の予想以上に細かった。


「……髪、すげえ濡れてる」
「…………お風呂上がり、だから」
「乾かすからこっち来い。風邪引いちまうぞ」
「や、やだ、子どもみたいじゃん」
「――ほら」

 伸びた横髪を掬い取り、掌に水分を染み込ませる。その行動にさつきは戸惑いを見せるも、どうやら轟の言葉には抗えないらしい。ぽんぽん、と太腿を叩き、こちらへといざなえば、彼女は観念した様に幼馴染の脚の間へと座り込んだのである。――ちょこん、と座るその身体は酷く小さく思えた。首筋は細くて、きっと、すぐに呼吸を奪えてしまうのだろう。そんな、する訳のない事を考えて、轟はさつきの毛先に手を伸ばした。ふるり、と跳ねる色合いが僅かに厭らしい。
 音を遮断するドライヤーが、さつきの黒髪を滑る。――本当は、さっさと個性で乾かして話したかったけど、さつきの髪が燃えちまうなんて耐えられなかった。から、こうして俺はさつきの髪に触ってる。髪が短いからか、冷たい感覚はすぐに消えた。その事をさつきも自覚したのか、俺の方に顔を向けて来た。こんなに幼かったか、と驚いた。


「――焦凍くん?」
「……乾いたぞ」
「うん、ありがとう」
「…イレイザーヘッドに連れて来られたのか?」
「……それもある、んだけど」

 少し小さなさつきの瞳が、轟の端正な顔立ちを映す。見慣れている筈のそれは何処か大人びてしまっていて、彼女の中で僅かに緊張が走った。どうやらそれに気付いていないらしい幼馴染は、ぱさり、とひと房の髪を肩に落とし、満足気に双眸を細めている。――しかしそれも束の間、轟はやはり核心を突く。ただの天然なのか、確信犯なのか、ずるい子だと思った。そんな彼に対し、さつきは思わず言葉を濁す。だが、それではだめだと思い直したのである。そこは彼女が成長した点であろう。


「――あいつの事か」
「ッ……いや、えっと」
「……混乱してんのか」
「…………う、ん」

 距離感など気にせずに、轟は疑問符など付けずに言葉を紡ぐ。それに大した返答も出来ず、しかしそんな幼馴染を気にした様子もなく、彼は目の前の惚れた女に対して気遣う様な言葉を送った。そこで漸く、さつきは初めて頷く。――明確に言葉にした事は無かった。でも、確かにわたしは混乱していて、まだ認められなかったのかもしれない。その事実をようやく自覚したわたしは恐る恐る、口を開く。


「……今まで信じてたものが、もしかしたらうそかも、しれなくて」
「ああ」
「それが、わたしはすごく、ショックで」
「…ああ」
「…でも、それを聞く勇気なんてないし、こうやって、愚痴る事しか、できなくて。それがすごく弱く見えて、悔しくて」
「……自分が、嫌になるか?」

 優しく、けれどわたしを責め立てる訳でもなく、急かす訳でもない声色にとても安心した。まるで抱き締められているようで、きゅう、と心臓が苦しくなる。その苦しさは、焦凍くんがわたしの図星を突いてからひどくなった。――いやだよ、すごくいや。消えない傷も、どう足掻いても碌に近付けない人との距離も、なかなか笑えない表情かおも全部、呪われてるんじゃないかって思う。そう思ったわたしはこくり、と頷く。でも、焦凍くんはそんなわたしを分かった上で、もう一度言葉を被せた。


「――でも、俺はそれで良いと思う」
「え…?」
「初めて見たから、さつきの弱い姿。だから少し、嬉しくて。……だめだったか?」
「……すっごく不謹慎」
「…わりい」

 「思ってないくせに」と軽く悪態を吐けば、焦凍くんはちょっと嬉しそうに微笑わらった。――そんな表情に気が抜けてしまったさつきは、ぽすり、と轟の肩に額を預ける。風呂上がりだろうか、彼のそこは僅かに温もりを帯びていた。一度だけぐり、と押し付け、甘える動作を彼に与える。どう言った想いを抱いたかは分からない。しかし、跳ね除けない手が全てを語っていたに違いない。そう思った彼女は少し、同じ様に微笑わらった。


「……焦らなくても、いい」
「え――」
「お前がされて来た事を考えりゃ、混乱するのが普通だろ。…俺だって、親父がしでかして来た事を考えりゃはらわたが煮えくり返りそうになる。焦りもするよ」
「焦凍、くん」
「俺とさつきの境遇が似てる、とは言わねえ。似てねえからな、実際。…でも、さつきはもう逃げ場のなかったガキじゃねえし、独りでもねえだろ」
「……うん」
「それに、――俺もいる」

 「そばにいる」と最後に言われ、さつきの視界は酷く潤んだ。――きっと、焦凍くんは必死に言葉を選んで口にしてくれている。きっと、すごく考えてくれたんだと思う。わたしの境遇とか、幼い頃の様子を一番知っているのは焦凍くんだから。だから、一番わたしの心臓に刺さる言葉も分かってる。無意識な時がほとんどだけど、このぬくもりだけは、きっと。そんな時、顔に触れるそれに驚いたわたしは小動物みたいだったと思う。


「……顔、見せてくれ」
「や、だ」
「さつき」
「ッ、……う」
「…やっぱり泣いてた」
「み、見ないでよばか……」
「別に良いだろ。俺しか見てねえ」

 最初は支えるだけだった力も、次第に強制力が増して来る。「やだ」と駄々を捏ねても無駄である事には気付いていた。しかし、さつきは幼馴染の声色で紡がれる自身の名に弱いのだ。轟の視線を改めて自覚すれば、彼女の双眸からは涙が溢れ出る。愚図る様な声しか出なくて、泣き言だけが唇から零れて行く。それに加えてとどめを刺す彼は、やはり酷い人間なのではないだろうか。しかし、抱き締める腕は酷く優しい。


「――俺しかいない」
「しょうと、く、ん」
「なんだ?」
「なんで、泣いても、いいの」
「…どんなさつきでも、守りたいから」
「なんで――」

 なすがままに抱き締められるさつきの身体は思った通り、細い。力を込めたら折れちまうじゃねえか、って思う。こいつはそこまで弱くもないけど。でも、俺が喋る度に涙を零すものだから少しだけ焦る。そして、庇護欲が煽られた。ぎゅう、と少しだけ力を込めて抱き締めると、さつきはようやく抱き締め返してくれる。なんで、どうして、と何度も聞き返すさつきを黙らせるように、俺はさつきの首に鼻先をうずめた。


「――それが、俺がヒーローを目指す理由だから」

 そう言うと、さつきはまた泣いた。