見下ろす世界は美しい
「さつきちゃーん!」
「はーい!」
「ちょっと手伝ってくれる?」

 ヒーロー科の林間合宿に急遽巻き込まれたと言うものの、さつきの朝は早い。生徒40人、相澤を含む裏方の食事の準備を6時までには済ませていなければならなかったからだ。もちろんプッシーキャッツらの助けもあるが、栄養管理の長はさつきである。そのため、本日のさつきは朝の4時から活動を開始している。――その甲斐があってか、みな朝食のレパートリーを褒めてくれていた。そこから後片付けや掃除をしていると、あっと言う間に陽は高くなったのである。
 夏の日差しは鋭く、幼少期を思い出させる。海にも行った事がないから、煌めく青色とやらが何かは分からないけれども。――きっと今頃、焦凍くんも頑張ってる。思わず表情筋を緩めると同時に、わたしはマンダレイさんに呼び止められ、笑顔を向けられた。優しくあたたかいそれに、わたしは早くも絆されかけていた。




 マンダレイがさつきを呼び止めた理由は、生徒らに差し入れを渡す為であったらしい。空腹感を殺すであろうおむすびにカットフルーツ、身体の熱を奪う為のアイスクリームなどが入った保冷バッグは通常よりも重かった。――宿泊施設を出て、少し山を下る。そこでは、まさに地獄絵図が繰り広げられていた。「阿鼻叫喚」と言う言葉が最も似合うであろうこの現状は、訓練と言うよりかは寧ろ苦行だろう。そんな事実に顔を歪めつつ、さつきは相澤に声を掛けた。


「……なに?これ」
「言ったろ。訓練合宿だ、って」
「…………罰ゲーム?」
「ちげえ」

 肩から下げていた保冷バッグをその場に下ろし、ところどころで響いて来る悲鳴に耳を傾ける。世間一般の「訓練」とは大きくかけ離れているだろうな、と率直に思った。――わたしの時はここまでひどくはなかったから。わたしは個性を使うこと自体に慣れていなかったから、多分力を外へと出す事を重視してくれていたんだと思う。けどこれは、……短期決戦とでも言えば良いのか。身体の成長よりも能力の定着を先んじる事にしたらしい。


「――気になるか?」
「…………えっ」
「轟、目がそっちに行ってる」
「……行ってない」
「どうだか」

 そう言って相澤はふ、と笑みを零す。目線を合わせないその佇まいは、さつきをいじけさせる様にわざと圧しているようだった。……図星だった、とは思う。気になったのも確かだ。しかし、彼に言及されるのはどうにも癪に障るのである。む、と拗ねた様にこちらを睨む彼女は少しだけ、歳相応にも見えた。――そこかしこで爆破音や破裂音、鼓膜を劈くそれらが響き渡る。その中でひと際目を惹いたのは、やはり轟の氷と炎だった。


「……昔は、本当に弱かったんだけどなあ」
「ガキの『親離れ』は寂しいか?」
「……バカ、ちがうよ」

 蒼と橙が織り交じる、美しいグラデーション。微かに残るその二つは、さつきの視界をじんわりと蝕んでいた。そんな彼女に対して、相澤は茶化す様に言葉を紡ぐ。しかしそんな言葉を、彼女は嘲笑った。――焦凍くんを「息子」だなんて思った事は無い。小さな子ども、だとはずっと思ってたけど。強く、大きくなってくれた事は嬉しい。誇らしい。でも、もう力が及ばない人になってしまったんだと思うと少し、さみしい。


「――ただ、わたしが離れて欲しくないだけ」

 そのさみしさにさえ気付いてる焦凍くんはやっぱり少しだけ、大人びた。




「先輩!美味いっす!」
「それは良かった。ゆっくり食べな、ね」

 昼食から数時間が経ったあと、生徒らはようやく休憩を許された。相澤曰く、熱中症対策との事だ。ところどころで隆起した崖は上手い具合に影を作り、生徒らに清涼感を与えている。そう言った場で口にする栄養素は酷く美味である気がした。訓練内容がよほど辛かったのか、上鳴は涙目になりながらおむすびを頬張っている。その勢いに思わず苦笑を漏らすも、さつきは金色の髪を撫で、そしてもう一度微笑んだ。


「みんなへろへろだね」
「…………ん、ああ。ずっと個性を垂れ流してるようなもんだからな」
「……焦凍くんも疲れてる?」
「…少しだけ。炎はあまり使わねえから」

 生徒の集団から抜けたさつきは、崖に凭れ掛かる轟の隣に並ぶ。そして緩く苦笑を浮かべながら声を掛けた。しかし返答には少しだけ、時差があったようにも感じる。そこから疲労を感じ取ったさつきはこてん、と緩く首を傾げた。――揺らぐ、長めに伸ばされた黒髪が熱っぽい風で踊っている。そんな動きを眺めていた最中、じゃり、と地面を擦る音が微かに響いた。それの発生源は酷く眉を顰め、こちらを睨み付けている。


「――ばくごう、勝己」
「……どうした?おまえ」
「てめえは口挟むな、半分野郎。――ちとツラ貸せや」

 あの時と変わらない鋭い目付き。しかし、今はそれに加えて明確な敵意も孕んでいるように感じた。――理由は、分かる。あの最低で低俗な初対面の時から何も言葉を交わせていないからだ。もとより謝って欲しいわけでもないだろうけど、きっと、わたしの考えが気に食わないんだと思う。「カツアゲでもするつもりなの?」って喧嘩を売りでもすれば、この子はこの場でブチ切れるんだろう。馬鹿ではないのでそんな事はしないけれども。


「…………分かった」
「さつき、お前…」
「大丈夫だよ。――相澤ちゃん、良いよね?」
「……助けねえぞ」
「いいよ」

 幾度か視線を泳がせるも、最後にさつきはしっかりと爆豪を見つめた。少し後ろに立つ轟の声を制止し、相澤の許可を取る。呆れた様に腕を組む相澤は浅く溜め息を吐き、顔を背けてしまった。そんな師の様子に僅かに歪ませた笑みを浮かべては行こうか、と爆豪に声を掛ける。そのひと声に紅い双眸を丸くするも舌打ちを響かせ、爆豪はさっさと歩を進めてしまっていたのだ。――それに倣う様に指先を掠めるさつきのそれはやはり細く、早くに折れてしまいそうだった。




「……よかったんですか」
「…なにがだ?」
「爆豪のやつ、あいつ絶対ケンカ吹っかけますよ」
「だろうな」

 何処かしらに姿を消したさつきと爆豪を横目に、轟は淡々と言葉を紡ぐ。視線が絡み合う事は無かったが、相澤は迷った末に問いを投げ返した。――なにを話しているのか、大体は予想がつく。どうやら轟もその事には勘付いているらしく、お綺麗な表情かおを歪めていた。……つうか、あれから一切関係修復してねえってどう言うこった。轟との事もあったし仕方ねえ部分もあるだろうが、あれから何ヶ月経ってると思ってやがる。


「……さつきは苦手です、爆豪みたいなやつ」
「あの男を思い出すからか?」

 その質問に、俺は何と答えれば良いのか分からなかった。だから口を噤んで、瞳を伏せる。――爆豪自身が倫理を持ち合わせていない、と言いたいわけじゃない。寧ろ誰よりも持ってると思う。ただ、気性の荒さだとか、でけえ声だとかがどうしてもあいつを、――深海拳人を思い出させる。きっと、イレイザーヘッドが言う「あの男」っつうのもそれだろう。そんなイレイザーヘッドは、今思い出したかのように「そうだ」と声を漏らした。


「お前、六年前の事件は知ってるだろ。なにか進展でもあったか?」
「進展、ですか?」
「……いや、知らねえなら良い。変な事を聞いたな」
「……ちょっと待ってください。あんた、一体どこまで、――」

 轟の追撃から逃げる様に、相澤は身体ごと逸らす。そんな相澤の二の腕を掴んだその瞬間、岩陰からは鼓膜を酷く震わせる爆発音が響き渡ったのだ。時折降って来る小石は近辺の岩が削れた物だろう、砂になる物もあった。爆破による煙で視界は霞んでいる。しかし、その現場に最も近かったであろうさつきが巻き込まれた事は明白であった。そして、この騒動の発端が爆豪である事も避けようのない事実なのである。


「あいつ本気でやりやがった……!」
「ッ、あの馬鹿が!」

 穏やかで終わるはずだった束の間の休憩も、途端に騒々しくなるのがこの爆破音だ。ゆっくりと視界が透明になって行く様が、今は酷く恨めしい。――一方、さつきも同様の状況に陥っていた。しかし、何処か楽しさを覚えてしまうのも嘘ではない。その証拠として歯を食い縛る様に、僅かに白い歯を見せている。その笑みは未だ敵意、基い単なる苛立ちを己に向ける男へと注がれていた。話し合いより、直接肌を合わせる方が手っ取り早い。
 その気配が動くそれを感じ取り、さつきは両腕に蒸気を纏わせては眼前にてそれらを構える。その瞬間、力の篭ったひと蹴りが彼女の両腕に振り下ろされたのである。びりびり、と響く痛覚に思わず眉を歪めるも、それでも笑みは消えなかった。それが、酷く爆豪の苛立ちを煽るのだ。


「……んと、腹立つよなァ先輩さまは」
「なにを、――」
「しかもイレイザーヘッドの愛弟子ときた。……あの教師に思い入れはねェが、何を考えてやがる。てめえ」
「…………一度で良いから愛されてみたかった。――それっていけない事なの」

 不規則な破裂音を響かせながら、爆豪は目元に陰りを見せた。地毛である金色とのコントラストが酷く不気味で、さつきは思わずごくり、と喉を震わせる。そんな彼女の一言に目の前の男は、ふと鼻を鳴らした。――ああ、腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ!「愛されてみたかった」だァ?あれだけ人に愛されてるくせに何を戯れ言抜かしてやがる。最期まで身を挺して犯罪者から守り抜いた母に半分野郎、イレイザーヘッドに耳を苛め抜くクラスメイトの女。多分、あのクソナードも嫌っちゃいねえだろう。……そして、ヒーロー向きの個性。
 ――なのに!この女はそれでも不幸だとのたまいやがる。その、神経を逆撫でするような態度が気に喰わねェ。気に喰わなくて、お世辞にも一発喰らわせたくなった。


「お前、自分が一番不幸とでも思ってんのか?――ふざけてんじゃねェぞ」
「な、――」
「勝手に憧れて期待して、勝手に失望しただけだろうが。半分野郎は心底甘やかしただろうが、俺は死んでもしねえ」

 爆豪のその言葉に、さつきは無意識にも歯を食い縛る。――「憧れて」?……ふざけるな、ふざけないでよ。ふざけないで欲しい。アレのどこに憧れる?いつだって嘲笑わらって、一度だって名前を呼ぶ事は無く、与えるものと言えば痛みだけ。無理矢理つがいにさせられたお母さんにさえ暴力を振るって、挙句の果てにはわたしの目の前であの人を犯す始末。……頭がおかしい。そんな環境を考えた事すらないくせに、よくも正論を次々と吐き出せるものだ。


「……きみの決意表明なんて聞いてないんだよ」
「アァ"!?」
「よほど良いご両親と家庭環境に恵まれたんだね、良い事じゃない。今までずっと眩しい世界で生きて来たんでしょ。そうじゃなかったらそんな言葉、出て来ない」

 乾いた笑みを零しながらさつきはぽつり、と言葉を漏らす。それをしっかりと聞き入れてしまった爆豪は目の前の女を睨み付けるも、彼女は緩む口角を隠しもせずに、輪郭を隠す伸びた黒髪を風に靡かせた。――そんなさつきの様子に、爆豪は初めて笑みを零す。愚痴る様に言葉を紡ぐ彼女のそれに、彼はようやくその本性を見た気がした。僅かな愉悦を覚えた彼はもう一度、顔の近くで個性を弾けさせたのである。


「なに急にいじけてやがるてめえ」
「いじっ、……ガキ扱いしないでよクソガキ!」
「アァ"!?いよいよ本性表しやがったなクソアマ!」
「誰がクソアマ!?そもそも最初ッから気に喰わなかったんだよ、その高圧的な態度とか!」

 次第にヒートアップして行く論争に、双方の個性も次第に熱を帯びて行く。それが衝突し合った瞬間、その場で再び爆発が巻き起こったのである。――そんな光景を見つめるばかりであった轟と相澤は呆れた様に眉を顰め、時折溜め息を吐く。……そうだ、そうだった。さつきは一瞬でも理性を手離したら冷静になるのに時間がかかる。俺との言い合いの時もそうだった。でも最後の一本までは切れていないらしく、判断力はいつものさつきのままだった。その証拠に、初めて見る爆豪の個性に無暗に突っ込んだりはしていない。


「…………どうする?これ」
「……なんで俺に聞くんですか。ここの責任者はイレイザーヘッドなのに」
「…いや、どこからどう見ても餓鬼同士の喧嘩だろ」
「……さつきも本気じゃねえし、寧ろ楽しんでるんじゃないですか?」
「ほ、本気じゃないって…!」

 瞳は相手に向けるけれど、決して向き合う事のない轟と相澤はただ、目の前に広がる光景を見つめていた。二人の足が踏み出される事は無く、どうやら手を出す心づもりもないらしい。そんな二人の横から顔を出す緑谷は、焦った様に緑の瞳を大きく見開かせていた。そんな同級生に、轟はふと笑みを見せる。そして「大丈夫だ」と紡いでみせたのだ。同様に、相澤も何時もの仏頂面を隠さない。
 周囲で爆発音が響き、砂埃が舞う。気を抜いたら、一気に攻め立てられる事は明白だった。――ふと、至近距離にて微かに響く吐息の音が耳に届く。それの発生源へ思わず顔を向けると、目の前では爆豪が凶悪にも楽しげな笑みを浮かべ、汗を溜めた右手をこちらへと仕向けていた。その光景を焼き付けた双眸が大きく見開かれたと同時に響く爆破音は、確かにさつきへ傷を負わせようとするものだったのである。


「深海先輩!」
「――避けたな」
「えっ」
「昔から反射神経は特別良いから。――だからそんな顔するなよ、緑谷」
「で、でもかっちゃんは…」
「…………案外、馬が合うと思うんだがな」
「……複雑ですけど、俺もそう思います」

 再び響く爆発に緑谷は心臓が冷える感覚を、身を以て体験した。しかしそんな彼とは対照的に、轟と相澤は酷く冷静に現状を分析している。轟に関してはそれに加え、緑谷を気遣う様な言葉まで口にするのだ。――深海の存在でここまで安定した精神状態になるのか――そう思ったものの、口には出さずにいた相澤はさつきが作ったらしいカットフルーツを一欠片、口にする。そんな教師に同調を示した轟は再び瞳を細めた。


「ッ、――思いッきり暴発させたなあれ!」
「避ける気満々だった奴が何言ってやがる」
「あんなの直撃したら身体たないでしょうが」
「クソプロヒーローのクソ娘でイレイザーヘッドの弟子だろうが!何とかしろや!」
「だァから発言の理不尽さにいい加減気付いてってば!」

 ――一方、砂埃による咳に顔を歪めるさつきは何時もよりも語尾を強めつつ、声を荒げた。それさえも逃がす事は無い爆豪は威嚇する様に個性を見せつけながら、彼女を見下ろしている。しかしそれも束の間、彼女の中で最もトラウマに近い事実を責められても、その当人が気にする様子は全く見受けられない。もはや喧嘩中なのかお互いがお互いに噛み付いているだけなのか、その判別が面倒になる状況に陥って来た。
 捨て台詞にも近いそれを吐き捨てた直後、さつきはその場の空気から武器を生成しては駆け出した。爆豪も、汗を纏わせたい右腕を武器に彼女を迎え撃つつもりらしい。――しかし、さつきは嘲笑わらう。武器が爆豪の肌を抉る直前、彼の反射神経が反応した直後を狙い、その武器を空気へと戻した。そして、目の前の男が困惑を覚えた瞬間を見逃さなかった彼女はその隙を掻い潜り、彼の顎を思い切り蹴り上げたのである。


「ク、――ソがァ!!」

 しかしその衝撃に倒れる事もなく、爆豪は声を荒げ、丸腰に等しい左腕を振り乱した。それはさつきの頬を掠めつつも致命傷にはなり得ない。僅かに瞳を丸くしながら後退した彼女は再び息を整え、もう一度氷のつるぎを手に歩を進めた。もう一方も同様、広がった汗腺から溢れる汗を起爆剤に、それを彼女へと向ける。そんな光景を怖いもの見たさに眺める者はみな、その二つの力が衝突し合うものだと思ったであろう。――しかしその直前、二人の個性は唐突に消え失せたのだ。


「――そろそろ終わりだ、問題児ども」
「なに勝手に手出してやがんだイレイザーヘッド……」
「助けないって言ったくせに…」
「助けてねェだろ、手は出したがな。……つうかお前ら同族か?輩と変わらねェな」

 この状況を体現した名の通り「抹消」を正面から受けたさつきと爆豪は不満気に表情を歪め、恨めしい視線を相澤へと向けた。それらを何時もと何ら変わらぬ様子で横へと流せば、相澤は茶化す様に言葉を紡ぐ。それに対し「ちがう!」と声を張る二人は、やはり似た者同士なのだと悟った。――結果、深海の気持ち悪さも爆豪の苛立ちも同族嫌悪であったらしい。笑えば良いのか叱れば良いのかは分からねェが、深海にとっては良い傾向になるんじゃないかと思った。


「…爆豪。お前も分かったろ、こいつの実力やら性格やらは」
「……別に知りたかなかったけどな」
「なに言ってんだ。お前別に深海の事は嫌いじゃねェだろ」
「?!……? !!?…………な、ッ」
「オラ深海、お前も言う事あるんじゃねェのか」
「なにを、――」

 結果として、二人の衝突を宥める役を買って出た相澤は爆弾発言を残し、視線を反対方向へと移動させた。半ば強制的に抉じ開けんばかりの物言いに、さつきは噛み付きそうになるも一向に逸らされる気配のない視線に観念したのか、僅かに頬を膨らませたのである。――そこまで見届け、相澤は人知れず息を漏らした。痴話喧嘩とやらを相手にするのはどうにも疲れて仕方がない。教え子でなければ「喧嘩両成敗」として気絶させて終わるだろう。しかし、それをしないのはこの二人がどう足掻いてもそれであるからであった。


「……高圧的な態度、とか。汚い言葉遣い、とか。たぶん一生好きにはなれないと思う」
「喧嘩売ってんのかてめえ」
「でも、――トレーニングルームでは、言い過ぎた。と、思う。…………ごめん、なさい」

 よくも知ったような口を利く女がいやがるもんだ、と思った。なにも、――努力も跳ね除けた憧れも嫉妬も何もかも――それら全部を知らねえくせして何をのたまってやがる、とずっと思ってた。それが少し変わったのは体育祭、三年部門の準決。あの女と知らねえ野郎(多分ヒーロー科)との対決だった。あれだけ盛大に俺に喧嘩売りやがったんだ、無様に負けてたら嘲笑わらってやろうと決めた。
 結果として、嘲笑わらえなかった。あの時の激高が、乱れようが、頭から離れなかったからだ。それから、半分野郎の口からよく聞くようになるまでにさほど時間はかからなかったと思う。死ぬほど興味は無かった。――俺の中ではずっと、身のほど知らずの弱ェ女だ。それ以上でもそれ以下でもねえ。だから、急にしおらしくなられても困んだよ。背筋がぞわぞわして気持ち悪ィ。

 だからその顔を止めろっつってんだクソ女!


「…………俺は謝んねえからな」
「…はあ?いつまで意地張るの爆豪くん。今時ツンデレは流行んないよ」
「誰がツンデレだクソババア爆破させっぞ」
「ばっ……誰がババア!?きみと二歳しか変わらないの知ってる!?」
「二歳も差がありゃ充分だ。残念だったな」
「なに笑ってんの?もう一回顎蹴り上げられたいわけ?」

 お互いがお互い、意地の張り合いは続いてしまうらしく歳相応の口論が止まる事は無い。それは爆豪の口から出た「ババア」と言う罵声によって勢いを増し、さつきの表情から歳相応なそれを抜き出して行く。そんな光景を視界に、相澤は呆れた様に溜め息を吐いた。――後ろから深海の口の悪さを言及する、緑谷の声が聞こえる。「人間、ふとした時に癖が出るだろ」と言う、フォローしてるとは言い難い轟の言葉に俺は思わず、もう一度息を漏らした。


「…………なーんか既視感あるよね」
「既視感あるよなァ」
「……え、なに、何でみんな私の事めっちゃ見てるん?」
「お茶子ちゃん、一番分からないのは自分の事って言うわ。気にしなくて良いのよ」
「梅雨ちゃんまで何言うん!?」

 いや、でも、ただ俺の周りがまた喧しくなっただけかもしれない、と相澤は考え直したと言う。




 あの後、B組も加わった訓練は再開され、さつきは宿舎へと戻る事になった。爆豪との戦闘を見て、生徒らに火が付いた事などは露知らず、当の本人は溜まった洗濯物を乾かす為に中庭へと歩を進める。風に靡く衣服は茹だる様な夏の暑さなんて知らん振りで、少しだけ、羨ましく感じた。――今日から生徒らの食事は用意しなくてよいとの事だったが、料理自体は好きだったので陽が暮れ始めてから仕込みを始める事にした。
 昨日のあまりを混ぜ込んだ炊き込みご飯、おこげをたっぷり作りたいので長めに炊く。わかめと卵のスープは水溶き片栗粉を使い、少しだけとろみをつけた。付け合わせには大根の漬け物、甘酢を使って食べやすくしてみたが他の人の好みは知らない。大皿にはポテトサラダ、豚肉とキャベツの味噌炒めを用意した。これだけあれば足りなくなる事は無いだろうと安堵して、さつきは料理を手に、とある場所へと歩を進めたのである。


「――洸汰くん」
「……なんで来たんだよ、さつき」

 恨み節でそう言い放った洸汰の視線は鋭く、しかし、少しだけ寂しそうにも見える。そんな彼の横には同様に寂しげなカレーが置かれており、さつきは彼の表情の理由をこの時悟ったのだ。ふ、と苦笑を浮かべ、タッパーに詰めた本日の夕飯を己と彼の間に置く。まだ少しだけ温もりがあるそれらを横に、彼女は空を仰いだ。――街中では見られないあまりに眩しい星空。それを見て少し、瞳を細める。


「いないな、と思って」
「……なんで分かったの」
「ここしか知らないから、わたし」
「だから、何で…」
「――ここしかないな、って」

 押し付ける様に二度、似た様な言葉を呟くと、洸汰は泣きそうに表情筋を歪めた。――わたしが洸汰くんの事で知ってるのは二つだけ。一つはこの現行社会自体が嫌いなこと。そしてもう一つはここが、一番空が綺麗に見える場所だってこと。寂しいんだろうなって、思う。わたしは寂しいと思う暇さえなく心が壊れてたんだろうけど、洸汰くんはきっと、ご両親が好きで好きで仕方がなかったはずだから。


「…でも、何で」
「なんで、ばっかりだね。洸汰くん」
「な、なんだよ」
「怒ってるわけじゃないよ。好きに聞いて良い」
「……なんで、側にいてくれるの」

 先程と同じ響きで洸汰は問い掛ける。そのひと声に瞳を丸くするけれど、さつきはゆるり、と目元を細めては彼の頭を帽子越しに撫でた。淡く感じるその温もりを甘受しつつも、眉を顰める。その姿はただ、甘えない事に慣れてしまった不器用な少年である。それは少し可愛いものではあるけれども、この現行社会が切り捨てて来たものと同義だ。そして恐らく、彼女にもそれは当てはまるのだろう。


「――わたしにも洸汰くんみたいな時があってね、その時にある人が側にいてくれて、すごく、嬉しかったから」
「…………うれしい」
「うん、うれしい。…わたしじゃ嫌?」
「……いや、じゃない」

 「なら、良かった」と付け足して、さつきはようやっと微笑んだ。歪んだ笑みでも苦笑いでもないそれは少し不格好だった。――すごく、すごく辛かった時、隣にはいつも泣いてる焦凍くんがいた。頼もしさも何もなかった。けれどきっと、わたしはいつも独りであったはずだから、その隣の存在が嬉しくて、幸せで堪らなかった。その気持ちがいつか、洸汰くんにも伝われば良い。そう思いながら、わたしはようやく横に置いていたタッパーを膝の上に置く。けど、まだそれに手はつけずにいた。


「……無理に、変わらなくて良い。しんどいだけだから。変わりたい時に、変わりたいようにすれば良い。見てくれる人はきっといるよ。――今じゃなくても、きっと」
「さつき…」

 わたしにとって、それは今だった。この環境だから。相澤ちゃんが、成田がいるから。もう一度手を伸ばしてくれた焦凍くんがいてくれるから、それを始まりとしてわたしの世界はある。その瞬間が洸汰くんにもきっと、ある。今は分からなくても、きっと。――一度だけその小さな身体を抱き締めて、もう一度笑みを浮かべる。それを区切りだと言いたげに、さつきはようやくタッパーの料理に手を付けたのだ。


「…………ご飯、食べよっか。冷めちゃうね」
「…さつきのそれ、なに」
「ん?わたしが作ったご飯」
「そっちも欲しい。食べたい」
「うん。いっぱい食べよ」

 この世界もまだ美しい。それを信じて、わたしもまだ生きてるよ。――ねえ、お母さん。