010
「最近はラズリルもなんだか不穏な空気だからね、そうした方がいいよ。あんたはこの土地に縛られているわけでもない、自由な子なんだからね……。」
私がラズリルを出ようと思う、と申し出ると、主人と奥さんはそう言って賛同してくれた。
一晩で、少ない荷物をまとめた。財布と、着替えが3枚と、清潔な布を2枚。それから櫛と手鏡。ここへ来てから自分で稼いだお金で買ったものは、これで全部だ。奥さんが皮袋をくれたので、それにすべて収めて、階段を下りた。玄関ホールには主人と奥さんがいた。
「リルちゃん、これ、昨日までのお給料と餞別。」
そう言って奥さんが差し出したものは、お金が入った袋と、日持ちのする焼き菓子だった。
「こんなに……いいんですか?」
「これじゃ足りないくらい、あんたはよく働いてくれたよ。寂しくなるね……。」
「たまには、気が向いたら顔を見せに来てくれよな。」
「はい……。ありがとうございます。」
泣きそうになりながらお辞儀をして、玄関へ向かう。
「お世話になりました。」
空は晴れ渡っていた。
哨戒船に乗せてもらい、ミドルポートへ。夕方まで観光をして、夜の連絡船でオベル王国へ向かった。
そうしてオベル王国に着いたのは、数日の航海の後の、朝だった。
長い船旅の為か体がだるく、私はひとまず宿をとることにした。明日からは仕事を探さなければならない。
宿屋で部屋を取り、少し仮眠をとって、目が覚めると昼下がりだった。おなかがすいたので、町へ出てみることにした。
こんなふうに思いつくままに行動するのは不思議な感じがして、楽しかった。なんとなく目についた屋台で肉まんを買い、近くの花壇のふちに腰かけて食べることにした。
晴れ渡った空と温かい潮風が心地良く、なんだかうきうきしてきた。私はもうすでに、この国が大好きになっていた。
ふと、足元をふんわりした柔らかい何かが撫でた。驚いて下を見ると、私の足に真っ白な子猫が頬を摺り寄せていた。まだヨチヨチ歩きで、しっぽがぴんと立っている。まんまるな目は海のように青く、水をためたようにうるんでいる。
そのミィミィ鳴いている子猫を、私はたまらず抱き上げた。
「おいで。」
子猫はミィ!と鳴いて、私の手のひらにすっぽりと収まった。野良猫にしては毛並みが綺麗だから、誰かが飼っている子かもしれない。
私は肉まんを急いで頬張り、立ち上がった。
街行く人たちに尋ねてみたが、この子猫の飼い主はわからなかった。
宿に連れて帰るわけにもいかず、困っていると、いつのまにか人気のない場所に来た。入り組んだ路地を歩いているうちに迷ってしまったらしい。細い路地を進んでいくと、少し開けた場所が見え、そこへ向かってみた。
そこは路地の突き当りだった。驚いたのは、そこにたくさんの猫と、その真ん中に青年が胡坐をかいて座っていたことだった。青年は私を見上げ、次に私が抱いている子猫を見て、呟いた。
「ブラン……。」
私はすぐにわかった。
「このこ、ブランっていうんですか?よかった、飼い主さんが見つかって……。」
私がブランをそっとおろすと、ブランはよちよちと青年の方に歩いて行った。
「お前が……見つけてくれたのか……。」
青年はブランを抱き上げると、私をまた見上げた。
「……ありがとう。」
私は、いいえ、と首を横に振った。
「ブラン、よかったね。」
身を屈めてブランに話しかけると、ブランはミィミィ鳴きながら、私の方に手をぴんと伸ばしてきた。青年がブランを差し出したので、私はまたブランを抱っこした。
ブランが可愛くて可愛くて、にこにこしながら撫でていると、青年がじっと私を見ていることに気が付いた。
「あ……私、リルといいます。」
「……知らないな。」
「はい、今日この国に来たばかりなんです。」
私がそう答えると、青年は納得したような表情になった。彼は昔からここに住んでいて、ほとんどの人を知っているのかもしれない。
「俺は……トラヴィスだ」
「トラヴィスさん。」
やっぱり、と思った。猫と言えば、彼しかいない。
「よろしくお願いします。」
「……。」
返事はせずとも、少しだけ頷いた彼に、私はまた微笑んだ。