闇に芽吹く花



キナは夢の中で真っ暗な海の底にいた。

それが夢だと思ったのは、確かに夜ベッドで眠りについたことを、はっきりと覚えていたからだ。

それなのに水の冷たさも、自分の吐き出す気泡が唇を撫でていくくすぐったさも、怖いほどはっきりと感じた。

キナは上を向いたまま、下に沈んでいた。天は藍色がまだらにたゆたっていて、青い光がぼうっと差し込んでいる。

キナの頬を何かが撫でた。そう思ったら、目の前にふっと人影が現れた。

白い肌に金糸のような髪をした、サファイアのような瞳を持つ、美しい人魚。

彼女は何かを呟いて、キナを抱きしめた。そしてそのまま、天を覆う淡い光の方へ、勢いよく昇った。



「――――ッ!!げほっ、げほっ!!…はぁっ……はぁ……っ」

突然肺の中にいっぱいの空気を吸い込み、キナはむせかえった。ここが底の深い水の中であること、おそらく自分は溺れていたこと、誰かに助けられたこと。それだけは咄嗟に理解した。
今もしがみついているその恩人は、静かに水の中を滑るように泳ぎ、キナを地面のある場所まで連れて行ってくれた。
キナは何度もせき込みやっと呼吸を整えながら、恩人の力も借りて転がるように地面に上がった。そうしていつまでたっても水から上がろうとしない恩人が気にかかり、ふうふう言いながら振り返った。
そこには、夢で見た通りの美しい少女が、水から顔だけをだし、心配そうにこちらを見ているのだった。

「あ……ありがとう……ございます……」

やっとの思いでそれだけ言うと、キナは力尽きた。それから、何かが頬を撫でたような気がしたが、瞼の重みに耐えかねて、そのまま眠りについた。



次に目が覚めたとき、キナは混乱した。ベッドで眠っていたはずが、一糸まとわぬ丸裸で、全く見覚えのない薄暗い洞窟に横たわっていたからである。辺りを見渡すが、深そうな泉と、地面に転がっている石以外には何もない。岩ばかりに覆われたこの場所で、自分は何をしていたのだろうか。どうしてこんな場所にいるのだろうか。
考えても何もわからぬまま、ただ茫然と水面を見つめた。
その水面が、突然ふわっと揺れて、少女が顔を出した。あの人魚に見間違えた少女だ。ということは、この少女に助けられたのは夢ではなかったという事だろう。
キナは咄嗟に体を隠し、少女の様子を窺った。少女も、キナの様子を窺っているようだった。

「だいじょうぶか?」

先に口を開いたのは少女だった。少女はどこかたどたどしい言葉でキナを気遣った。

「は……はい。あの……助けて……くださったんですよね。ありがとう……ございます。」

キナが答えると、しばし沈黙が流れた。キナは少女に聞きたいことが山ほどあったが、ひとまずこれだけを尋ねた。

「あの……あなたは?」
「リーリン。」

少女は簡潔に答えた。それを聞いてキナは言葉を失った。ぱくぱくと口だけが動く。この子はリーリン。頭ではそう理解しても、混乱するばかりで言葉が追いつかない。
キナはリーリンを知っていた。といっても、本当に存在するなどとはもちろん思いもしていなかった。存在などするはずがなかった。だって彼女は架空の存在なのだから。
けれど、彼女が本当にリーリンなら、自分が今全く身に覚えがないのにこんな場所にいることも理解できる。できるが、にわかには信じられない。
そのとき、ぱしゃっ、と水が跳ねて、リーリンの背中で淡いブルーの尾ひれが水面を叩いた。それを見て、キナの胸の奥からむずむずと燻る言い表せない感情が一気に膨れ上がった。

「うそ……」

こぼれたのはその一言だけだった。

「どこか痛いのか?」

リーリンがそう尋ねて、キナはようやく自分が涙を流していることに気が付いた。キナは涙をぬぐって、かぶりをふった。

「大丈夫です、どこも……痛くないです。」

そう、それは喜びだった。驚きと困惑と歓喜。一気にこみあげてきて何もわからなくなってしまったが、キナは確かに喜びを感じていた。
自分の手を握って、地面を何度も触って、水辺に近づいて、そこに映った自分を見て、これが現実だとようやく納得した。そして、高ぶる感情を飲み込んだ。

「あの……リーリン。」

私が呼びかけると、リーリンは少し身構えながらも、耳を傾けてくれた。

「私はキナ。助けてくれて…本当にありがとう。それで、あの…リーリンが私を見つけたとき、どういう状況だった?」
「わたし、いつもここに遊びに来る。きのう、キナが溺れてた。」
「周りには…他に何もなかった?服とか…」
「ない。なにも。」
「そっか……」

目に見えて沈んだキナの顔色を見て、リーリンは気遣うように近づいた。

「まってろ。」
「え?」

止める間もなく、リーリンは言い残して水の中へもぐって行ってしまった。
しばらくの間なすすべもなく待っていると、やがてリーリンは戻ってきた。そして、水の中から白い塊を出し、びちゃっ、と地面に置いた。

「これは?」

キナがそう尋ねながら広げると、それは白いワンピースドレスだった。全体に細かいレース状の刺繍が施されていて、クラシカルで高級そうなものだ。キナが目を丸くしてリーリンを見ると、リーリンはなんでもないことのように言った。

「海に沈んでる船、たくさんある。拾ったもの、アクセサリーにする。これ、拾ってきた。お前にやる。」
「あ…ありがとう。」

キナはありがたく受け取って、早速乾かすためにワンピースを広げて置いた。洞窟の中は肌寒いし、裸のままではどこへも行けない。
リーリンはまた、まってろ、と言い残して水の中へもぐって行ってしまった。そして戻ってきたときには、真っ赤に熟れた果物を二つ、持って来てくれたのだった。キナはありがたくそれを食した。


洞窟に来て、おそらく3日が経った。服が渇いたので、キナは白いワンピースドレスを着て、まだ洞窟の泉の前にいた。時々リーリンがどこからか果物を取ってきてくれるが、それも十分ではなく、キナは目に見えてやつれていった。もう3日も陽の光を浴びていない。新鮮な空気を吸っていない。ここにあるものは岩と石と水と、食べた果物の皮と種だけ。もともと白かったキナの肌はますます白くなり、顔色もわずかに青ざめていた。
外に出なければ。キナはうつろう頭でぼんやりとそう考えていた。しかし、この泉を離れれば、すぐにこの洞窟に住む魔物の餌食になってしまう事もわかりきっていた。一度はこの洞窟を出ようと薄暗い道を進んでみたが、大きなヤドカリのような、狂暴な生き物に追いかけられて、必死に駆けてやっとの思いでこの泉に逃げ戻ってきたのだった。
武器もなく、空腹と疲労で走るのもやっとの体力で、このくらい道を絶ったひとりで抜けるのは不可能だと、ほとんど絶望して考えた。そして次の瞬間、ふっと体全体が脱力して、意識が遠のき、目の前が暗くなっていった。


静かに水の滑る音がした。リーリンは今日も果物を持って洞窟の泉にやってきた。姉たちは皆、人間は恐ろしいというけれど、キナはどうしても恐ろしいことをするようには見えなかった。そればかりかキナはとても弱弱しく、はかない存在のように思えた。自分が助けたからそう思うだけかもしれない。けれど、放っておくことはできなかった。
洞窟の泉に着くと、リーリンはこっそりと水面に顔を出した。水際に、キナが横たわっているのが見えた。辺りには他に誰もいない。それを確かめると、リーリンはそうっとキナに近づいた。
眠っているのだろうか。リーリンは持って来た果物をキナの隣に置くと、顔を近づけて様子を窺った。黒い柔らかな髪を手で払い、覆われた顔を確かめると、その顔はすっかり青ざめていた。そこでようやく、キナの呼吸が異常なほど長く、か弱いことに気が付いた。

「キナ?」

呼びかけてみても返答はない。リーリンはもう一度しっかりと黒い髪を退かした。キナの顔がはっきりと露わになると、リーリンはその額にある痣に気が付いた。そこに触れると、痣は熱を持っていた。そして次の瞬間、痣はくっきりと浮かび上がり、強い光を放った。キィン…と金を叩くような音が頭の中に響き、リーリンは目がくらんだ。咄嗟に少し離れると、先程キナの隣に置いた果物がふるふると震えはじめた。
それは奇妙な光景だった。果物はとたんに蜜を溢れ出し、赤い皮がみるみるうちに赤茶色く変色し、やがてぱっくりと割れると、そこから若い緑の双葉が顔を出した。気が付くと、そこらじゅうに落ちていた種や雑草も葉を伸ばし、つぼみをつけて、泉の周りはあっという間に緑に覆われた。
リーリンはその美しさに言葉を忘れ、生い茂る草花に囲まれて眠る少女を見つめた。キナはまだ目覚めない。額の光はやがて淡くなり、草花も成長を止めた。
そっとキナに近づくと、その体は驚くほど冷たくなっていた。リーリンは慌てて考え、そして思い出した。この泉には傷を癒す力があることを。
今の状態のキナに効くかどうかはわからないが、試してみる価値はある。リーリンはキナの体を引きずり、水の中に浮かべた。水面に浮かんだキナの白い顔はどこか安らかで、既に息をしていないようにも見えた。けれど確かにまだ心臓は動いていて、それだけがリーリンのわずかな希望をつなぎとめていた。
しかし、キナの体はゆっくりと、しかし確かに沈み始めた。リーリンは悲しげにそれを見つめた。もう自分にできることはない。リーリンは少女の体に優しく抱擁し、その支えている手を離そうとした。

そのとき――誰かの足音がした。リーリンが驚いて振り返ると、それは見たことの無い人間の少年だった。腰には2本の剣を提げている。途端に姉たちの言葉が頭をよぎり、リーリンは泉の中へと姿を消した。

支えをなくして、キナの体はゆっくりと沈み始めた。キナは寒さと脱力感を感じながら、水の中に体をゆだねた。不思議と苦しくはなかった。もう意識は薄れていたし、柔らかな水の流動が心地良くもあった。
しかし誰かが肩を抱いた。リーリンだろうか。そう思ったが、その力強い腕のようなものは、あの華奢なリーリンとはどうしても結びつかなかった。誰だろうか。それともこれは夢なのだろうか。
一度でいいからあの世界に行きたいと願っていた私が、最後に見た夢なのだろうか……。
キナはやがて、意識を手放した。



 



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