花弁舞う泉のほとりで



ラズロは薄暗い湿った洞窟の中を歩いていた。漂着したこの島で、ここは唯一陽の光が届かない、涼しい場所だった。先ほどまで汗ばんでいた体はすっかり冷え、肌寒さすら感じる。
時折魔物は出るが、ラズロにとっては大した障害ではなかった。容易く退治し、時に追い払いながら進んでいくと、ふいに花のような甘い香りが鼻先をくすぐった。
こんな日の光の届かない場所に花など咲くはずもない。しかし進むにつれてその香りは強くなり、だんだんとむせかえるほどの若草のにおいまでもが辺りに漂い始めていた。
ラズロは奇妙さを覚えながら、それでも進んだ。辺りに人気はない。しかし、この奥に何かが待ち受けていることは明らかだった。

その光景は突然目に飛び込んできた。洞窟の奥のほうから、淡い光が漏れていた。出口か?この洞窟は、どこかへ繋がっていたのか――そう考えて、ラズロの歩みは早まった。しかしそこにあったのは出口ではなく行き止まりで、青々と生い茂る草花に囲まれた、透き通る泉だった。泉にはこちらに背を向けた金髪の少女が身を沈めていて、その少女は、白い顔をして目を瞑っている少女を水に浮かべ、その眠っているような顔を覗き込んでいるように見えた。死んでいるのかもしれない。とすれば、彼女はこの少女を、弔っているのかもしれない。
不意にそんな考えがよぎり、ラズロは咄嗟に踵を返そうとした。そのとき、つい小石を踏んでしまい、ジャリッと小さな足音を立ててしまった。金髪の少女が弾かれたように振り返り、宝石のような青い瞳をまるくしてラズロを見つめると、逃げるように水の中に潜ってしまった。引き留めようとしたが、その水面をはじいた青い魚のような尾びれを見つけて、ラズロは息をのんだ。
まさか人魚だったのか?――その存在を目の当たりにして、ラズロは驚くあまり引き留めようとした言葉を飲み込んだ。
そして、彼女が支えていたであろう水に浮かぶ少女は、今沈もうとしていた。その少女も人魚かと思ったが、透明な水の中でたゆたうスカートの裾から、確かに白い2本の細い脚が見えて、ラズロは泉に飛び込んだ。
沈んでいく少女は、死んでいるのか生きているのか、まるで抵抗もなく水に飲みこまれていく。ラズロはその細い肩を抱き、すぐに陸まで引き上げた。少女を仰向けに寝かせると、ぐったりとした少女はむせることも目を開くこともなく、人形のように横たわっていた。
ラズロは自分の呼吸を整えながら、少女の胸元に耳を近づけた。すると、かすかに心音が聞こえるのだった。ラズロはすぐさま少女の顎を少し持ち上げ、少女の胸の中心に自分の手を当て、規則的に圧迫し、小さな唇に自分の唇を合わせ、息を吹き込んだ。騎士見習いの頃、何度も訓練を受けたため、慣れたものだった。ただし実際に行うのはこれが初めてだった。
少女は微動だにせず、体は冷たかった。それでもあきらめず、ラズロは人工呼吸を続けた。そして、何度目になるかわからなくなった頃、また唇を合わせて息を吹き込むと、少女は体をこわばらせて、突然むせ返った。水を吐き、乱れた呼吸を整える少女の背中を撫でながら、ラズロは心から安堵していた。
しかし少女は水を吐きだすと、また力尽きたように地面に横たわり、また目を閉じてしまったのだった。ラズロは少女を抱き上げて、泉に背を向けた。そして、洞窟の出口に向かって歩き出すのだった。



――あたたかい。先ほどまでの水の冷たさを忘れてしまうようなあたたかさ。キナは心地良く目が覚めた。ぼんやりと瞼を開くと、ぼやける視界のなかに、褐色の肌の少女が目を丸くしてこちらを覗き込んでいるのが見えた。
驚いて目を開くと、少女は嬉しそうに頬をほころばせた。

「――あ!目が覚めた?」

起き上がろうとすると、少女はキナの肩を支えて手伝ってくれた。

「大丈夫?食欲はある?」

少女はそう言って、木の実と水を差し出してくれた。キナはお礼を言って、ひとまず水を口に含んだ。

「これも、これも食べていいからね。ちょっとごめん。」

少女は一言断って、キナの額に触れた。

「うーん、ちょっと熱いかな。体調はどう?」
「大丈夫……です。」

キナは少し無理をしてそう言ったが、少女はそれもわかっているようだった。

「…まあ、しばらくは休んでなよ。ここなら魔物も来ないし、あたしたちもいるからさ。」

少女は明るい調子でそう言って、にっこり笑った。キナは少し安堵して、それからふと気が付いた。この少女に見覚えがあったのだ。

「ちょっと待っててね、皆を呼んでくるから。」

少女はそう言い残して、岩場の向こうへ走って行った。それからほどなくして、2人の少年と大きな猫のような者をつれて戻ってきた。そして初めてキナは、自分の置かれている状況に現実味が帯びてきた。

「お待たせ。まずは紹介するね。」

少女はキナの隣に座って、変わらず明るい調子で話し始めた。

「あたしはジュエル。」
「俺はケネスだ。」
「俺は、チープ―!」
「僕は、ラズロ。」

目の前に勢ぞろいした4人を見て、キナは心拍数が上がるのを感じた。彼らは皆、イメージ通りの姿でそこにいた。こんな夢みたいなことが本当にあり得るのだろうか。思わず疑いたくなるが、それでもこの肌をじりじり焼くような暑さと、鼻の奥に届く潮の香りはこわいほどリアルだ。
キナは動揺を押し隠して4人を見つめた。

「私は…キナです。あの、助けていただいて、ありがとうございました。」

深く頭を下げ、また上げると、4人は興味深そうにキナを見つめていた。

「それで、キナはどうしてこの島にいたの?」

ぎくりとした。咄嗟に、正直に話すよりも、それなりに筋の通っている嘘を吐いた方が、余計な疑念を向けられずに済むのではないか、とキナは考えた。

「……じつは、嵐に巻き込まれて、船から落ちてしまったんです。それからのことは、あまり覚えてなくて……」

そう呟いて視線を落とすと、ジュエルが慰めるようにキナの肩に手を置いた。

「それじゃ、あたしたちと同じだね。ねえ、もしよかったら、一緒に協力してこの島を出ない?」
「え?」

キナが目を丸くして他の3人を見ると、3人は納得したように頷いていた。

「そうだな。今は、1人でも多くの人手が欲しい。」
「さんせーーい!」

キナは安堵して、微笑を浮かべた。

「…ありがとうございます。よろしくお願いします。」



夜が更けて、朝になると、キナの熱も少し下がり、食欲も戻り始めていた。それぞれ役割を決めて食糧や材木を集めるという4人に、キナも協力を申し出た。

「まだ休んでていいのに。」

ジュエルが心配そうに言うが、キナはそれは申し訳ないからと断った。

「オレ、食べ物集める係ね。」
「チープ―は、食べ物専門ってとこだな。」
「あたしたちはどうする?」

ジュエルはラズロに尋ねた。やはり、この4人のうちでリーダーは、自然とラズロということになっているのだろうとキナは感じた。

「僕は木の枝を集めるよ。ケネスはロープ、ジュエルはヤシの実を集めてくれ。」
「わかった。」
「はーい。」

了承した2人は、すぐに自分の仕事に取り掛かった。チープ―もすでに、どこかへ食料を探しに行ったらしく、すでに姿はなかった。

「キナは、僕について来て。」

ラズロはそう言ってキナを見つめた。

「はい。」

少し疑問を覚えながらも、キナは頷いた。


2人で木の枝を探して雑木林に踏み入ると、湿った暖かい草のにおいが鼻を突いた。青臭く、少し甘い香りに包まれて、キナは無機質に響く2人分の足音を聞きながら、ラズロの背中を追った。
ラズロは自分の剣で木の枝を折り、足元に積み重ねていった。そして短刀をキナに渡し、採った枝から生える小枝を取り除くように言った。
2人は黙々と作業を進め、枝はあっという間に集まった。そしてそれを抱え、砂浜まで戻ると、岩場に集めた枝を積んで置いた。
ケネスとジュエルとチープ―はまだ戻ってきていない。思いの外早く仕事が終わってしまったので、キナはどうしようかとラズロを見上げた。ラズロは、キナを振り返ると、思い切ったように口を開いた。

「キナ、一緒に来てほしい所がある。」
「え?」

キナが目を丸くすると、ラズロは踵を返してキナを急かした。

「こっち。ついてきて。」

キナは従う他なく、ラズロの後について行った。ラズロの向かった先は洞窟だった。
中は暗く、ひんやりとした空気が満ちている。時折道を塞ぐ大きなヤドカリのような生き物を、ラズロが追い払いながら黙々と進んでいくので、キナも黙って後に続く。
やがて、足元が草に変わった。そこでおかしい、と気付いた。キナの記憶では、この島のこの洞窟に、こんなに植物の生い茂る場所などなかったはずだった。
しかし前を歩くラズロは何も気にしていない様子でずんずん進んでいく。そして2人は泉にたどり着いた。
泉の前には少女がぽつんと立っていた。

リーリン…!

キナは心の中で叫んだ。リーリンは静かにキナとラズロを見ると、足元を指さして口を開いた。

「これ、やる。」

それだけ言って、リーリンは逃げるように泉に飛び込んだ。黙ったまま立ち尽くすキナの傍を離れ、ラズロはリーリンがいた場所まで歩いて行って、地面に落ちている何かを拾い上げた。そしてキナの元に戻ってきて、拾ったものを差し出した。

「水のアミュレットだ。」

それは青い宝石の付いたお守りだった。ラズロはキナの手を取って、アミュレットを握らせた。

「君が持ってて。」
「え……」

キナは目を瞬いてラズロを見上げた。ラズロは深い青の瞳でキナをまっすぐに見下ろしていた。

「今の人魚……キナの知り合い?」

それはどこか確信があるような問いだった。キナはしばらく口をつぐんでいたが、その沈黙はもう答えを言っているようなものだった。

「そうなんだね。」

ラズロが念を押したため、キナは口を開いた。

「溺れていた私を……助けてくれたんです。」

そう答えると、ラズロは黙っていたが、その顔は腑に落ちたような安堵を滲ませていた。

「…実は、僕がキナをここで見つけた時、さっきの人魚が君と一緒にいるのを見たんだ。」
「え……」
「…だから、キナのこと、最初は……人魚だと思った。」
「…え?」

キナはぽかんと口を開けてラズロを見上げ、ラズロはキナを見下ろしていたが、次の瞬間同時に小さく笑った。
2人は泉のほとりに腰かけ、しばし一緒に過ごした。キナはすっかりラズロに気を許していた。

「ラズロたちも、漂流してこの島に来たって言ってたよね。船で、どこへ向かう途中だったの?」

知っていて、わざと尋ねた。ラズロたちとこれからも行動を共にするには、その理由を知っておかなければならなかった。ラズロは少し黙り、それから意を決したように口を開いた。

「……どこでもない。僕たちが乗っていたのは…流刑船だから。」

キナは黙ったままラズロの声を聞いていた。

「驚かないんだね。」
「ううん……」

意外そうでもなく言うラズロに、キナは頭を振った。

「どうして流刑船に……?」

キナが遠慮がちに尋ねると、ラズロは神妙な顔をして答えた。

「僕たちは…ラズリルの海上騎士団の一員だった。…あ、チープ―は違うよ。彼は、島の道具屋で働いていたんだ。」

思わぬ蛇足に、キナは小さく笑った。それから気を取り直して、ラズロは話を続けた。

「ある日…海賊が島に攻めてきた。すごい船団だった…。そして、何とか退けたけど、その日…団長が亡くなったんだ。」
「……。」
「僕は目の前で、団長が亡くなるのを見た。だから…僕は……団長を殺したと疑われた。」
「そんな…」
「それが、流刑船に乗っていた理由。ケネスとジュエルは、何も罪はない。ただ僕の無実を信じて、ついてきてくれたんだ。」
「そう……」
「チープ―は…乗る船を間違えた、らしい。」
「…え?」

2人は顔を見合わせて、また小さな笑みをこぼした。

「でも、それなら、ラズロだって罪はないでしょう」
「…信じるの?」

ラズロが意外そうに言うので、キナは心外だとばかりに目を丸くした。

「どうして?当たり前でしょう、私の2人目の命の恩人なんだから。」

そう胸を張って抗議すると、ラズロは少し微笑んで、前を向いた。

「キナが乗っていた船は、どこへ向かうところだったんだ?」

ラズロのその問いに、キナは俯いた。ここで下手に誤魔化して、話のつじつまを失うよりは、ラズロにだけは正直に話しておこうと考えた。

「あのね…ラズロにだけ、本当のことを話すね。」

キナがそう言うと、ラズロは声もなくキナを見つめた。

「私は…本当は、船になんて乗ってなかった。気が付いたら、この洞窟にいたの。リーリンが…あの、人魚の女の子が言うには、私を見つけたときにはもう、ここで溺れていたんだって。わかるのはそれだけ。私は、自分がどうしてここにいるのか、何もわからないの。」

言い終えてラズロを見ると、言葉を失ったようにキナを見つめていた。それから、ぽつりと言った。

「…じゃあ、どこから来たの?」
「ラズロは、知らないところだと思う。私自身、ここへ来て…おかしなことばかりなの。もともといた場所では、ありえないことばかり。」
「ありえないこと?」

キナは、自分がいた場所では剣を持ち歩いている人間などいないことや、ネコボルトのように言葉を話す人間以外の種族などいないこと、そして騎士団のように剣を扱う団体は存在しないことを話した。

「おかしいことを言ってるって、自分でも思う。でも……ここは私がいた場所とは、別の世界…なんじゃないかって、そうとしか考えられない。」

そう言い切ると、しばらく沈黙が流れた。そして、ラズロは静かに言った。

「信じるよ。」

薄暗い洞窟の中で、その声ははっきりと響いた。

「ありがとう…」

キナは安堵した。ひとりでも、事情を知ってくれている人がいることが、今は心強かった。

「そろそろ、戻ろう。皆ももう、戻ってきてるだろうから。」

ラズロがそう言うので、キナも頷き、2人は洞窟を後にした。



 



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