青い闇の中



ジュエルは木材をロープで結び終え、軋んだ体を伸ばすために立ち上がって大きく伸びをした。そして、砂浜に伸びる影が長くなったことに気付いた。

「ねえ、もう暗くなってきたよー。」

ジュエルが声をかけると、他の4人も空を見上げた。

「そうだな。そろそろ火をおこすか。」

ケネスは独り言のように言いながら岩場の方へ歩いて行った。チープ―もついて行ったのは、おそらく食事の準備を始めるためだろう。
オールを作っていたラズロも作業をやめて一息ついた。その視線の先には、破れた麻袋を縫い合わせるキナの姿がある。

「キナ、行くよー!」
「うん!あともう少しだから、先に行ってて!」

ジュエルは少しつまらなそうに口を尖らせて、岩場の方へ戻っていく。キナは膝の上に広げた麻袋を持ち上げて眺めた。あとひとつ穴を塞げば、もう一度使える。キナは慣れた手つきで、針に糸を通した。裁縫道具があるのは驚いたが、いつ何があっても対応できるよう訓練してきたラズロ達にとって、裁縫道具は言うまでもなく欠かせない道具らしい。だから流刑船に忍び込むことを決めた時、ジュエルは当然のようにそれを持ち込んでいたのだった。
裁縫道具があれば破れた服や道具を修復することはもちろん、大きな傷を負っても応急処置ができるし、糸は釣糸にも使える。その上、全くかさばらない。
彼らはこうした非常事態には常に備えてきただけあって、毎日冷静に必要な仕事をこなす。この島へ来てまだ3日ほどなのに、もうこんなに脱出に向けて準備が進んでいるのも、そのおかげだ。キナは感慨深く、ほとんど修理の終わった小舟を見つめた。
赤く染まり始めた空に、黒々と影を纏って、小舟は佇んでいる。

「おつかれさま。」

ふと隣に誰かが座った気配がして、同時に落ち着いた声がした。その主はラズロだった。キナは麻袋を縫う手を少しだけ休めた。

「ラズロもおつかれさま。あ…もう、私も終わるから。」

先に行ってて、という意味を込めてそう言ったつもりだったが、ラズロは立ち上がらずに海を眺めはじめた。その間に、キナは手早く穴を縫い合わせ、糸を噛み切って仕事を終えた。

「できた!」

最後に広げて点検し、キナは満足そうに頷く。そしてラズロを見ると、まだ立ち上がろうとしないので、キナも裁縫道具を片付けて、海に視線を移した。

「ラズロは、この島を出たら……何がしたい?」

何気ない質問だった。ラズロは意表を突かれたような顔をした。

「そうだな……何がしたいかなんて、考えてなかった。でも、できることをするしかないかな……と、思ってるよ。」
「そっか……そうだよね。」

ラズロは、その無実を晴らそうとついて来てくれた2人を思って、そう言ったのだろう。多分、ラズロひとりきりだったら、自分の無実を証明するために戦おうなどとは思わなかったかもしれない。キナは、ラズロを信じてあの2人がついて来てくれたことに、こっそりと感謝した。

「キナは?この島を出たら何をしたい?」
「私?」

まさか質問を返されるとは思っていなかったキナは考え込んだ。そして俯いたその視線の先に、自分のつま先が映ったのだった。

「そうだなあ……まずは、靴を買いたい!」

そう言って片足を持ち上げて見せると、ラズロは目を丸くした後、笑い出した。

「そうか、そうだね。」

その笑顔につられて、キナも笑みをこぼしたのだった。




その夜、キナは不思議と目が覚めた。周りを見ると、ジュエルとケネスとチープ―は眠っていて、火の番の当番であるはずのラズロの姿がなかった。キナは起き上がって、岩場の影からそっと浜辺の方を覗いてみた。しかし、ラズロの姿はどこにもなかった。そのかわり、砂浜の傍の水面に、ほっそりとした人影を見つけた。

リーリン?

キナは思いついて、そっと岩陰を抜けだした。

柔らかな砂を蹴飛ばして小走りに人影に近づくと、その人物はこちらを振り返った。思った通り、それはリーリンだった。

「キナ。元気になった。」

リーリンは嬉しそうにそう言った。キナは自然と笑顔がこぼれた。

「リーリンのおかげだよ。」

リーリンは海から上がってきて、キナのそばへ歩いてきた。

「あいつらは、仲間か?」

きっとラズロ達のことだろうと思い、キナは頷いた。するとリーリンはどこか安堵したような顔になった。

「それならいい。あの人間は、いい人間だ。」
「うん……。私も、そう思うよ。」

キナの言葉を聞いて、リーリンも頷いた。そして海を振り返って、別れを告げるようにキナを一瞥し、真っ暗な海の中へと消えていった。

リーリンを見送って、キナはまた岩場の方へ踵を返した。3人はよく眠っている。火が弱まっていたので、キナはあたりを見渡した。まだラズロは戻ってきていないようだった。
何かあったのだろうか。キナの胸に一抹の不安が生まれる。浜辺にも、その向こうのヤシの木に囲まれた丘にも、ラズロの姿はない。雑木林の道を見上げ、その前を通り過ぎ、洞窟の前へと戻ってきた。ぽっかりと口を開けた洞窟の入り口に立つと、その中は吸い込まれそうにどこまでも黒い。冷たい空気が時々吐き出されて、キナの無防備な細腕を撫でていった。にわかににじむ不安を丸めて捨てるように、キナは真っ暗な洞窟の中へと足を踏み入れた。

この洞窟には魔物が住んでいる。キナはおそるおそる、暗闇を進んでいった。しかし、岩の影からこちらを覗く赤い眼がいくつも光ったが、そこを動こうとはしなかった。
もうすぐ泉に着く。そう思うと不思議と、そこにラズロがいるような気がした。

暗い闇の中、冷たく硬い土の上を歩き続けた。だんだんと、この闇が果てしなく広く感じた。そのたびにキナは手を伸ばして壁に触れ、自分が狭い洞窟の中にいることを再確認した。
空気も冷たかったが、歩き続けると肌寒さも麻痺し、何も感じなくなった。しかし自分の腕に触れてみると、肌は冷たく固まっているのだった。

生ぬるい嫌な風が顔を撫でていった。
それは突然で、不自然だった。恐ろしいはずなのに、自然とキナの足は早まった。

「――――く―――っ」

キナは立ち止まった。今、耳に届いた音は、まるで誰かが苦しみうめく声のようだった。そう考えた時、キナはまた歩き出した。
ようやく泉が現れた。その前に、黒くうずくまる何かがいた。キナは歩み寄って、その丸まった背中に手を置いた。うずくまっていたラズロがキナを見上げた。その腹に抱えた左手からは、まがまがしい赤い光が放たれていた。

キナはその光に手を伸ばした。途端に、赤く禍々しい光がキナの中へ流れ込むようにして、同時にめまぐるしいほどの悲しみと寂しさが込み上げてきた。それがラズロの左手の紋章からの叫びであり、ラズロを苦しめていたものだとすぐにわかった。
キナの額からは白い光がやさしくあふれていた。光は2人を包み込み、そして、音もなく消えた。

光が消えると、ラズロは体が楽になっていることに気が付いた。キナは頬に涙をひとすじ流して、黙って半分目を伏せていた。何が起こったのかわからなかった。ラズロは時々、左手の紋章の疼きに苦しみ、ひとり耐えていたが、なぜ今キナがここへやってきて、しかも紋章を鎮めることができたのか、おかしなことばかりだった。
キナはキナで、自分が今したことも、なぜできたのかも、わからないのだった。だから2人はお互いに黙ったまま、顔を見合わせるばかりだった。

キナは、ラズロを苦しめていた力の、途方もない寂しさと冷たさに驚いていた。ラズロは、キナの得体の知れないあたたかい力への驚きと、自分の力を鎮めたことによって何も彼女に影響はないのかという心配で、何も言葉にならなかった。

ラズロは自分の左手を持ち上げ、ただの痣のように黙り込んでしまった紋章を見つめた。そして、キナの顔を見上げた。白い柔らかそうな頬にひとすじ光っている涙を見て、ラズロは、思わず手を伸ばし、その涙を親指で拭った。
キナは目を丸くし、恥ずかしそうに身を引いて、ラズロに拭われた頬に手を当てて目を伏せた。その瞬間、ラズロは胸がぎゅっと締め付けられたような甘い苦しさを感じたが、キナに覚られぬように目を逸らして立ち上がった。
キナのことも立たせてやると、ようやくそこが洞窟の奥だと思いだした。

「……ありがとう。」

わけがわからないままだったが、今ラズロに言えるのはその一言だけだった。キナは静かにかぶりを振り、黙り込んでいた。
洞窟を抜け出ると、既に辺りは青暗く霞み、朝が来る気配がしていた。吹く潮風は冷たい生ぬるさで、2人の不安をあおった。しかしキナが前を歩くラズロの、闇に霞む背中を見つめていた時、ラズロが振り返った。そしてその澄み切った青の目を見て、なぜだか安堵できたのだった。



 



ALICE+