闇を払う光
翌日、浜辺で修理が終わった小舟を取り囲んで、皆は笑顔を浮かべていた。
「なんとかなったな。この先、船大工でも食えそうだ。」
ケネスが安堵の混じった声で言い、その傍ら、ラズロとジュエルが荷物や食料を小舟に積み込む。
「皆、ごはんできたよー」
ちょうどよくキナが食事を持って岩場の方からやってきた。大きな葉に、焼き魚と果物が載っている。おなかペコペコー!とジュエルが駆け寄ってきて、続いてケネスやラズロもやってきて、4人は食事を始めた。
「あれ?そういえば、チープーは?」
ジュエルが思い出したように言って辺りを見渡すと、つられて他の3人もきょろきょろと周りを見渡した。
「岩場にはいなかったよ。」
さきほどまで岩場で調理をしていたキナが言う。林の方や洞窟は魔物が出るから、チープー1人で向かうはずはない。4人で顔を見合わせた時、突然、海からざぶんと大きな水音がした。
「ネコが、『ヌシ』に追われてる。ネコじゃ、勝てっこない。きっと、もう、ネコかえってこれないよ。ネコが、『ヌシ』のこども殺そうとしたから、『ヌシ』おこった。『ヌシ』は、すぐあばれる。だいきらい。『ヌシ』上にいる。やっつけてほしい。そうすれば、ネコも、もどってくる。わたしも、きらいなのが、いなくなる。ね?」
矢継ぎ早に言うと、その少女は逃げるように再び海の中へもぐって行った。取り残された4人はぽかんとして立ち尽くした。
「え?ちょっと?『ね?』って、何が何だか……?」
「今のは人魚か……?」
混乱するジュエルとケネスの後ろで、ラズロとキナは顔を見合わせるのだった。
雑木林の坂を4人で駆け上がり、島の一番高い丘へ向かうと、そこは開けた広い場所だった。
「うわあああ〜〜!」
チープ―の悲鳴が聞こえて、ラズロ、ケネス、ジュエルはすぐに柄に手をやり身構える。さすが元騎士、すぐに顔が真剣なものに切り替わり、にわかに緊張感が張りつめる。
「キナは後ろへ!」
「は……はいっ」
ラズロの張りつめた声に驚きながら、キナは後ろに下がった。離れると、ようやく事態が飲みこめた。小さな――と言ってもキナの知っているカニの5倍は大きいが――カニたちに追いかけられ、逃げ惑うチープ―。ついに転んでしまい、蹲って追いつめられる。
早く助けてあげなきゃ――そう思うのに、ラズロたちは身構えたまま動かない。まるで何かを待っているかのようだ。そう気づいた時、キナは丘の中央に盛り上がっている苔色の塊を見つけた。その塊はゆっくりと起き上がり、そして立ち上がった。それは、見上げるほど巨大なカニだった。
ヌシガニの巨大さに驚くと同時に足が竦んだ。現実に目の当たりにすると恐ろしくてたまらない。しかしラズロたちは迷いなく剣を抜き、ヌシガニと対峙するのだった。
しかしいくら斬りつけても、ヌシガニは二つの巨大なはさみの分厚い殻でガードしてしまい、攻撃が全く効かない。
「…こっちの攻撃が効いてない……」
ケネスが剣を振りおろし、舌打ちをした。ちらりとチープ―を見るが、完全にヌシガニに行く手を阻まれてしまい、戦闘を避けてチープ―を助けだすことはできそうにない。ジュエルは悔しそうな顔で剣を下ろしかけた。そのとき、ラズロが皆の前へ進み出たのだった。
そして意を決したように、左手から光を放ち、それを振り上げたのだった。
紋章によって痛手を負ったヌシガニは怒り、防御を捨てて襲いかかってきた。3人はそれを返り討ちにし、ヌシガニは崩れ落ちるようにして倒れ、動かなくなった。
「みんな大丈夫!?」
ヌシガニが倒されて子ガニたちも逃げ出したらしく、解放されたチープ―が駆け寄ってきた。キナも皆の元へ歩み寄る。そして声をかけようとした時、突然糸が切れた人形のように、ラズロが倒れてしまった。
「ラズロ!」
皆で一斉に駆け寄り、倒れたラズロを取り囲む。キナがそばに膝をついて肩に手を置くと、じわりと胸が悲しくなった。それは昨日の夜の、あの洞窟での出来事を想起させた。
「やっぱり、紋章を使ったから……」
ジュエルが不安そうに呟き、キナが彼女を見上げると、気が付いたように言った。
「あ、そっか、キナは初めて見たんだよね。」
そして少し言い辛そうに口元を手で押さえ、目を伏せた。
「その紋章の事だけど……」
そこまで言って、ジュエルは言葉に詰まった。彼女自身、この紋章の事なんてよく知らず、なんて言ったらいいかわからなかったのだろう。
「……大丈夫。なんとなくだけど……わかってるから……。」
キナはそう言って、ラズロの腕をさすった。ラズロは動かない。眠っているようにも、気絶しているようにも見える。
「……とりあえず、下に運ぼう。そっち、持ってくれ。」
「うん。せーの……」
ケネスとジュエルがラズロを運び、浜辺の木陰に寝かせた。チープ―はちゃっかりヌシガニの足を運んできて、調理を始めている。
キナがラズロの傍に腰をおろし、顔を見つめていると、足音が近づいてきた。振り返ると、足音の主はジュエルだった。
「どう?ラズロの様子。」
「うん……まだ起きない。」
暗い声で呟くキナに、ジュエルは心配そうに眉を寄せた。
「まあ……さ。今のうちに、キナもこれ食べて、元気だしなよ。ラズロが起きたら、いよいよ出発だから。」
ジュエルが差し出したのは、先ほどのヌシガニを焼いたものだった。葉に包まれたそれを、キナは少し迷ってから受け取った。
「うん。ありがとう。」
空腹感は全くなく、むしろ食欲がなかった。しかし、何も食べずに彼らについていき、体調でも崩して余計な迷惑をかけるようなことだけはしたくなかった。
ジュエルがまた岩場の方へ戻って行ったのを見て、キナはそっとラズロに視線を戻した。時々眉を寄せ、苦しそうな息を漏らす。その汗ばんだ首筋を、キナは濡らした冷たい布で拭いてやった。すると心なしかラズロの表情が和らいだように見えた。
ラズロは左手を硬く握っていて、それは小刻みに震えるほど力がこもっていた。痛々しくすら思えるほどで、キナは思わずその手に自分の手を優しく重ねた。
どれくらいそうしていただろうか。また足音が近づいてきて、キナは振り返った。どうやら、カニを食べ終えた3人がラズロの様子を見にこちらへきたようだった。キナはそっと自分の手をラズロから離した。しかしその直後、その手を引き留めるように、力強く握られたのだった。
驚いて目を丸くしたのはキナだけではなかった。ジュエルやケネスも、突然縋るようにキナの手を握ったラズロを見て思わず立ち止った。
ラズロは皆に見られながらゆっくりと目を開けた。そして、自分がキナの手を握っていることに気が付いた。あわてて手を離すと、キナの白い小さな手には、うっすらと赤く痕が残ってしまっていた。
「ごめん……」
自分でもどうして手を握っていたのかわけがわからない様子で、ラズロは呟いた。
「ううん」
キナはつとめて落ち着いた微笑で頭を振った。
「……だいじょうぶ?」
チープーが邪気のない声で言うと、ラズロは気を取り直したように立ち上がった。キナも立ち上がり、2人は黙り込み、なんとなく沈黙が降りると、ジュエルが遠慮するような調子でその沈黙を破った。
「あ……じゃあ、あたしたち、あっちで待ってるね。」
そう言ってジュエルは、ケネスとチープーの背中を追いたてるように叩いて離れて行った。少し困ったようにその背中を見つめるキナを、ラズロは静かに見つめた。あの洞窟の時も、そして今も、紋章に苦しんでいる時いつも、ふいにあたたかい気持ちになることがあった。目の前の霧を払われるような、そんな安心感がふいに訪れるのだ。そうして目覚めると必ず、キナがそこにいるのだった。
キナはこの紋章のことを何か知っているのかもしれない。この得体の知れない禍々しい力を――団長を奪ったこの力を、鎮めることができるのかもしれない。
そう考えていた時、キナが振り返って視線がぶつかった。全く曇りのない、綺麗な目をした、可愛い女の子。ただでさえ、綺麗な顔立ちをしているし、群島諸国では珍しい、日焼けのない真っ白な肌をしている。
不思議な子だ。と、ラズロは思った。そして、キナが困ったようにはにかんで、「どうしたの?」と首をかしげたので、ようやく自分がキナを見つめすぎていることに気が付いた。
にわかに顔が熱くなり、ラズロは咄嗟に目を逸らした。その動作がかえって幼い子供のようで、更に恥ずかしくなった。
「あの……そろそろ、行こうか?」
キナは遠慮がちに、小舟の方を指さして言った。
「……待って。」
ラズロは迷った挙句、そのキナを引き留めた。
「この、紋章のことだけど」
そう言って、左手を見せる。キナは読めない表情でそれを見ていた。
「キナ……何か、知ってるんだろ?」
そう言って初めて、キナの顔に困惑が生まれた。何を言うべきか迷うような表情。それは、その問いへの肯定を意味した。
「……知ってるよ。」
まだ迷いの拭いきれない様子で、キナは答えた。ラズロは緊張が滲んだ。自分の抱える大きな謎の核心に迫っているような気がしたからだ。
「じゃあ……やっぱり、知ってて、助けてくれたんだね?」
「助ける……?」
「昨日の夜、洞窟で。それに、今も。この紋章の力を……抑えられるんだろ?」
キナは少し考えるように黙ってから、口を開いた。
「……そうみたい。」
その答えが予想外にも不明確だったため、ラズロは言葉を返せなかった。すると、補足するようにキナが言葉を続けた。
「自分でも、わからないの。これ……」
キナはそう言いながら、自分の前髪を持ち上げて見せた。白い形の良い額に、うっすらと見慣れない模様の痣が浮かび上がっている。
「これのおかげだと思う。でも、これがいつからあるのかも、何なのかも、わからないの。ラズロの紋章のことも、私、何も考えずにしただけで、本当に、全然何もわからないの……」
キナは申し訳なさそうにそう言って、俯いた。自分の無知を恥じ、詫びる思いでいっぱいだった。
「……時々、すごく息苦しくなって……胸が痛くなるんだ。」
自分の心臓の場所に手を当てて、ぽつり、とラズロが話し始めた。
「何もしていなくても、時々。紋章を使った後は、必ずそうなる……。使った後はそれだけじゃなくて、変な……夢、みたいなものを見る。」
紋章を使った後のことは、キナも知っていた。しかし、実際はラズロの苦しみがそれ以上のものだと知って、自分の胸も苦しくなる思いだった。同時に、ラズロ本人の口からこの紋章のことについて話されるのは、不思議な感じがした。自分の知っていたラズロは、無口で、ポーカーフェイスで、いつもどこか悲しげな顔をしていたけど、そこがかえって感情移入を誘い、自分の紋章についての気持ちがそのままラズロの気持ちであると錯覚していた。本当は全く別の人間なのに、ラズロの感情だと思っていたものは、全て根本では、自分の感情だったのだ。それに気づいた時、キナはどうしようもなく恥ずかしくなった。
そんなことは知らず、ラズロは話を続けた。
「でも、キナに出会ってから……キナがいるときはいつも、その苦しさが、急に楽になる。目の前が明るくなったみたいに……夢の中でも、苦しくなくなる。」
ラズロは顔を上げてキナを見つめた。
「だから……ありがとう。」
キナは少しだけ口角を上げて、微笑を作った。
「その……紋章に触れるとね、悲しい気持ちになるの。」
今度はキナが静かに話を始めた。
「一気に、堰を切って流れ込むみたいに……。だから、ラズロはいつも、この苦しみに耐えてるんだって…耐えてきたんだって思ったら……」
そこまで言うと、キナの頬に涙が流れた。その悲しみを思い出し、改めて辛くなってしまったのだった。
ラズロはたまらずキナとの距離を詰め、そして戸惑い躊躇いながら、その頬に触れた。涙は温かく、ラズロの指を濡らした。キナは恥ずかしそうに目を伏せたが、今度は身を引かなかった。その長いまつげが涙にぬれ、つやつやと光っているのを、ラズロは胸に甘い苦しさをおぼえながら見つめた。
「……キナ、君まで苦しくなるなら……もう、こんなことはしないでくれ。」
そしてそう呟いた。キナは頬を触られながら、まだ涙でぬれた目でラズロをまっすぐに見上げた。陽に透けて琥珀色に輝く瞳は、息をのんで見入ってしまうほど綺麗だった。
「だけど……それでラズロが少しでも楽になるなら、したい。」
「……でも……」
「私が、どうしてもしたいの。」
そうきっぱりと言い切られると、ラズロは口を噤んだ。手のひらには、キナの柔らかい、小さな頬がすっぽりと収まっている。それを突然自覚して、気恥ずかしくなって、ゆっくりと手を離した。しかし手の中にはいつまでも、キナの頬の柔らかさが残っているのだった。ラズロはそれを誤魔化すかのように、握り拳を作った。
「……行こうか。」
キナが踵を返しながら言った。そのとき潮風に吹かれた髪を、キナの白い手が咄嗟に抑え、丸い頬と少し赤くなった耳が肩越しに露わになった。ラズロは衝動的にそこに触れたくなったが、それを自覚して驚き、戒めるように拳を握ったまま、キナの後に続いて真っ白な浜辺へと踏み出すのだった。