無力感と焦燥



穏やかな海上に、小舟が滑り出した。
キナは小舟の端に膝をつき、海を覗き込む。水はどこまでも透き通っていて、青く揺らいで見える海底に、鮮やかな赤や黄色の魚たちが躍っているのを見ることができた。

「キナ、落ちちゃうよー。」

荷物の紐を固く縛りなおしながらジュエルが声をかけると、キナは嬉しそうにほころんだ顔で振り返った。

「大丈夫。ねえ、ほら、見て見て。水がすごく透き通ってて、綺麗なの。」
「えー?」

呼ばれるままにジュエルが近づいて行って、キナの隣で同じように海を覗き込む。

「そう?普通じゃない?」
「え?そうかなあ……」

ジュエルの反応が思ったよりも冷めていて、すこし残念そうに眉を下げたキナは、そういえば彼らは自分よりもずっと海を見慣れているんだと思い出した。そして、この世界の海はきっとほとんどが、日本の海よりも綺麗なのだろうと納得した。

「どこか、行くのか?」

ふいに声がして、ケネスとラズロは漕ぐ手を止めた。全員が声の主を探すと、小舟のそばで海から少女が顔を出しているのだった。

「あ、お前はこないだの……」

ケネスが面食らったように目を丸くして言い、はっと思いだした。

「そうか、人魚なんだよな。海にいるのは初めて見たから……。」

当然のように海から人が現れる光景はどうしても不思議な感じがして慣れない。その感覚は、キナにもよくわかった。

「これから人のいる陸地を探すの。ねえねえ、どこか知らない?」

ジュエルが身を乗り出して問うと、リーリンは少し優しげな表情になった。

「お前たち、『ヌシ』やっつけた恩人。人間のいる陸地、おしえる。一番近いのは、ここから南にまっすぐだ。」
「よし、いこう。」

ケネスが安堵したように言った。何も情報のない今は、行くべき方角が定まっただけでも大きな収穫だ。お礼を言うと、リーリンは今度こそにっこり笑った。

「またこい。名前はリーリンだ。お前たちは、いつでも、かんげいだ。」
「うん。無事だったらね!」

ジュエルが冗談のように言って、ケネスが苦笑した。この状況ではいささか過ぎた冗談だったかもしれなかった。しかし今はこの天気のように晴れやかな気分で、そんな冗談を言ってしまう彼女の気持ちもわかる気がした。

「リーリン、ありがとう!」

今生きているのはリーリンのおかげだ。キナは心からそう思って、いっぱいに手を振った。リーリンも海から手を出して、大きく振り返した。

「…なんだか、皆俺の知らないところで人魚と仲良くなってる……。」

ぽつりと、寂しそうにチープーが呟いて、ラズロとケネスは思わず顔を見合わせるのだった。




波は穏やかで風もいい。船は順調に南下していた。

「はい、キナ。」
「ありがとう。」

一行は食事をとることにした。ジュエルが、積んでいた荷物の中から一番日持ちしない果物を取り出し、それぞれに1つずつ配った。当然だが食料は限られているから、慎重に食べなければならない。キナは意を決してひとくち口に含んだ。

「あれ?……」

突然、ジュエルが不思議そうな顔をしてキナをまじまじと見つめた。

「何?」
「いや、なんか……キナ、顔色悪いよ?」

ぎくりとした。本当は、島を出る少し前から、少し頭痛がしていたのだった。それだけならまだいいが、舟を漕ぎだしてしばらくしたら、だんだん頭痛がひどくなって、眩暈までするようになってしまったのだった。
たぶん、不安からストレスがかかって、その影響で体調を崩したのだろうが、ほとほと自分が嫌になった。こんな状況で体調を崩すほど弱く甘い自分が恥ずかしかった。だからキナは誰にも何も言わず、ただ頭痛が治まるのを祈って我慢していたのだった。それなのに頭痛はひどくなるばかりで、ジュエルに指摘されてしまうほど、顔に出てしまったらしい。黙り込んだキナに、ジュエルはたたみかけた。

「やっぱり。体調悪いんでしょ?どこか痛いの?大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと、頭痛がするだけ。よくあることだし……たいしたことないから。」

キナは笑みを作ってそう言ったが、引きつってしまったのが自分でもわかった。その証拠に、ジュエルは納得していない様子で眉を寄せた。

「しばらく休んでろ。俺はまだ漕げるから、代わるよ。」

ケネスがそう言って、キナのそばに置いてあったオールを取り上げた。ついさっきまでケネスが漕いでいて、交代でキナに渡したものだった。

「そんな……私、大丈夫だよ。」
「今は無茶をしない方がいい。命取りになるぞ。」
「でも……皆は戦闘もあるのに、私だけ休むなんて……」
「そんなこと気にしないで、今は休みなよ、キナ。」

ケネスとジュエルが代わる代わるそう言い、キナを説得する。それでもまだ自分を責めるように俯くキナに、ラズロが言った。

「キナ。とにかく今は、皆で無事にどこかへ辿り着かなきゃ。誰も無茶はしてはいけない。2人の言うとおりだよ。」

静かにそう諭されて、キナはようやく、迷いながらも頷いた。

「……わかった。皆……ごめんなさい。」

そしてジュエルに促されるまま、船の中ほどに座り、少し体を休めることにした。




ラズロは舟を漕ぎながら、丸くなったキナの小さな背中を見た。かなり具合が悪そうに見えた。それもそうだろう。慣れない環境で、見知らぬ人ばかりに囲まれ、彼女にとってはつらいことが続いていたはずだ。自分やケネスやジュエルは多少の危険は経験から慣れているし、お互い気の置けない仲間だから、今も平静を保っていられているのだろう。そのどれもがないキナにとって、今の状況はどれほどつらいのだろう。
キナはそのうち、座っているのもつらい様子で、ジュエルに促されて体を横たえた。ここから見ても呼吸が荒いのがわかる。よく見ると、先ほどまで青ざめていた顔が汗ばみ始めている。目を閉じ、口は小さく開いたままで、苦し気な呼吸を漏らしている。ラズロはオールを置き、キナのそばへ近寄った。額に手を当ててみると、ジュエルやケネスも心配そうにその様子を窺った。

「どう?熱、ある?」

ジュエルが漕ぎながらそう聞いた。ラズロは神妙な顔でキナを見つめたままだ。

「……すごく、熱い。ひどい熱だ。」

ジュエルとケネスは言葉を失って顔を見合わせた。チープーも心配そうにキナを見ている。

「キナ。……キナ?」

何度か呼びかけるが、キナは荒い呼吸ばかりを繰り返し、一言も声を漏らさない。まるで何も聞こえていないみたいに苦しみ続けている。

「反応がないのか?まずいな……。」

ケネスが苦い顔をして呟いた。ジュエルは泣き出しそうな顔でラズロとケネスを交互に見た。

「なんで?どうして、急に?なんでよ?」
「……わからん。疲れもあるだろうが……医者に見せないと……」

ケネスの言葉を聞きながら、ラズロは気が遠くなる思いでキナの手を握った。2度も助けてくれたキナ。なんとしても助けてあげたかった。

「!!!ラズロ!!」

突然、ジュエルがオールを放り出して剣を抜いた。つられて剣を抜いて彼女の視線の先を見ると、大きなエイが海から飛び出してきたのだった。ケネスとチープーも武器を構え、キナをかばうように前に出る。

「こんなときに……。」

ケネスが苦々しく呟いた。手ごわそうな魔物だ。戦闘が長引くことと、キナを巻き込むことはどうしても避けたい。
4人は魔物をにらみつけ、我先にと攻撃を仕掛けた。
エイは鋭い尾ひれを船に叩きつけて威嚇している。それは威嚇だけでなく、その傍に置いてあったオールを勢いよく弾き落とした。

「ああっ!オールが!」

チープーが目を真ん丸にして尻尾の毛を逆立たせ、叫んだ。オールは今の自分たちの命綱だ。残る2本は何としても死守しなければならない。
ケネスは素早く紋章を翳し、口早に詠唱すると、雷を振らせた。エイたちは一瞬ひるみ、反動で船上に叩き落された。

「今だ!」

ケネスの合図を聞くが早いかラズロたちが飛び出したのが早いか。3人は見事な連携で剣を振るった。チープーもオールの前に立って、弾き飛ばされないように守っている。
しかしエイたちは体勢を立て直すと、すぐにまた、槍のように鋭く尖った尾ひれを振り回し、ラズロたちを翻弄するのだった。

「こいつら……その辺の海の魔物より、強いよ!」

ジュエルが苦い顔で言う。彼女がこんな弱音を吐くのは珍しいことだった。

「そうだな……埒が明かない。1体ずつ倒そう。」

ケネスのその提案に、全員が暗黙のまま賛成した。一人が斬りかかって気を引き、もう一人がその隙をつき、怯んだところでとどめをさす。そうして瀕死状態になったエイを前に、4人は目の前が開けたような気がした。ようやく勝機が見えたのだ。

「ああっ!キナ!!!」

チープーの突然の叫び声を聞いて、3人は気を取られて振り返った。もう1体のエイが、甲板で横たわるキナに尾ひれを振り上げた瞬間だった。その光景を理解するよりも早く、ラズロが飛び出して行った。直後、キナに覆いかぶさり、鋭い尾ひれで斬りつけられた。たまらず、ジュエルは反射的に悲鳴を上げた。そしてようやく何が起こったのかを冷静に理解した。
ジュエルとケネスはなりふり構わず飛び出して行ったラズロに驚き、沈黙したまま立ち尽くしていた。ラズロも自分の行動に驚きながら、起き上がってキナに怪我がないことを確認すると、心から安堵した。そして素早く剣を拾い上げ、エイを立て続けに斬りつけて威嚇し、キナから引き離した。

「ジュエル、キナを船室へ!」
「えっ…あっ、う、うん!!」

ジュエルは我に返り、ラズロに言われた通り、キナを船室へと運んだ。そこへ追い打ちをかけようとしたエイたちを、1体はラズロが止め、2体目はケネスが止めようとして逃し、チープーが立ちはだかったが、弾き飛ばされてまたオールをへし折られ、海に飲みこまれてしまった。
ショックのあまり悲鳴も出ないチープーの背中をケネスが守り、ラズロとケネスは再びエイを海上までなんとか追いやった。

ジュエルは船室の麻布の上にキナを横たわらせ、その顔を窺って意識がもうろうとしているのを見て、つらそうに目を細めてまた甲板へ駆けあがって行った。甲板の扉がおざなりに閉められ、その硬い音で、キナは薄く目を覚ました。薄暗く湿った船室の中で、キナは一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。まだ頭痛はするし、気分も悪い。胸が苦しく、呼吸が上手にできない。汗でぬれた背中が気持ち悪かったし、全身がだるくて起き上がることも辛かった。
しかし天井から響いてくる物音が、どう聞いてもただ事ではないと感じて、キナは身を起こした。けたたましく響く鈍い音、その度に揺れる船内、時々混じる悲鳴。魔物が襲ってきたのだろうか。だとすれば、自分が行っても足手まといになるだけだ。
キナは船室の扉の前に座り込んだ。
無力な自分が恥ずかしく、申し訳なかった。守ってもらうばかりじゃなくて、自分も皆の為に何かしたい。キナは泣きそうになって、暗闇の中で俯いた。そして、深く息を吐いて目を開けると、目の前がぼんやりと明るいことに気が付いた。周りを見渡しても、ここに明かりになるものはない。それなのに、低い天井も麻布が敷かれた床も、淡く白く照らされている。
おそるおそる自分の額に手を伸ばした。そこはあたたかく、手で覆うと、船室は光が遮られたようにまた闇に覆われた。その光は、自分の額の紋様が放っているものだったのだ。
キナはしばらく立ち尽くして、そして、ゆっくりと船室の扉を開いた。




エイの大きな体が海の中へ落ち、跳ね返った水しぶきを受けて濡れた顔で、ラズロはしばらくぼうっとしていた。それはラズロだけではなく、ジュエルもケネスもチープーも、呆然として甲板に座り込んでいた。
エイたちは撃退した。しかし、オールをすべて失ってしまった。食べ物もあまり残っていない。どこを見渡しても、霧に閉ざされたこの海上に、島影も船影も見当たらない。
ここまでか。その言葉が頭の中をよぎった。そのとき、キィ、と鈍い音がした。誰もが力なく振り返ると、船室の扉がゆっくりと開いたのだった。
そこから白いワンピースの少女がよろけながら出てきたので、4人は立ち上がって少女の元に集まった。

「キナ……大丈夫なの?」

ジュエルが声をかけると、キナは俯いていた顔を上げ、皆の顔を見渡した。その途端、キナの額の紋様が淡く光り、小船ごと皆を包み込んだ。すると船の床板や壁の木材がにわかに苔むし、小さな双葉を芽吹かせた。

「な……なんだ!?」
「見て、傷も治ってる……」

ケネスとジュエルとチープーは互いの腕や足を見せ合い、痕も残さず怪我が治ったことを確かめた。

「それにこの光、すごく気持ちいい……」
「あったかーーい!」

チープーは目を細めて嬉しそうに言い、ジュエルとケネスもその光に身をゆだねた。しかしラズロが突然叫んだ。

「キナ!」

その声で3人も我に返り、倒れていくキナに気が付いた。ラズロが駆け寄ってその体を受け止め、甲板に座らせた。キナの顔は青ざめ、額には汗が浮いている。抱きとめた体は燃えるように熱く、キナはその小さな体を震わせていた。

「……寒い……」

小さな唇の間からそう声が漏れた。するとラズロはすぐに上着を脱ぎ、キナの肩にかけてやり、その上から腕を回して、彼女の肩を抱きしめた。震えが伝わってくる。その弱弱しい腕の中の少女にたまらなく胸を締め付けられ、ラズロは衝動的に、彼女の小さな頭を自分の胸に抱きとめた。するとキナも安堵するように、ラズロの胸元に体を預けた。
そのときラズロは、濃い霧の中に黒い影が近づいてくるのを見つけた。

「……船だ……」

ラズロが呟くと、3人もその影を見上げた。そこには、見たこともない帆を掲げた哨戒船が、ゆっくりと霧の中を縫うように、この小船に向かってきていたのだった。



 



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