辿り着いた王国



キナが目を覚ますと、そこは薄暗い部屋だった。少し揺れを感じるが、ここが船だからなのか、それとも単なる眩暈なのかはわからない。
薄く目を開けてぼうっと天井を見上げていると、扉が開くような音がして、その黒い天井に淡い橙の灯りが細く伸びた。こつ、こつ、と低い音がして、誰かが部屋に入ってきたのだとわかった。

「キナ……」

薄く目を開けている少女に気が付いて、部屋に入ってきたラズロはベッドに近寄った。キナは虚ろな目でラズロを見つめている。

「気分は?」

ラズロは持っていた木のカップをサイドテーブルに置き、キナの顔を覗き込んだ。長いまつげが何度か瞬いて、小さな唇からふうっと微かに息が吐き出された。呼吸は先ほどまでよりも明らかに落ち着いていた。おそらく、この部屋の中を見て、安全な場所に来たんだと安堵できたのだろう。ここはしっかりとした壁や天井もあるし、清潔なベッドもある。キナは白いシーツの上で落ち着いた顔をしていた。

「……大丈夫……」

息を吐き出すような、静かな声だった。それでもラズロは、返事があったことに安堵した。

「……ここは?」
「オベル王国の哨戒船だよ。とりあえずは、助けてくれるらしい。」

キナは何度か瞬きをして、また眠りそうに目を細めたが、ぼんやりと起きているようだった。きっとまだ回復しきっていないのだ。ラズロは持っていた濡れた布でキナの額を拭いてやった。それからこめかみ、頬と、汗で湿った肌を拭いていってやると、キナは気持ちよさそうに目を細めて、顔を右に傾けた。すると、汗ばんだ白い首筋が露わになった。ラズロは頬から顎、そして首筋まで布を伝わせて、キナの汗を拭った。

「…気持ちいい」

キナは少しだけ口角を上げ、呟いた。赤い頬に小さなえくぼができ、その純真無垢な微笑と、汗ばんで柔らかな曲線を描く、真っ白な首筋の色香は、相反しているようで互いを相乗し、ラズロの胸の奥に何とも言えないもやが燻った。
布は首筋を拭い、くっきりとした鎖骨に到達すると、ラズロはためらう手つきでそれを引っ込めた。キナはゆっくりと顔を戻し、さきほどまでよりもさっぱりした顔つきでラズロを見上げた。

「水、貰ってきたんだ。飲める?」

ラズロが木のカップを持ち上げて言うと、キナは小さく頷いて、ゆっくりと身を起こした。ラズロはその背中を支えてやり、ベッドに座ったキナに木のカップを手渡した。キナはカップの淵に小さな口をつけ、少しずつ飲んだ。白い首がごくりと鳴って動いた。ラズロは思わず目を逸らした。

「……ジュエルたちは?」

キナが静かに尋ねると、ラズロは部屋の入口の方を見つめながら答えた。

「皆無事だよ。今は食事をもらってる。」
「食事?……ラズロは?」
「僕はもう食べた。」

そう答えて、少し間をおいて、ラズロは話した。

「キナのおかげだよ。この船、海上で光を見て、近づいてみたら僕たちがいたらしい。キナのその紋章の光だよ。怪我も治してくれたし……」
「……紋章?」

キナは眉を寄せ、曇りのない訝しげな顔でラズロを見上げた。

「……覚えてないの?」

その様子から、ラズロは尋ねた。キナはしばらく、深く考え込むように俯いていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……覚えて……ない」

それからまた辛そうに顔をしかめて肩を竦めた。まだ苦しそうに見えて、ラズロは空になった木のカップを取り上げ、キナの肩を優しく押してベッドに横たわらせた。

「もう少し寝てて。今日中には港に着くみたいだから、着いたら起こすよ。」

キナは黙って従うように横たわったが、まだ不安の残る目でラズロを見ていた。そのためなんとなく立ち去り難く、ラズロはベッドの傍に佇んだ。キナを見ていると思わず手を伸ばして触れてしまいそうになったが、寸でのところで我に返って手を引っ込めた。キナはしばらくして、ゆっくりと手をあげ、ラズロの手に触れた。ラズロは心臓が飛び跳ねんばかりに驚いた。それでもその小さく柔らかい手を握ると、キナは安心したように目を瞑った。




ラズロがジュエルたちのいる船室に戻ってくると、まずジュエルが気が付いて声をかけた。

「あ、キナ、どうだった?」
「ちょっとだけ起きたけど、また眠ったよ。でも、さっきより顔色もよくなってる。」

そう答えると、ジュエルはにんまりと含みのある笑みを浮かべてきたので、ラズロは少し迷惑そうに眉を寄せた。

「……何?」

ジュエルの言いだしそうなことは大体分かったが、深く考えずそう聞くと、ジュエルは待ってましたとばかりに興奮気味に言った。

「だってぇ、ラズロってば、キナの王子様みたいなんだもーん。」

返す言葉が見つからず、ラズロはケネスに視線を移したが、ケネスもジュエルほどではないものの、含みのある笑みをこちらに向けているのだった。ラズロは咄嗟に2人から目を逸らし、やりどころに困った目を、船室の壁にかかっている海図に何気なくむけて眺めた。

「さっきも、なりふり構わずキナのこと庇ったり、ずっと抱きしめてたり……いつの間にそういう仲になってたのー?もう、教えてよ!水臭いなー。命をかけて無罪を信じてついてきた仲間だっていうのにさ!」
「……ジュエルが考えてるようなことは、何もないよ。」

ラズロはそれだけ言って、海図の端の赤茶けた染みを眺めていた。

「えー?そんなことないでしょ。」

ジュエルは楽しげにラズロに駆け寄り、その顔を覗き込んで首をかしげた。

「ね、もうチュウした?」

好奇心に輝く目でされた質問に、ラズロはにわかに顔が赤く染まり、一瞬のうちに、キナと出会った時にやむを得ずした人工呼吸の記憶が脳裏によみがえってきた。唇に柔らかな感触を思い出し、声を震わせるほど心臓が跳ねた。

「…するわけないだろ」

できるだけ平静を装ってそう言いかえすと、ラズロは逃げるように船室を出て行った。その背中をジュエルは楽しげに見送り、ケネスと顔を見合わせて笑うのだった。

「なんか怪しい〜〜!」
「あまりからかってやるなよ。」

「…みんな、何の話してるの?」

その楽しげな2人を見て、チープーは目をまん丸くして首をかしげるのだった。




キナはうとうとして、ふっと眠りに落ち、かと思えばふいに目が覚めて、またうとうとと瞬きを繰り返していた。そして何度目かの目覚めのとき、部屋に明かりがさしこんでいるのを見て、ぼんやりとする目を部屋のドアに向けると、ラズロが入ってきたところだった。

「起きてた?」

ラズロはそう言いながら近寄ってきて、キナが起き上がるのを助けた。

「オベル王国に着いたよ。行こう。立てる?」

キナは少し不安そうに、細い脚を床におろした。足の裏にざらざらとした感触が伝わってくる。そして立ち上がると、目の前がぐらりと回った。
直後に、しっかりと体を抱きとめられた感覚があって、ようやく焦点が合うとラズロの腕に抱きとめられたとわかり、自分はラズロにしがみついてしまっていた。ごめん、と言いながらゆっくりと体を離し、深呼吸して体を落ち着かせた。
ラズロは柔らかな感触に言葉を失っていたが、謝られて我に返ると、自分を叱咤するようにこっそりと拳を握った。

2人が甲板へ行くと、ジュエルとケネス、そしてチープーが待っていた。

「だいじょうぶ?」

チープーが声をかけると、キナは小さく笑みを作って頷く。5人は連れ立って下船し、港へ降り立った。

「こっちよ!」

遠くから声がかかり、声の主を探すと、金髪を高い位置でポニーテールにした利発そうな女性がこちらにむかって手をあげていた。5人が歩いていくと、女性はキナに目をやった。

「キナさん。気が付いたのね。体の方はどう?」
「おかげさまで…もう平気です。あの……」
「ああ、私はフレアよ。」
「オベル王国の王女様にあらせられます。」

フレアの横から、中年の男がそう口を挟んだ。フレアは少し困ったように笑って、キナに気にしないでと言った。

「……彼はデスモンドよ。キナさん、あなたは王宮の医務室に来てもらうわ。船医によると、保護したときはかなり危険な状態だったのよ。医者が良いと言うまで、あなたには休んでいてもらわなくちゃ。」
「え……、ですが……」

キナは不安げにラズロを見上げた。その視線を感じ取って、フレアは安心させるようなあたたかな笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。病人を放っておくわけにはいかないでしょう。それに、ラズロたちにも後で王宮に来てもらうことになってるの。またあとで会えるわよ。」
「さあ、こちらへ。」

元気づけるフレアの隣で、デスモンドはキナを促すように、自分の後ろに控えているオベル兵たちの方へ手を広げた。キナはラズロを見上げ、心細そうに見つめた。

「会いに行くよ、キナ。」
「……待ってるね。」

ラズロがそう頷くと、キナはしぶしぶ納得したように念を押して、ラズロに掴まっていた手を離した。そして、ゆっくりとオベル兵の元へ行くのだった。その背中を見つめていたラズロだったが、ふいに背中に突き刺さる視線を感じて振り向くと、ジュエルとケネスがニヤニヤと笑いながらこちらを見ているのだった。ラズロは気が付かないふりをして知らんぷりし、また前を向いた。

「じゃあ…またあとで。必ず王宮に顔を出してね。きっとよ?『王に呼ばれた』って言えばわかるようにしておくから。」
「では、お待ちしております。」

フレアとデスモンドはそう言い残して階段を上って行った。4人は顔を見合わせ、ようやく一息ついた。

「あ〜、久しぶりの陸地。」
「とりあえず、宿と仕事を探さないとな。」

ジュエルは大きく伸びをして、ケネスの言葉に、「あたし、お風呂に入りたいな〜」と独り言のように返す。

「とりあえず、1週間くらいは宿に泊まれる程度のお金はある。」

ラズロが皆のお金を集めて入れていた財布を開いて言うと、皆の顔にひとまずの安堵が生まれた。

「皆で頑張ればなんとかなるだろう。明日から仕事を探そう。」
「そうだよねー。もう、今日は休みたいよ。」
「さんせーい!」

ジュエルのため息交じりの言葉に、チープーが急に元気を取り戻した声で賛同した。やはり人のいる陸地、それもこんなに栄えている国にたどり着けたことは、皆の強い励みになった。

「でも、やっぱり、心配なのはキナだよね。」
「あとで見舞いにいかないとな。」
「僕が、あとで行ってみるよ。」

ラズロが申し出ると、3人は閉口してラズロを見つめた。怯んだラズロの肩を、ジュエルが豪快に叩いた。

「なーに言ってんの!あたしたちも行くってば!当たり前でしょー!」

あ、そうか、とラズロは呟いて、顔を赤くした。追い打ちをかけるように、ジュエルはまたあの含みのあるニヤニヤ顔になって、ラズロの前で首をかしげた。

「それともなーに、ラズロはひとりで行きたいの?2人っきりで会いたいの?きゃー!」
「違っ…別に、そんなことは……」
「…ジュエル、もうそのくらいにしておけ。」

ケネスがなだめながらも、彼自身ニヤニヤ顔を隠しきれていない。これからは発言に気をつけようとラズロは思った。

「……??皆、どうしたの……??」

ただひとり、チープーはわけがわからない様子で目をまん丸くし、困惑しているのだった。



 



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