011

翌日、すっかり晴れた朝焼けの中を軽く走りながら空き地にやって来た。
水溜まりだらけの空き地で一人ストレッチをしていると、しばらくして、待っていた人物がやって来た。

「おっ。おはよ。」
「…おはようございます。」

玉城は驚いたように目を瞬いて、小さく会釈をした。
その手には小さな段ボール箱を持っている。やっぱり飼うわけにはいかないのか。またここに置きに来るのも、気が重いだろうに。

「先輩。」

玉城はベンチの上に箱を置くと、なぜか笑顔で俺を振り返った。
不意打ちの笑顔に心臓が跳ねて胸の奥が熱くなる。何気に俺に笑顔を向けてくれんの、これが初めてじゃ…。
玉城は俺を手招きして箱を指した。猫を見ろということらしい。

「何?」
「多分、びっくりしますよ。」

玉城は嬉しそうに箱にかぶせていたタオルを捲った。

「……。」

確かに俺は驚いて一瞬声を失った。
あの灰色の毛むくじゃらが、なんと、真っ白でふわふわな綺麗な姿に生まれ変わっていたのだ。

「すげぇ綺麗になったなぁ、一晩で…」
「連れて帰った後お風呂に入れたら、お湯が真っ黒になりました。」

得意げに笑いながら言って、玉城はすやすや眠る子猫を優しい目で見つめた。

「ははは、白かったのかこいつ」

ふふふ、と玉城が笑って頷いてくれるのが嬉しい。いやでもこれは確かに驚いた。

「……。」

しかし玉城はふと笑顔を消して、寂しそうに子猫を見つめた。

「…また夕方来るからね。」

そう言って穏やかに上下する小さな体を指先でそっと撫で、玉城は箱の上にタオルを被せた。

「…失礼します。」

玉城は俺に声をかけ、踵を返した。その時…。

みゃあ、と叫ぶような声がして、玉城は振り返った。

みゃあ、みゃあ、と縋るような叫び声をあげながら、子猫はもぞもぞと段ボールの上のタオルと格闘し、すぐにまだ目の開いていない顔を出した。

「あ…。こら…」

玉城は駆け戻ってきて子猫を箱の中に戻す。しかし子猫は置いて行かれるのが分かっているのか、必死に箱から出ようともがいた。

みゃあ、みゃあ、みゃあ。

必死に鳴きながら、子猫は箱の縁をよじ登り、ぽてりとベンチの上に落ちる。玉城の手を探すようにベンチの端までよたよた歩いて行って、玉城はその体をすくい上げ、箱の中に戻す。その手に子猫は縋りつき、叫びながらすり寄って、そして…

ぱちっ、と両目が開いた。

「……。」

玉城が息を飲んだ。子猫の目は右目が深海のような青色で、左目は鮮やかな琥珀色だった。

「目が…。」

玉城は呟いて、子猫を見つめて、唇を噛んで――ぽろり、と涙をこぼした。

「こいつにとってはもう…玉城が親なんだよ。」

玉城は静かに涙を拭い、俯いた。
とはいっても、どうしたものか…。飼えないのはしょうがないし…。

「おやっ?」

不意にひょうきんな声が響いた。振り向くと、空き地に初老の人が良さそうな男が入ってきていた。この人、どこかで見たような…。

「店長…」

玉城がぽかんと呟いて立ち上がった。店長…ってそうか。このおじさん、玉城のバイト先の店主だ。

「光ちゃん。おはよう…」

店長は不思議そうに玉城と俺を見比べながら歩いて来て、にっこり笑った。

「彼氏かい?」
「違います。」
「……。」

食い気味に否定された…。そうだけどさ。

「あれ、その子猫、もしかして光ちゃんが面倒見てたの?」
「え…?…はい」
「なんだ、よかった。ちょっと前に僕もここで見つけてね、昨日凄い雨だったろう?心配で夜見に来たんだけど、いなくなってたから…。気になって今朝もう一度探しに来たんだ。」
「……。」
「おっ、こりゃすごい。」

店長は歩いてきてはこの中を覗き込み、すっかり綺麗になって目も開いた子猫を見て目を丸くした。

「光ちゃんが飼うことにしたのかい?」
「い、いえ…うちでは飼えないので…」
「そうなの?」

店長はそう呟いて、ちょっと考えて、事情を察したように無言でうなずいた。

「じゃあ僕が連れて帰ってもいいかな?」
「え…?」

玉城の目が明るくなって頬が赤くなった。

「お店の看板猫になってもらおうかな。そうしたら光ちゃんとも会えるし、どうだろう?」
「……。」

玉城は泣き出しそうな顔で店長を見上げた。

「いいんですか…?」
「看板娘に看板猫まで雇ったら贅沢かな?」
「……。」

お茶目に笑う店長に、玉城はこらえきれずはにかんで俺を見た。そんな嬉しそうな顔されたら、こっちまで顔が緩んでしまう。

「…お願いします。」

玉城は微笑んで、箱を持ち上げて店長に差し出した。店長は丁寧な手つきで箱を受け取って、嬉しそうに子猫を見つめた。

「よろしくね。名前考えないとなぁ。」
「そうですね。」
「悩むなぁ〜…。じゃあ、光ちゃん。今日もよろしくね。」
「はい。」

今日もバイトが入ってるのだろう。店長は俺にも会釈をして、一足先に空き地を出て行った。

「よかったじゃん。」

そう声をかけると、玉城は俺を見上げて澄み切った笑顔でほほ笑んで、はいと頷いた。



***



なんだかんだで最近、玉城との距離が急速に縮まっている気がする。
いやー夜寮を抜け出して行ったかいがあった。
家が隣だからって何だ。同じクラスだからって何だ。俺なんてもう運命感じちゃってるもんね。
問題はあの凱聖の男だけど…。

「あ…。」

渡り廊下の向こうから歩いてくる1年女子二人組。そのうちのひとりは…

「玉城ちゃ〜んやっほー」

ひらひら手を振る俺を、隣の倉持はぎょっとして睨んだ。
玉城は俺に気付いてこっちを見て――

「…うわ」

鬱陶しそうに眉を寄せた。え、なんで!?

「うわって何だよ、先輩に向かって〜」
「倉持先輩こんにちは。」
「ヒャハハ。こんちは!」
「玉城ちゃん俺に対してだけ冷たくない!?」
「御幸先輩はふざけるから…」

うざそうに視線を逸らして呟き、玉城は友達の腕を掴んだ。

「司、行こう」
「えー、いいの?」
「いいのいいの」

「えー、玉城ちゃんつれな〜い」

茶化してみたけど、玉城は振り向きもせず友達と歩いて行ってしまった。

「お前…そういうとこだぞ。」
「……。」

倉持の呟きが胸に刺さった。仲良くなれたと思ったのに…つれない態度は相変わらず。

「お前は言動がチャラいんだよ。」
「どこらへんが?」
「まず玉城ちゃんって呼び方がウザい。」
「え〜…?」
「あと顔。」
「…顔はどうしようもないじゃん…」



***



「へぇ!みんな野球部の子なのか!」

カウンターに並んで座る俺、倉持、中田、ゾノを見渡して、店長は目を丸くして笑った。

「どおりでいいガタイしてるねぇ。」
「そっすか?」
「うんうん。鍛えてるのわかるよ。筋肉がある男の子はかっこいいねぇ。ね、光ちゃん?」
「店長…。」

ザッ、と玉城を振り向く俺たち。玉城は苦笑を浮かべて店長を見て、何も答えないままてきぱき手を動かす。
はぐらかす気だな。そうはさせるか。

「え〜玉城ちゃんの好きなタイプってどんななの?」
「ははは。積極的だなぁキミ。」

店長は面白がって手を叩き、倉持達は呆れたように俺を睨んだ。玉城は手元を見つめて仕事をしながら、ふっ、と小さく笑った。何か今バカにされたような…。

「そうですね…寡黙で眼鏡をかけてなくて細身の人かな。」
「…それは俺の正反対って言いたいわけ?」

ブッ…、と隣の倉持が噴出し、中田とゾノも笑いを堪えている。ちくしょー…。

「いやぁでもいいねぇ。僕野球は結構見るのが好きなんだよ。高校野球は詳しくないけど…」
「そうなんすか。よかったら見に来て下さいよ、センバツも始まるし。」
「そうだねぇ、最近青道の子がよく来てくれるし、応援に行きたいなぁ。」
「はっはっは、ぜひぜひ。」
「ちなみに君たちポジションは?」
「俺はキャッチャーっす。で…」

ちらり、と隣の三人を見た。

「お前ら急に静かになったな。」
「別に…いつも通りだろ。」
「全然違います〜。なに?玉城ちゃん意識して寡黙気取ってんの?」
「うるせえな…」

チリンチリン、と鈴が鳴った。

「いらっしゃいませ。」

玉城が顔を上げ、はっと息を飲んで、少し急いでカウンターを出た。振り向いて見ると、店の入り口にはあの男…凱聖の白い詰襟制服の男がいた。玉城は男に近づいて、店内を見渡し、奥の席に案内しようとする。

「光ちゃん、知り合いでしょ?」

カウンターの中から上機嫌な店長が声をかけた。

「一緒にカウンターに座ってもらったらどう?年も近いし、ねぇ?」

俺たちにそう言う店長に、ははは、と曖昧な笑みを返す。年が近くても他校の見知らぬ相手と同席は…普通に気まずいけどな。

「いえ…。…奥でいいよね?」

玉城が男を見上げて尋ねた。

「あぁ。」

短く答えて、結局玉城の案内通り、奥の席に一人で座る男。玉城はカウンターに戻ってきて、ブレンドお願いします、と店長に伝えた。
…寡黙で、眼鏡をかけてなくて、細身。…いやいや、あれは玉城が俺に当てつけるために適当に言っただけだし…。…多分。
店長がコーヒーを淹れて、玉城はそれをトレーに乗せて男の元へ運んだ。つい口を噤んで静まり返る俺たち。ふたりがどんな会話をするのか気になった。

コト、と玉城がコーヒーカップをテーブルに置いた音がした。

「今日は何時まで?」

男が静かに尋ねる。

「…閉店まで。」

玉城が答え、俺はちらりと店のメニュー表を見る。開店時間はAM8時からPM8時まで。あと2時間くらいか。

「わかった。」

男が答えると、玉城は戸惑ったように息を飲んだ。

「遅くなるから…。」

遠慮するように呟く玉城の小さな声を、男の低い声が遮った。

「待つよ。」

その優し気な声のあと、玉城は沈黙した。
玉城がカウンターに戻ってきて、俺が男をちょっと振り向くと、男は文庫本を片手に広げながらコーヒーを飲んでいた。



***



「ありゃマジで彼氏かもなー…」

寮に戻って筋トレをしていると、倉持が放心気味にぼやいた。

「本人から聞くまで信じないんじゃなかったの?」
「聞けるかよ。つーか前は違うって言ってたし…」
「じゃあ違うんじゃね?」
「いやでも…。…ああぁ〜〜〜クソッイライラする」
「落ち着けよ。」

お互いに集中が切れてベンチに座り、ひとまず水分補給。

「…そういや猫どうなったんだろ。」
「もう貰われたよ。」
「え!?誰が!?」
「あの喫茶店のマスターが。」
「…何でお前が知ってんだ…?」

わなわなとペットボトルを握りしめて俺を見る倉持の顔が面白くて、俺はにやりと笑った。

「ナイショ♪」
「テメッ…まさかまた抜け駆けしたな!?」
「いや〜〜それほどでも」
「褒めてねぇ!!!」

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