003
「哲也、お隣の玉城さんって知ってる?」
夕食時、お袋が麦茶をグラスに注ぎながら言った。
「…いや、知らない。」
隣、といえば、もうずっと人が住んでいなかった大きな屋敷で、確か春休み中に父一人娘一人の父子家庭が引っ越してきた、とお袋が言っていた。その時俺は部活でいなかったため、隣人を見たことは今まで一度もない。
「将司は?」
「知らない。」
将司はそう言って飯を口に入れ、黙々と食べ続けた。
「…お隣の子ね、今年高校1年生で、青道に入ったんですって。」
俺たちが知っている・いないに関わらず、話はするらしい。俺はお袋の話を聞きながら麦茶を受け取り、飲んだ。
「でもねぇ…引っ越してきた日にたまたま家の前で会ってあいさつしたけど、ちょっと変わった家なのよね。」
「変わった家?」
「隣の娘さん、すごい別嬪だよなぁ。」
親父がビールを飲みながら呟くと、お袋は大きく頷いた。
「そうなのよ。びっくりするくらい美人な子なのよ。」
「……。」
「……。」
両親がそんなことを言うなんて珍しい。俺も将司もつい黙り込んだ。
「あんな綺麗な一人娘、心配でたまらないと思うんだけどねぇ…」
「……。」
「どうも、ここ最近父親を見てないのよ。それで今朝、娘さんが登校するときに声かけて、ちょっと聞いてみたの。」
思いがけぬ母親の行動力にちょっと驚いて、ちらりと将司と顔を見合わせた。
「そしたら、お父様は仕事であまり帰ってこないんですって言うの。挨拶したときもちょっと冷たい印象だったのよねぇ、あの父親…。」
「……。」
「だからお隣の子、一人でおうちのこともやってるのかしら。時々遅く帰ってくる日もあるし、心配なのよね。」
「ただでさえ綺麗な子だしなぁ」
「そうなの!だから哲也、学校で会ったら気にかけてあげてね。」
「…あぁ」
頷いて返事をしたものの、面識のない後輩の女子生徒を気に掛ける機会などないだろうな、と思った。大体こちらは顔も知らないし、向こうも自分のことは知らないのだ。声を掛ける機会があっても不審がられるだけではないだろうか。
そのとき、キィ、ガシャン、と鉄の門の開閉音が聞こえて、お袋があら、と顔を上げた。
「お隣の子、今帰って来たのかしら。もう8時過ぎよ、外真っ暗なのに…」
女の子一人で危ないわよね、とまた話し始めた母親に頷いて、俺は立ち上がった。
「ごちそうさま。」
すると将司も箸をおき、手を合わせて立ち上がる。
「…ごちそうさま。」
「はーい。お風呂入っちゃいなさいね」
将司と二人、示し合わせたわけでもなく、のそのそと二階へ上がり、隣同士の自室にそれぞれ入った。風呂に入るため着替えを用意して、ふと顔を上げると、窓のカーテンが開きっぱなしだった。そして、そこから見える隣りの屋敷の、2階の部屋の窓に気が付いた。煌々と明かりが点いたその部屋の窓もカーテンが開いていて、落ち着いた白を基調とした、女の子らしい部屋が丸見えだった。そして、その部屋の主であろう少女の姿も…。
たった今部屋に入って来たらしい制服姿の少女の、その美貌にまず目を奪われた。両親が口をそろえて美人だと言っていたっけ、と頭の片隅で思い出す。…たしかに、すごく綺麗な子だ。肌は真っ白で、目はぱっちりとしていて…。
少女はバッグを窓辺の棚のような場所に置くと、いくつかものを取り出して、バッグを下に下ろした。その何気ない一挙手一投足からさえも、俺は目が離せず、じっと魅入った。
すると少女は胸元のリボンタイを解き、踵を返して後ろの棚の上に置いた。そしてこちらに背を向けたまま、またもぞもぞと動き始めた。すぐにそれがブラウスのボタンを外しているんだと気づいた。
…見たらいけない。
そうわかっているのに、俺はそこに根が張ったように動けず、少女がボタンを外し終え、襟元を持って少しずつ華奢な肩が露出するのを見て――
不意に、少女が動きを止めた。
どきりと心臓が跳ね、少女が思い直したようにまたブラウスの襟を戻し、ゆっくりとこちらを振り返り始めて…。
俺は咄嗟にその場にしゃがんだ。
……。
…何をしているんだ、俺は。
急に冷静になって、ゆっくりと立ち上がる。向こうの部屋のカーテンは閉まっていた。カーテンが開いてることを思いだして閉めたのか、見られていることに気付いたのか…。前者だと思っておくことにする。
俺も部屋のカーテンを閉め、息をひとつ長く吐いて、着替えを持って部屋を出た。
「……。」
「……。」
ほとんど同時に隣の部屋を出てきた将司と鉢合わせ、顔を見合わせた。
「…お前も風呂か」
将司の手に着替えが携えられているのを見て呟くと、将司も俺の手元を見て踵を返した。
「いや…兄貴先に入れよ。」
「いいのか?」
「ああ」
部屋に戻る弟を見送り、俺は階段を降りる。
…隣…。
将司の部屋からも、見えるな…。
***
「鍵はいつもの所に戻しておいてね。」
「はい。」
コピー機を使わせてもらうため、高島副部長から準備室の鍵を受け取り、俺は体育準備室へと向かった。資料をコピー機にセットしてスタートボタンを押し、本棚にあった野球情報誌を眺めながらコピーが終わるのを待っていると、突然準備室のドアが開いて女子生徒が駆け込んできて驚いた。
その女子生徒が昨夜見た隣人の玉城であることにまた驚き、何かから逃げてきたような彼女の様子に気が付いた。
玉城はドアの外の様子を窺いながら、ちょっと息を整えるように深呼吸をして、こっちを振り返り――
「…!!」
ようやく俺の存在に気が付いて、びくりと怯えるように驚いた。彼女の様子を見て俺は、小動物のようだな、と思った。
玉城はまた慌ててドアを開けようとしたところで躊躇って、おそらく逃げてきたのであろうドアの外の脅威と、俺の存在とを秤にかけるように沈黙した。するとその時、バタバタと走るいくつかの足音が準備室の前を横切った。
「あれ!?行き止まり!」
「そこじゃね?体育準備室!」
「えぇ?ここいつも鍵かかってんじゃん」
「でも他に入るとこねーだろ、ここしかないって!」
玉城が息を飲んで身を竦めた。…追いかけられたのか?事情は分からないが、怯え切った様子を見るとなんだか気の毒で、俺は玉城の横を通り抜け、ドアを開けた。
「えっ…」
「うわっ…」
今まさに準備室のドアを開けようとしていた男子生徒たちが、ドアをあけ放った俺に驚愕してたたらを踏んだ。
「何か用か?」
「え…いや…」
「だ、大丈夫っす…」
会釈を繰り返し、ひそひそと「アレ3年の野球部の奴だよ」などと言い合いながら、2年の男子生徒たちは逃げていった。
部屋の中を振り返ると、玉城がぽかんと俺を見上げていた。
「3年の結城哲也だ。」
「……え?」
ぱちくり、目を瞬く玉城に微笑む。
「怖くないぞ。」
「……。」
玉城は困惑顔のまま黙り込んだ。なぜだろう。
「なぜ追われていたんだ?」
俺は情報誌を本棚に戻し、印刷が終わったコピー機から資料を取り出しながら尋ねた。
「…さあ…」
玉城はやや投げやりにそう呟いた。
「心当たりはないのか?」
「…ありません」
「そうか…」
不愛想に呟く彼女に、少しでも安心してくれればと思い、微笑みを向ける。
「それは怖かっただろう。」
「……。」
玉城はきょとんと俺を見上げた。
俺はまとめた資料を持って、部屋のドアを開け、廊下の様子を窺う。
「大丈夫だ、誰もいないぞ。」
「……。」
玉城は目を瞬いて、部屋を出ると、俺を振り返って小さく会釈した。
「…ありがとうございました」
そして踵を返したところで、廊下の角から純が現れる。純は俺の元から立ち去り俯き加減で歩いていく玉城を唖然とした顔で見送って、その顔のまま俺を振り向いた。
「哲…お前、今の…!」
「なんだ?」
準備室の鍵を閉めながら尋ね返すと、純は興奮気味に玉城が去った方を何度も振り向きながら言った。
「今の!玉城光じゃねぇか!知り合いか!?」
「純こそ知ってるのか?」
「今めちゃくちゃ噂になってる1年だろうが!!昨日も話したばっかだろ!!」
「そうだったか…何の噂だ?」
「ダァ!!もういい!!」
***
「遠慮しなくていいから!ね?」
部活が終わり、下校して家の前まで来た時、暗い夜道にお袋の声が聞こえた。見ると家の前でエプロン姿のお袋が呼び止めたような様子で、制服姿の玉城を何やら説得していた。
「いえ、本当に…大丈夫ですから」
「でも大変でしょう?本当に遠慮しなくていいのよ、うちはよく食べるのが二人もいるから。」
「いえ…」
歩いていくと、俺の足音に気が付いた様子でお袋と玉城が振り返った。
「あら、哲也おかえりなさい。」
「ただいま。」
玉城は驚いたようにちょっと俺を見て、すぐに視線を逸らした。
「こんばんは。」
そう彼女に声をかけると、逸らされた目がちらりと俺を見上げた。
「…こんばんは」
小さな声で呟いて、玉城は逃げるように踵を返す。
「あの、じゃあ、失礼します。おやすみなさい。」
「え?光ちゃん!」
お袋は呼び止めたが、玉城はうつ向いたまま家の門をくぐって行ってしまった。お袋は頬に手を添えて小さくため息を吐いた。
「今日も一人みたいだっただから、夕ご飯に誘ったんだけど、遠慮されちゃったのよ。」
家の中に入りながらお袋はそう言って、夕食の準備を再開するため台所へ行った。
「お父様に叱られちゃうのでって。でも普通高校生の娘を置いて何日も家を空けるなんて、やっぱり変よねぇ。何してる人なのかしらねぇ…」
台所から聞こえてくるお袋のぼやきに相槌を打ちながら階段を上がると、将司は部屋で筋トレをしていた。軽く視線を交わして、俺も自室に入ると、窓の外にある隣の屋敷の二階の窓が、たったいま明るくなった。玉城が自室に入ってきて、バッグを下ろすのが見えた。
部屋が向かい合っていること、言った方が良かったかもしれない。あっちは女子だし…。今度会ったら言うか。
まさにそう考えていた瞬間、ブレザーを脱いだ玉城の視線がふとこっちを見上げて、目が合った。
「……。」
玉城はスッと視線を逸らし、踵を返して部屋を出て行った。
目が合ってしまった。悪いことをしたな。今度会ったら謝っておこう。
そう考えなおして、俺は部屋のカーテンを閉めた。