009
日曜日の朝。
あくびをしながらカーテンを開け、朝の陽ざしを受けて目を覚ます。玉城の部屋の窓が少し空いていて、レースカーテンだけが揺れていた。ぼんやりと人影が見える。玉城だろう。まだ日も登り切っていないというのに、早起きだな、などと思っていると、揺れたレースカーテンの隙間から華奢な背中が見えた。
一瞬だけの光景。
無防備な肌に、白いキャミソールだけが、細く頼りない紐で肩から下がっていて。
その背中がTシャツに隠れ、襟元から髪を引き出す彼女の影から、俺は何とか目を外した。
見てしまった、という罪悪感と苦い後悔、それから目の奥に焼き付いてしまった、胸の奥をくすぐる光景とににわかに混乱しながら、俺はジャージに着替えた。
朝食前に軽く走ってこよう。
そして頭をすっきりさせるんだ。
そう決意して部屋を出たところで――
「……。」
「……。」
ちょうど同じようにジャージ姿で自室から出てきた将司と鉢合わせた。
***
ジョギングから戻ってきたとき、玉城が紺色のTシャツに藍色のスカート、髪もすっきりと一つにまとめた姿で、トートバッグを持って前方から歩いてきた。
「おはようございます。」
玉城は俺に気が付くと、少し近づいたところで歩みを止め、挨拶した。
「おはよう。猫の朝ごはんか?」
「はい。」
すっかり世話をするのが日課になっている玉城。あの猫も彼女になついているようだし、彼女が飼えるのが一番いいのではと思うが、家の事情もあるのだろう。
「じゃあ、一緒に行く。」
「え、でも…」
「さあ、行こう。」
そう言って彼女の隣に並ぶと、彼女はちょっとはにかんだ。
二人で空き地にやってきて、子猫に餌をやり、それを眺める。
「バイトはいつから始めたんだ?」
たわいなくそう切り出すと、玉城は子猫から顔を上げ、俺を見た。
「まだ…2週間前くらいです。」
「何か訳があるのか?」
「……。」
玉城の目が瞬き、少し下を向いた。
「…この子の…ごはんとか、買わないといけないし…。」
「……。」
「ほんとは病院にも連れて行ってあげたいけど…。」
そういう理由だったのか。そこまで真剣に子猫のことを思っているなら…なぜ、飼いたい、と一言も口にしないのだろう。
「どうしても飼えないのか?」
「え…?」
「こいつ、玉城に一番懐いてると思うがな。」
「……。」
玉城は柔らかく下唇を噛んで、一生懸命離乳食を舐める子猫を見つめた。
「…今は…お世話できたとしても、この先もずっと、となると…」
この先…?彼女は一体、何をそんなに心配しているのだろう。
「…今日もバイトか?」
「はい、夕方まで…。」
「そうか、頑張れよ。」
はい、と頷く玉城の膝に、子猫がよじ登る。
「完食だな。」
「最近食いしん坊で…。まだ欲しがるんです。」
玉城は困ったように、だけど嬉しそうに言いながら、子猫を抱き上げて箱の中に下ろした。
「…帰るか。」
「はい。」
***
「哲、今日この後暇?」
練習試合が終わり、夕食までまだ時間があるこの時間。着替えを終えた亮介が不意にそう尋ねてきた。
「?特に予定はない。」
「じゃあ哲も一緒に行かない?玉城さんのバイト先。」
そう言えば、学校でかなり噂になっていた。学校の近くの喫茶店で玉城がバイトしていること。ちょうど、玉城の様子は気になっていたし…。
「行く。」
頷くと、亮介はちょっと意外そうに眉を上げて笑い、後ろで盛り上がっている純たちを振り返った。
「ねぇ、哲も行くってさ。」
「お!哲ゥ行こうぜ!」
上機嫌な純に肩を組まれ、俺は皆と寮を出た。
噂の喫茶店は、玉城が猫を世話している空き地からそう離れていない場所にある。手ごろな値段の軽食があるから、青道生でも利用している人はいるはずだが…。
「うわ、何これ」
そこそこの広さがある店内の席は、夕方だというのに半分近く埋まっていて、しかもほとんどが青道生だった。日曜日だというのに制服姿の高校生たちを見るのは変な感じだ。
「いらっしゃいませ。」
カウンターから出てきた玉城は、俺を見てちょっと目を瞬いた。しかしすぐに礼儀正しく店内を手で示した。
「お好きな空いているお席へどうぞ。」
まだ2週間だと言っていたが、すっかり馴染んでいる。カウンターに水やおしぼりを取りに行った玉城を横目に、俺たちは窓際のボックス席に座った。
「光ちゃん、知り合い?」
店主らしき初老の男に尋ねられ、玉城は水をグラスに注ぎながら苦笑を浮かべている。
「光ちゃんが来てから青道生のお客さん増えたなぁ。光ちゃんのおかげだね。」
「……。」
ニコニコとからかうように言う店主に曖昧な笑みを返し、玉城は俺たちの席へ来て、水とおしぼりを並べた。
「ご注文が決まりましたらお呼びください。」
そう丁寧にお辞儀をして、カウンターに戻っていく。その背中を、店内の客たちの視線が一斉に追う。
「やべー、ここの客皆あの子目当てなんじゃねーの?」
「そうでしょ、絶対。」
純の言葉に亮介は、フフフ、と楽しげに笑いながらメニューを開いた。
「俺豆乳ラテ。」
「じゃー俺は…。」
メニューを眺めていると、また、店のドアが開いて涼やかな鈴の音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ…」
言いかけた玉城の声が短く途切れる。
「あ!」
「げ…」
振り向くと、店の入り口には、目を丸くした倉持と、苦笑を浮かべた御幸がいた。
「げ、って何?御幸。」
「い…いえいえ」
亮介に凄まれて手をひらひらと振って、御幸は恐縮した。
「…お好きなお席へどうぞ。」
玉城はそう声をかけると、カウンターで水とおしぼりの準備を始める。その隣で店主が、「また知り合いかい?」とからかうようにニコニコして言う。
玉城は御幸と倉持の席へ行って、水とおしぼりを並べながら、俺たちに対するときよりも心なしか愛想のない声で言った。
「…ご注文が決まりましたらお呼びください。」
「おねーさん可愛いね〜。何時に終わるの?」
「……。」
ふざける御幸を睨むように一瞥して、玉城は小声で言った。
「何で来たんですか…」
「いや〜やっぱ一度は見たいなーと思って。玉城ちゃんの店員姿♪似合うね。」
「早く帰ってください。」
「コラコラ…俺は客だぞ〜」
なんだか気の置けない仲の良さを感じさせる二人を、俺たちだけでなく、倉持や他の客も目を丸くして見ていた。少し前は、ぎこちない気まずさを感じる二人だったのに。いつの間にあんなに遠慮なく物を言い合うほど、仲良くなっていたとは…。
「…失礼します」
玉城がカウンターに戻ると、倉持が御幸を睨んだ。
「なにナンパみてーなこと言ってんだテメェは!」
「冗談じゃん。」
「当たり前だバカ!ふざけんじゃねぇぞ」
「いーからさっさと注文決めようぜ。俺ブレンド」
「何がブレンドだよ、カッコつけてんじゃねーぞクソ眼鏡」
「何、もしかして倉持コーヒー飲めないの?プクク…」
「の、飲めるわ!ぶっ殺すぞテメェ」
「あいつらなんで二人で来たんだよ。」
「ホント仲良いよね。」
呆れたように純が言い、亮介が可笑しそうに頷いて、俺と純と見渡す。
「注文決まった?」
「おう。」
「ああ。」
「すいません、お願いします」
純も俺も頷いて、亮介が手をあげて玉城を呼んだ。はい、と玉城は速やかに注文を聞きに来た。
「お決まりですか?」
「うん。俺アイスの豆乳ラテ」
「俺は…クリームソーダ」
「俺はアイスコーヒーを頼む。」
「はい。」
玉城は注文を繰り返し、かしこまりました、とカウンターに戻って行った。
「哲、家隣なんでしょ?」
亮介がちらりと玉城の方を気にして言った。
「ああ。」
「どうなの?実際。」
「何の話だ?」
「そりゃーあんな可愛い子が隣の家って色々とオイシイじゃん。なんか面白いエピソードないの?」
そうだそうだ、と身を乗り出す純。俺の脳裏には今朝の光景が蘇ったが、すぐにかき消した。
「実際会うことはあまりないぞ。」
「なんだ、そうなの?」
「まぁ野球のおかげで普通の高校生とは活動時間がずれてるからなぁ、俺ら…」
まぁそうだね、と亮介は退屈そうに呟いて、おしぼりを弄びながら言った。
「漫画とかでよくあるじゃん。お隣さん同士で、お互いの部屋の窓が向かい合っててさ…」
「そんなの現実にあるわけないだろ〜。」
「わかってるよ。そうだったら面白いなって思っただけ。」
「……。」
窓は…向かい合っているけど。カウンターの中でてきぱきと飲み物を準備している玉城の姿をちらりと見る。すると今朝の罪悪感が少し蘇って、俺は閉口した。
「っていうか、そもそも哲はあの子に気があるの?」
頬杖をついた亮介は俺をじっと見て尋ねた。
「…どうだろうな」
口をついて出たのは曖昧な言葉で、自分でも驚いた。こんなにはっきりしない感情は初めてだった。
カランカラン、と店のドアにつけられた鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ…、」
顔を上げた玉城の表情が固まった。
また青道の誰かが来たのかと思い、振り返る。しかしそこにいたのは、真っ白な詰襟の制服姿の男だった。
「あの制服、凱聖だね。」
亮介が小声で呟いた。
男は涼しげな目元の端正な顔立ちが目立った。
玉城は神妙な顔つきで男に歩み寄って行って、こちらへどうぞ、とわざわざ席に案内した。ふたりは誰もいない喫煙席の端の方まで行って、男はそこの二人掛けの席に座った。
「……。」
店内はにわかに静まり返り、皆奥の席に意識を向けながら顔を見合わせている。
あの男は玉城とどういう関係なのか。
皆口には出さなかったが、皆がその疑問を抱いていることは明確だった。
「確か玉城さんって、凱聖に彼氏がいるって…」
ぽつり、と亮介が呟いた。
「えっ…じゃあアレがその彼氏か!?」
純が振り返って男をじろじろと眺めて、やめなよ、と亮介に嗜められた。
玉城は少し男と話し、踵を返してカウンターに戻ってくる。
「ブレンドお願いします。」
「はいよ。」
店主はコーヒーを淹れる準備を始める。玉城は何事もなかったように、手際よくカップの準備をした。
「……。」
御幸は頬杖をついて、じっと玉城を見つめていたが、不意に手をあげた。
「注文お願いします。」
はっきりと響いたその声に、玉城は目を丸くして顔を上げた。
「…はい。」
速やかに席に歩み寄る玉城。
「お伺い致します。」
「ブレンドひとつと…倉持は?」
「あ、えっと…アイスレモンティー。」
「ホットのブレンドをおひとつと、アイスレモンティーをおひとつでよろしいでしょうか?」
「はい。」
「かしこまりました。」
「彼氏?」
真面目に注文していた御幸が唐突にそう質問して、玉城は虚を突かれたように息を飲んで御幸を見つめた。
横目で男を少し気にして、数秒言葉に詰まって、玉城は――
「…いえ」
掠れた声で小さく呟いた。
そして逃げるようにカウンターに戻ってしまった玉城を、御幸はまだもの言いたげに見つめていた。