バットでも振ろうかと寮を出て、夜空を見上げながら歩いていた。
初夏が近づいているけど、まだ日が落ちると風邪は少し冷たい。何か羽織ってくれば良かったかなと考えて、だけど体を動かせばすぐに温まるだろうと思い直した。
しばらくバットを振っていると、人が通ったような気がして、土手の上のフェンスの方を見上げると、街灯に照らされてこっちを見下ろす女子生徒の姿が見えて――それが玉城さんだとわかった時、同時に目が合った瞬間、俺の心臓は大きく跳ねあがった。
「…あ…。」
口元が変に緩み、バットを降ろして、戸惑ったように踵を返そうとする玉城さんに、思い切って駆け寄った。
「よ、よお…。」
「…こんばんは…。」
フェンス越しに、彼女の俯き気味の顔はさらさら夜風に揺れる髪に隠れてしまいそうで、その向こうに夜の海のような暗い瞳がきらきらと街灯の明かりで輝いていた。
…綺麗だな…。
「帰り…遅いな。部活?」
「あ、いえ…委員会の仕事で…。」
「委員会入ってるんだ?」
「はい…クラス委員…副ですけど…。」
「へぇ…。」
真面目そうな玉城さんにぴったり…。
「…そっか…おつかれさん」
「は…はい…。」
「……。」
「……。」
…送ってくよ…、とかはちょっと、踏み込みすぎだよな…。
「…じゃ…、暗いし、気を付けて。」
「は、はい。失礼します…」
「…またな!」
「はい、また…。」
照れたようにはにかみながら胸元で小さく手を振って、玉城さんは帰って行った。
…俺の事、かっこいいって言ったんだ…よな。もしかして…好きなのかな…俺の事…。いやそれは浮かれすぎか!?
…いやでも…。御幸よりは、可能性あるよな…。
…や、やっぱ今からでも追いかけて…。
俺は部屋に駆け戻り、バットを置いて財布を引っ掴んだ。
「倉持先輩どこ行くんすか?」
「…コンビニ!」
「えっ!?先輩自ら!?」
いつもは沢村をパシりにしているからだろう。目を丸くして驚く沢村に、うるせえ、とだけ返して、俺は寮を飛び出した。
フェンスの向こう側に出て、玉城さんが去って行った方に駆け出す。こっち方面ってことは…駅には行ってないはず…。この先は住宅街で、そこまではほとんど一本道だ。だけど玉城さんの姿はもう見えなくなっていて、真っ暗な長い夜道の先を見てちょっと途方に暮れそうになった。玉城さん、足早いな…走って帰ったのかな。
進むうちに街灯は少なくなっていき、いよいよコンビニの前に着いてしまった。一縷の望みをかけてコンビニの中を窺ってみたけど、玉城さんの姿はない。買い食いとかしそうにねーもんなー…。…って、俺、なんかストーカーみたいじゃね?ヤベェ…。
「………。」
頭を掻いて、ため息を吐いて、踵を返した。やっぱ、これ以上はやめとくか…。ポテチでも買って帰ろ。
そう考えてコンビニの入り口に向かい始めた時、ふと、慌ただしい足音がどんどん近づいてくるのを感じた。必死の息継ぎも混じったそれは、まるで、何かから必死に逃げてくるみたいで…。
振り返って暗い夜道の向こうを見つめていると、やがて、走ってくるひとりの少女の姿が見えた。…玉城さんだ!
「はっ…はぁっ…」
息も絶え絶えに走ってきた玉城さんが、俺を見つけると明らかに息をのんで泣きそうな顔をして、俺は彼女に駆け寄った。俺の前まで辿り着くと、玉城さんはそのまま力尽きたように膝から倒れ込んでしまい、俺は咄嗟に腕を掴んで支えた。玉城さんの手が俺にしがみついてきて…、や、やばい、それどころじゃねーだろ、落ち着け俺!
「ど…どうしたんだよ!?」
「い、いま…。いま…、」
震える声で、目に涙を浮かべながらしきりに背後を振り返り、玉城さんは言った。
「へ 変な人が…。」
「変な人?」
「…最近…時々、待ち伏せされてて…」
「…え!?ストーカー!?」
「……。」
玉城さんは目尻の涙を拭って鼻を啜った。余程怖い思いをしたらしい。まだ俺の腕に掴まってる…。
「追いかけられたのか?」
「…こ…声、かけられて」
「声?なんて?」
「……。」
「…何?」
なぜか言い辛そうに唇を結んだり開いたりして言い淀む玉城さん。
「なんて言われた?」
「………。……おち、…」
「え?」
「…い、言えない」
「何でだよ?大丈夫だから、言えって」
「……う…、…あの…。」
「玉城さん?」
「…いや、だめ、言えない…」
顔を真っ赤にして涙目で顔を振る玉城さん…な、何言われたんだ…!?
「…じゃあ…警察、とか…」
…呼んだ方が良いよな?交番は駅まで行かないとないし…
「話せる?」
自分が付き添った方が良いのか、先生を呼びに行った方が良いのか、いや親を呼ぶのかこういう時は…?
やべえどうしたらいいかわからねーよ!
「……。…警察には相談してるんです、前から」
すみません、と俺の腕から手を離し、立ち上がって、玉城さんはまた涙を拭った。
「前って…ストーカーはいつから?」
「…入学式の日に…朝、追いかけられたのが最初で…」
「…え!?」
「それから…待ち伏せされたり…後を着いてきたり…。声をかけられたのは、今日初めてで…」
「……。」
「腕…掴まれそうになって…。…それで、逃げてきて…」
「……。」
「…でも…実際に、犯罪…ではないから、何もできないって警察には言われちゃって…」
「…ハァ!?」
「ぱ、パトロールは、してくれてるんですけど…」
でも実際、今日も待ち伏せされて声をかけられたわけだし…それに腕を掴まれそうになったって。掴まれてたらどうなってたか…一瞬考えてぞっとして、俺は想像を振り払った。
そしてふと思い出した。御幸が言ってた、「入学式の日に泣いてた」って…もしかしてストーカーが原因?
「…じゃあ…一人で帰るなよ、こんな暗いし…、言ってくれたら、俺、全然、送るし…」
「え…、でも…」
「…つーか…ダメだろ、こんな遅くに一人で…、……女の子、なんだから」
「……。」
玉城さんが俯いて口を噤んで、俺は急に恥ずかしくなった。…なんか変な雰囲気に…。
「…送るよ。」
「で、でも…先輩、寮…」
「いいから。ひとりで帰せるかよ、そんな目に遭ってんのに」
「……。…すみません…」
しゅんとして、隣をとぼとぼと歩きはじめる玉城さん…ああぁ違うのに!なんか説教臭くなっちまった…!…内心、ラッキーとか思ってるくせに…俺。
「……。」
「……。」
気まずい空気をなんとかしたくて、住宅街に入ってしばらくすると、俺は沈黙を破った。
「……ほんとは、」
「え?」
「…追いかけてきた、…心配で」
「……。」
玉城さんが息をのんで、また沈黙が始まった。
「…あ、いや…やっぱちょっと違う」
「…?」
「心配、もあったけど、半分……、…もっと話したくて」
「……。」
「…だから、ラッキー…とか思ってる、ちょっと」
「……。」
「って、不謹慎だなそれは、ごめん」
「……。」
玉城さんは黙ったまま…。…な、なぜ!?なぜ何も言わない…!?
ちょっと脈ありか…何て期待してたけど…ち、違ったかな…。うわ―俺、めちゃくちゃはずいこと言った…!!
「……あ…。」
玉城さんが不意に呟いて、電柱の影をおびえた目で見つめた。…もしかして。
「…ここ?変質者…」
「……。」
…こくん、と頷いて、物陰を避けるように身をすくめて歩き出す玉城さん。……。…どさくさ…かもしれないけど、手とか、繋いでも……。
「光?」
急に背後から呼ばれて、驚いて振り返る玉城さんと俺。そこに立っていたのは、都内の進学校…私立白栄男子高等学校の制服を着た男だった。洋風の燕尾服に似た白い詰襟制服は有名だ。…超お坊ちゃま学校としても知られている。
「光臣…」
みつおみ。玉城さんはそう男を呼んで、戸惑ったように俺を見た。光臣と呼ばれた男も、まるで敵を見るように俺を睨んできた。
「が、学校の先輩。遅いから送ってくれたの…。」
玉城さんは俺を庇うようにそう言ったけど、男はふうん、と相槌を打って、俺への敵意を消すことはなかった。
「…従弟です。」
続いて玉城さんは俺に男をそう紹介した。従兄…。確かにちょっと似てるかもしれない。男はムカつくほど端正な顔立ちで、だけど玉城さんと違って目つきが悪い。
「じゃあもういいよな。」
男はそう言って、俺と玉城さんの間に割り込むと、俺を睨んできた。…俺よりタッパあるのが腹立つ。
「光は俺と帰るから。もうここまででいいよ。」
「は?なんだそれ…」
「ちょ、ちょっと…光臣…」
やめてよ、となだめる玉城さんの腕を掴み、男は歩き出す。
「ご、ごめんなさい、倉持先輩…」
申し訳なさそうに俺に謝って、玉城さんはそのまま従弟に連れられて行ってしまった。…え?なんだこれ。あの従弟…俺に敵意剥き出しだったよな。玉城さんに手を出すなってことかよ?…なんか腹立って来た。