019


夏休みが開け――3年は受験勉強に向けて動き始める。
まだ残暑の残る夕方。リハビリに行く前に少し勉強をしようと図書室に寄った。そしてそのまま、没頭してしまった。

「…あの」

静寂な中に響いても耳障りではない、透き通るような声がした。
顔を上げると……映画に出てくる妖精のような青い瞳の女の子が、俺を見ていた。

「下校時間を過ぎたので…」

彼女がそう言いかけたところで、その白魚のような手に鍵を持っているのが見えて、俺は急いで参考書を閉じた。

「あぁ…すまない、すぐ帰る。」
「すみません。」

彼女が見守る中、参考書やノートを鞄に仕舞い、席を立った。

「…自習室なら、もう少し長く使えますよ。」
「え?」
「受験勉強…ですよね」

彼女の目は、受験対策の参考書を仕舞った俺の鞄をちらりと見た。

「あぁ…。いや、いいんだ。普段は寮で…やってるから」
「そうなんですか。」

上靴の色は1年…だけど、随分しっかりしている子だ。
彼女は図書室の電気と空調を消し、ドアを閉めて鍵を差し込んだ。

「図書委員か?」

そう尋ねると、彼女は肩口に少し振り向いて、微笑んだ。

「いえ…生徒会です。」



***




『生徒会より、お知らせです。』

全校集会であの子が登壇して、驚いた。…いや、思い出した。そういえば…随分噂になってたな。生徒会の1年…花城光って子がすごく可愛いって…。春ごろまで俺は、自分のことで頭がいっぱいで、周りのことが目に入っていなかったから…。

『昨学期は、目安箱へのご協力ありがとうございました。皆さんのご協力により、3つの要望が議決し、今学期から順次適用されます。詳しい内容は、今月の生徒会通信でご確認ください。そして今学期から、目安箱に投書されたご要望は、全て生徒会室前に回答と一緒に掲示することになりました。些細なことでもお気軽にご意見をお聞かせください。生徒会からは以上です。』

花城はお辞儀をしてステージから降りた。美人で、生徒会役員もこなす優等生…か。非の打ちどころがないんだな…。



***



なんとかして知り合いに…と、悩んでしまって眠れない夜を迎えたなんて、誰にも言えない。
そして思いついた作戦が、これとは。

下校時刻が過ぎようとしている。図書室には俺以外、誰もいない。
ドアが開く音がして、俺はうつ向いて参考書に没頭するふりをした。足音が背中を回る。窓の施錠を確かめ、カーテンを止めていく。昨日もこの作業をしていたのか…全然気づかなかった。

コツ…、と足音が止まる。横目で見ると、花城は窓の傍の席に座り、時計を見上げていた。
俺に声を掛ける前に、下校時刻が過ぎるのを待っている。…俺の様子を窺っている。花城が。…なんだか、背中がむずむずする。
だけど声を掛けられる前に、俺は立ち上がった。教科書や参考書を仕舞い、鞄を締めて…一冊の小さな手帳をその場に残して。
気付かれる前に、気付いていないふりをして、足早に図書室を出た。わざとだと気づかれたら、こんなに恥ずかしいことはない。だけど…これできっかけを得られると思ったら、胸の奥がうずうずした。



***



「失礼します…クリス先輩!」

夜、珍しく金丸が俺の部屋を訪ねてきた。夏大が終わってから、3年は空き部屋に移ったから、金丸とちゃんと顔を合わせるのは久しぶりな気がする。金丸は自主練でもしていたのか汗ばんだTシャツ姿で、隣には東条もいた。

「これ、クリス先輩のッスよね?」
「ん…?」

そう言って金丸が差し出した物に驚き、息が止まった。俺の生徒手帳。つい数時間前、わざと図書室に置いてきた…。な…なぜ金丸が?

「これをどこで…」
「あぁ…東条と同じクラスの女子が拾ったらしくて、預かったんすよ!さっき偶然コンビニで会って。」
「……。」
「図書室の机にあったらしいです。」
「……。」

金丸の言葉に東条が補足し、邪気のない笑顔で俺を見る二人…。

「…そうか。ありがとう」
「いえ!じゃ、勉強頑張ってください!」
「お疲れさまです!」

まさかこんな形で戻って来るとは…。知り合う機会が水の泡だ。
いや…、でも…やり方が卑怯だったか…。もっとこう、堂々と…。

…いや、何を考えてるんだ俺は。今は勉強が先だ…。



***



「あ。」

廊下ですれ違いざま、妖精が俺に微笑みかけた。

「こんにちは。」
「…こんにちは。」

まさか声を掛けられるとは思わず、俺は挙動不審に答えた。

「あの…生徒手帳、受け取りましたか?」
「え?あ…、あぁ。金丸達から…」
「そうですか、よかった。」

にっこりと、天使の微笑み。…そういえば彼女はなぜ、俺と金丸達が知り合いだとわかったんだろう。

「この間、寮で…って話してたから、野球部の人かもと思って。」
「…あぁ。そうなのか」

…なるほど。そういえば、そんなこと言ったか。覚えててくれたのか…あんな些細な会話を。

「お返しできてよかったです。それじゃ…失礼します。」
「…あぁ、ありがとう。」

微笑んで立ち去っていく彼女の背中を見送って、まぁいいか、と俺は頬が緩むのを感じた。

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