004


休日朝のランニング。まだ薄暗い道を、自分の息遣いと足音にだけ集中し、ひたすら走る。
ペースを崩さぬように。リズムを刻むように。

町内を回って家に戻る途中、煉瓦造りの高い塀の横を通る。バラや蔦が這うそのお城のような塀には、黒い鉄格子の門があって、その向こうには…。

……今日は誰もいない。

俺はペースを落とさず走り続け、家まで戻ってきた。台所には朝食の準備をしているお袋がいて、居間には弟の将司と親父がすでに揃っていた。

「そういえば哲也、花城さんちの娘さんにはもう会った?」
「え?」

少し動揺した。ランニングの途中であの子の姿を見ることがあるのを、なぜお袋が知っているのかと…。

「あの子今年青道に入ったんだって。」
「……。」
「知らなかったの?」

…知らなかった。
あそこの家は近所では有名だ。お城のような屋敷に住む美人一家で、まるで映画に出てくる華やかな王様やお姫様のようだと。だからよく噂の種になる。

「大学まで白栄に行くんだと思ってたけどねぇ。」
「息子はどうしてるんだ?」
「さあ、白栄にそのまま進学したんじゃない?」

両親たちの会話を聞きながら、あの子が青道の制服を着ているのをこっそりと想像した。
…想像がつかない…。
最後に見たあの子は、白栄の白いワンピース型の制服姿で、それがとても似合っていたから。

「あの子美人だもの、学校で噂になってたりしない?」
「さあ…」
「哲也、チャンスだぞ。あのうちの子をつかまえたらものすごい逆玉の輿だぞ。」
「もうお父さんってば…」

あんなキレイな子モテモテに決まってるでしょ、とお袋は呆れたように言った。



***



「…それでよぉ、ガチで可愛いんだってよ!」
「ふむ…」
「…コラ哲聞いてんのか!?」

ドスン、と純にわき腹をどつかれた。

「なんだ?」
「聞いてんのかって聞いてんだよ!聞いてねーみてぇだな!!」
「今日100回は聞いた話だから聞かなくていいよ、哲」
「コラァ亮介!!何か言ったか!?」
「フフ…」

練習後のこの時間は楽しくてつい長居してしまうけど、家ではお袋が夕食を用意して待っている。

「哲帰るの?」
「ああ。また明日」
「気を付けて帰れよ!」
「純優しいね」


トレーニングを兼ねて軽い駆け足で岐路に着く。日がのびてきたとはいえ、この時間になるともうかなり暗い。夕焼けの紫色の空を見上げながら走って、商店街の傍まで来た。帰宅途中の人や飲み屋を探すサラリーマンなどで賑やかな商店街。俺はいったん走るのをやめ、人混みの中を歩き始めた。

「ねぇちょっと待ってよ!」

ふと、男に声を掛けられている少女に気が付いた。青道の制服…それにあの後ろ姿は…。

「待って待って。怪しいもんじゃないって、マジで!」
「…やめてください。」
「キミ青道でしょ?俺も青道出身なんだよね。」
「……。」
「可愛いねー。1年生?1人?もう暗いから危ないよ。」
「…どいて…ください」
「だから送ってあげるって!ちょっとお話ししようよ?」
「……。」
「だから逃げるなって!ちょっと待って。俺話してるだけじゃん!なんで逃げんの?」
「やだ…やめて…」
「何もしないって!話だけ!ほら!」
「……!」

腕を掴まれ、泣きそうな顔の…花城光。あのお城に住むお姫様。

「花城。」

近づいていくと、男も花城も驚いた顔で俺を見上げた。

「え…、」

男は青ざめ、花城から手を離し、ヘラヘラ笑いながら退く。

「あ〜…どうも…スイマセン…」

じゃ…、と俺から逃げるように目を逸らし、男は不服そうに去って行った。

「大丈夫か?」
「…は、はい…」

花城はまだ怯えた顔で腕を擦った。さっき男に掴まれていたところだ。

「…俺は3年の結城哲也だ。」
「…え?」
「怖くないぞ。」

さっきの男とは違うぞという事を伝えたくてそう名乗ると、花城はやっと俺の顔を見た。

「実は家が近所なんだ。それで、花城のことは知ってる。」
「……。」
「あの煉瓦の家の子だろう?よく朝のジョギングで近くを通る。」
「…そうなんですか」

少しずつ花城の身体から緊張が解けていくのが分かった。俺の素性がなんとなくつかめたからだろう。

「一緒に帰ろう。」
「え…。でも…」
「俺の家は橋向こうなんだ。花城の家は通り道だ。」
「……。」

行こう、と歩き出すと、花城は一歩後ろをついてきた。

「腕、大丈夫か?」
「え…?あ…。はい…」

花城は袖を捲って手首を見た。白く細い腕が、少し赤くなっている。だけど花城はそれを隠すように、袖を元に戻した。

「哲也!?」

突然名前が呼ばれたかと思ったら、豆腐屋からお袋が目を丸くして飛び出してきた。そして俺と花城をじろじろと見比べた。

「…さっき会って、危ないから送って行くところだ」
「……。」

お袋だ、と花城に言うと、花城は俺とお袋を見比べ、ぺこりとお袋に頭を下げた。

「…へぇ〜…。…あらまぁ…。」

驚いたまま固まっていたお袋は、だんだんとニヤニヤ口元を緩ませて、俺をからかうように見てきた。勘弁してほしい。

「あ!じゃあ私お邪魔しちゃうから…」
「…いいから帰ろう」

余計な気を遣おうとするお袋を引き留め、3人で歩き出した。

「もしかしてよく一緒に帰ってるの?」
「いや。初対面だ」
「あら、なんだ…。」
「さっき、男に腕を掴まれてて…」
「え!?」

そうなの!?と目を丸くするお袋に、花城は恐縮してお辞儀した。

「助けていただいて…」
「あら!いいのよそんなの!よかったわ大事にならなくて。怖かったでしょう。」

俺は何となく先を歩きだし、お袋は熱心に花城に話しかけながら後ろを歩いた。

「何か困ったことがあったら遠慮なくうちのを頼ってね。も〜図体がデカいのだけが取り柄なんだから〜」
「いえそんなこと…。」
「……。」

好き勝手言われている。まあどうでもいいか。

「あ、じゃあここで…。」

橋が見えてきたところで、花城は立ち止まった。

「ありがとうございました。」
「いいえぇ〜気を付けてね。」

帰っていく花城を見送って、俺とお袋も家に向かって歩き出したところで、お袋はからかうように俺を小突いた。



***



「ついに見たぞ!花城光!」

昼休み、純が興奮気味にやってきてそう言った。

「何を見たんだ?」
「だから花城光!!!」
「それでどうした?」
「アァ!?喧嘩売ってんのかテメェ!!」
「純、うるさいよ。」

笑う亮介の隣で、丹波はなんだかそわそわもじもじしている。何か言いたそうだ。

「さっき職員室の前にいたんだよ!マジで可愛いなあの子」
「俺見たことないんだよね。」
「ダッハッハ!羨ましいだろ!」
「いや別に。」

一回見たくらいで大袈裟、とあしらう亮介に、純が食って掛かろうとしたとき。
廊下の角を曲がって、花城がやって来た。
薄いブルーの宝石のような瞳が俺を見つけ、捉えた。吸い込まれそうなほど澄んだ綺麗な瞳。時が止まったように見惚れてしまう。

「…こんにちは。」

彼女の小さな唇が動き、その言葉を響かせた。

「こんにちは。」

頷くと、花城は少し微笑んで、そのまま歩いて行った。

「え…。」
「…ハァ!?おい哲ッ…今の…!!」
「何だ?」
「花城光と知り合いなのか!?」

気が付くと、純と亮介と丹波が驚いたような顔で俺を見ていた。

「家が近所だ。」
「…ハアァァァ!?オイ!!今までんなこと一度も言ってなかったじゃねーか!!どういうことだ!!」
「聞かれなかったからな。」
「今まで散ッ…々!!話してただろ!!!」
「そうだったか?」
「ダァ!!もういい!!」
「哲らしい。」
「……。」

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