085
窓辺の椅子で、朝焼けに白み始める空を眺めた。やっと朝か…
ベッドを見ると、無防備な顔ですやすやと眠る光。はだけた布団の下から、真っ白で滑らかな脚が覗いている。
俺はため息で胸の燻りを吐き出して、バスルームへ行ってシャワーを浴びた。顔を洗って少しさっぱりして部屋に戻ると、ドアの音で光が身じろいだ。
「……ん…」
光は目を擦って起き上り、俺を見て、枕もとの時計を見た。
「…光臣起きるの早いね…」
おはよう、と呟いて、小さな欠伸をこぼす光。乱れたパジャマ、乱れた髪、とろんとした眠たげな瞳。目の毒だ。
「…光希が起きる前に出かけたほうがいいんじゃないか。」
「あ!確かに。」
光は急に目が覚めたようにベッドを下りて、手櫛で髪を整えながらドアに駆け寄った。
「じゃあ光臣、ありがとね。」
そう言って手を振って、光はやっと自室に戻っていった。
…長い夜だった。
***
「光臣、テスト解き終わった後寝てただろ?」
今日のテスト科目が終わり、帰り支度をして教室を出て、友人にそうからかわれた。
「珍し〜。いつもは絶対自己採点してんのに。」
「自己採点は今回もした。寝るために急いで解いたんだよ」
「天才め…」
「でも本当珍しいな。寝不足?」
俺は昨日の夜のことを思い出した。隣に光がいるのに気にせず眠れるわけがない。バルコニーで風に当たったり、バスルームで本を読んだりして時間をつぶしたのだ。要するに完全なる徹夜だ。
「…まあな」
「ええ!?いつも絶対23時に寝る光臣が!?」
「家に帰って生活習慣が乱れたのか?」
「…光のせいで眠れなかったんだよ」
「え!?どういう意味!?」
ニヤニヤする友人を、違う、と睨みつけて黙らせる。
「あいつは馬鹿だから俺のことは全然そういうふうに見てない。」
「へぇ?」
「昨日は一緒に寝ようって言ってきて…」
そこまで言って、何を言ってるんだ俺は、と思いとどまった。寝不足のせいだ。だけど一度言った言葉は戻らない。見ると、友人たちは同情を顔いっぱいに浮かべて俺を見ていた。
「あ〜〜〜そりゃ…」
「気の毒だわ…」
「……うるさい」
***
「お願い!やめて!」
学校から帰ると、庭からイリスの鳴き声と、光の声が聞こえてきた。鞄も預けずに庭に入ると、いつも入り巣がいる小屋の前で、光と光希が言い争っていた。
「いいじゃんイリスも食べたいって言ってるでしょ!」
「体に悪いの!お医者様にもだめって…」
「まずいもの食べて長生きするより、美味しいもの食べて幸せに生きるほうがイリスも嬉しいでしょ!」
「そんな…」
「ほらそんなに欲しがってるじゃん。イリス可哀そう〜。ほら、意地悪な光なんて噛んじゃえイリス!」
「……。」
「イリスおいで!ほら!おいでって!…もう!ほんと馬鹿犬ね!おいでもわからないの!?」
「ひ…酷いこと言わないで…」
「はあ!?何!?私が悪いっていうの?」
ざくざくざく、と芝生を踏んで、二人に歩み寄ると、興奮して赤い顔の光希と、涙ぐんだ光が俺を見上げた。
一応血はつながっているのに全然似ていないな、とぼんやり思う。光は雪のように真っ白な肌に輝くような金髪。そして晴れ渡った空のように深く青い優しげな大きい瞳。バラ色の頬や唇は愛らしく、慈愛に満ちた神秘的な雰囲気を纏っている。
それに対し光希は、健康的な小麦色の肌に黒々としたカラスの濡れ羽色のような長い髪、いつも何かを睨んでいるような切れ長の黒い瞳にはっきりと動く大きな唇、意志が強く決して曲がらない頑固さが見ただけで伝わってくる。
「……。…散歩の時間だろ?」
イリスと光をこの場から立ち去らせるために思いついたことを咄嗟に言うと、光はイリスのリードを掴んで立ち上がった。
「…行ってくる」
「うん」
光はイリスを連れて並木道の方へ歩いて行った。光希は不機嫌をあらわにしながら屋敷へ戻っていった。
…もう少し急いで帰るべきだった。
***
散歩が終わった頃を見計らってイリスの小屋の前に行くと、光はちょうどイリスを小屋につないでいるところだった。散歩をしながら泣いたのか、少し目じりと鼻の頭が赤くなっている。静かに後ろに立った俺に気づいているように、光は立ち上がると、俺を振り向いた。
俺たちは無言のまま立っていた。やがて光はため息をつき、足元を見つめた。
「…明日はもう少し早く帰ってくる。今日も急いだつもりだったけど…」
そう言うと、光は俺を抱きしめた。
「…光臣がいなかったら…私、家出してる」
「……。」
ぎゅうっと胸が苦しくなる。光のたった一言だけで、それまで考えていたことがすべて消えて見えなくなってしまう。光は体を離すと、目じりを拭って、イリスの水を新しいものに変え、イリスを撫でていつものおやつを与えた。散歩の後にあげている、医者から推奨されて購入した栄養食だ。
イリスは元気だけどもういい齢だ。光が赤ん坊の頃に誕生日プレゼントとして光に与えられた。光と同じ年で、今年で17歳になる。
「イリスごめんね…。」
イリスは光に応えるように、クゥン、と鼻を鳴らして、おやつには見向きもせずに光の手を舐めた。本当に賢い犬だと思う。屋敷の人間には決して吠えないし、だからこそさっき、光希に吠えているイリスを見て驚いた。光が泣いているのを見て、主人がいじめられているとでも思ったんだろうか。…その通りだけど。
「…もう少し遅く帰ろうとも思ったんだけど、イリスも心配で」
「…うん」
「…早く…どこか行ってくれないかな…。」
どこでもいいから、と、光は縋るようにつぶやく。俺はただ黙って、その願いを聞いた。
***
夕食の時間も、光希は不機嫌だった。いつもそうだ。そうして不機嫌でいれば、誰かが希望を叶えてくれると思ってる。
光は居心地悪そうに食事を口に運び、ずっと俯いていた。
「あー、もう嫌!」
その静寂を破ったのは、光希の癇癪だった。
「私が久しぶりに帰ってきたのになんなのその態度!?」
「……。」
光はもう無理に笑う気力も残っておらず、泣きそうな顔で食べるのをやめた。
「帰ってこなきゃよかったと思ってるんでしょ。私なんかいなくなればいいと思ってるんでしょ!!」
「…そんなこと…」
「泣くなよ!!いつも泣けばいいと思ってる!!あんた私の気持ち考えたことあるの!?」
「……。」
「いいよねあんたは!お父さんもお母さんもあんたばっかり可愛がってさ!我儘で白栄辞めて行きたい高校行って勉強も楽して!!高校卒業したら光臣と結婚してこの家の財産全部手に入れるんだもんね!!」
「……。」
「イリスだってあんたが独占するせいで私には懐かないし!その髪と肌の色のおかげで周りからもちやほやされて!私はいっつもあんたと比べられて…!!」
「光希。」
光希の声が響き渡る食堂内で、俺の低い声は嫌にはっきりと響いた。それまで青ざめて狼狽えていた使用人も、人形のように動かなかった光も、怒りを振り乱した形相の光希も俺に注目した。
「父さんと叔父の決めたことに文句があるなら俺が聞く。それと関係なく光を侮辱するなら今すぐ口を閉じて部屋に戻れ。」
「…は!?」
光希は涙を流し、とんでもない悲劇のヒロインとでも思っているような悲壮に満ちた顔で大げさに食器をぶつけて立ち上がると、大きな音を立てながら食堂を出て行った。食事をつづける気にもなれず、静まり返った部屋でため息交じりに光を見ると、光も俺を見ていた。光ももう食欲などなくなってしまった様子で、俺は使用人に、もう下げて良い、と言った。光は何も言わなかった。
俺や使用人もいる前であそこまで光希が取り乱すなんて…まずいかもしれない。
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