092
「おかえりなさいませ光臣様。あの…」
来週に出も寮に戻ろうと思っていたところで、帰宅した俺に使用人がただ事ではない様子で駆け寄ってきた。
「旦那様がおいでです。書斎に来るようにと」
「…わかった」
旦那様、と呼ばれるのは光の父親だ。俺は鞄を預け、制服のまま書斎に向かった。
ずっと光に何の連絡もなく外国にいたのに、突然帰ってくるなんて…
父親に言いつけると捨て台詞を吐いて先日屋敷を去った光希のことを思い浮かべ、胸の奥がざわついた。
書斎に入ると、叔父と光が向かい合って立っていた。
「来たか。」
叔父がそう呟き、俺は光の隣に並んだ。
「光希から報告があった。」
それを聞いたとき、隣に立っている光が倒れてしまうんじゃないかと心配した。
「光、御幸一也とはもう会うな。」
「……。」
名前までバレてる…。隣の光の横顔を盗み見ると、光は青ざめていた。
光希は多分、御幸一也の素性までは知らない。告げ口を受けた叔父が個人的に調べたに違いない。
「今日、本人にも娘と会わないよう伝えた。」
「…え…?」
光は青ざめた顔で父親を見上げ、唇を震わせた。
「せ…先輩は悪くない。私が…」
「わかっている。もう会わないならこの件は不問にする」
「……。」
「光臣。」
俯いた光から視線を移す叔父の目は、どこまでも黒い。
「明日から帰りは光を迎えに行け。」
「え…!?でも…」
口を開いたのは光だった。俺はこうなることは予想していた。
「普通の高校生活とやらを送りたいというから婚約の件も伏せて花城家を知る者のいない学校へ行かせた。だが勝手が過ぎた。お前には婚約者がいて、誰も手を出してはならないということを周りに知らせる必要がある。」
「でも…!」
「もうお前の我儘は聞かん。いいかげんに大人になれ。」
光が言葉を失ったのを了承ととらえたように、叔父は俺を見た。
「いいな、光臣。まだしばらくは自宅から通うように、学校には私が伝えておく。」
「…はい。」
俺が頷くと、叔父は満足したように部屋の出口へ向かった。
「これからまた仕事で留守にする。もう問題を起こして私を煩わせるなよ。」
叔父が出て行き、少しして、窓の外から車のドアが閉まる音がした。窓に近寄って外を見ると、叔父が乗った車が屋敷の門を出て行くのが見えた。
振り向いてみた光は、何の感情もない表情で、佇んでいた。
***
「光。」
光は夕食にほとんど手を付けず、自室にこもった。夕食後に光の部屋を訪ねると、光はベッドに服のまま横になっていた。
「……。…あいつから何か連絡は?」
あいつは光を守るなんて大口を叩いていた。婚約の件も何とかすると。
だけど光はうつろな目で、小さく首を横に振った。
「…明日学校で会えるだろ。ちゃんと話して…」
「何を話すの?」
光は起き上がって、枕に背を持たれた。目は伏せたまま俺を見ない。
「…もう何日も会ってない」
「なぜだ?」
「……。」
光はバツが悪そうに沈黙した。何日も…って、俺が光を探しに行った日は一緒にいたはず。なら、そのあとから…?
「…好きなんだろ?あいつのこと」
あの日、あの男が光にしたことを思って、はらわたが煮えくり返っても、それで光が一時でも幸せだったならそれでいいと思った。結婚という檻に閉じ込めることしかできない俺は、少しでも光の希望が叶えばそれでいいと…好きな相手と愛し愛される喜びを知ることができたならいいと…
「…わからない」
光は呟いて、涙を一滴こぼした。
「もしかしたら…ただ、現実逃避したかっただけなのかも…」
好きな相手と恋をすることすらできない。その理不尽な悲しみに、そして父親への反抗心もあったかもしれない。そこへ、あの男との恋を重ねた?
…それならそれで、別れを悲しむ必要がなくなっただけのこと…
そう考えたとき、ふと、机の上に視線が留まった。料理の本や栄養学の本。それを勉強したノート。少なくとも光のあの努力は…あの男への献身は、本物だった。
好きでもない男にあそこまで必死になれるか?
「ごめんね光臣……」
光は膝を抱え、そこに顔を埋めた。
「光臣が嫌なわけじゃないのに」
…わかってる。それだけが救いだ。そう努めてきたことが、少しだけ報われた。
俺は光と結婚したら、光が幸せでいられるよう尽くすつもりだし、できる限りのことをするつもりだ。
だけど…あの傍若無人の姉と横暴な父がいるこの家から、光は一生逃れられなくなってしまう。そうしたら…光の心はいつか死んでしまう。
「別に…そんな風には思ってない。」
何でもしてあげたいのに…光が真に望むものは与えてやれない。
自由を…与えてやれない。
だけどきっと…必ず、俺は生涯、君のことを心から愛する。
どうかそれで許してくれ。
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