095
冬は瞬く間に過ぎて行った。
桜の花が散る並木道を眺めながら、俺は隣に座る光を見た。
光は視線に気づいて俺を見て、少し微笑んだ。
俺たちは先日高校を卒業した。
今日はついに、婚姻届を出しに行く。
「…光。」
「ん?」
「……。本当にいいのか?」
え?と、光の笑顔はぎこちなく固まった。
「何…それ?」
「車を停めて、逃げてもいいんだぞ。俺は追いかけない。」
「…え?」
「それとも一緒に逃げる?」
車の走行音、運転手の沈黙。そして光がスカートを握りしめたかすかな音がした。
「…何言ってるの?」
光はぎこちない笑顔のまま笑って、俯いた。しばらく口を噤んで、悲しそうな顔をした。
「…でも、ありがとう」
それきり、光は窓の外を見つめた。
車が右折し、駐車場に入る。区役所は混んでいて、駐車場もほとんどいっぱいだった。
「少し離れたところになりますが…」
「どこでもいい。」
申し訳なさそうにする運転手にそう言って、俺は提出する婚姻届けを入れた封筒を手にした。
「今ドアをお開けします。」
車を駐車し、運転手がドアを開けた。俺が先に降り、光が降りるのを手伝った。
「すぐ戻る。車で待っていてくれ」
俺の言葉に深く一礼する運転手。俺と光は区役所の入り口に向かった。
俯いて歩く光を見て、俺は封筒から婚姻届けを取り出した。光が気付き、俺の行動を何気なく見つめた。俺は婚姻届けを開き、また折りたたんで――真っ二つに破いた。
「……え!?何してるの!?」
光が立ち止まって声を上げた。俺は答えず、光の手を掴んでそのまま区役所に向かった。
「ちょ…ちょっと光臣…どうしたの?」
「入ってすぐの化粧室に行け。」
「え?」
「中に女性が一人いる。その人から服をもらって着替えて出てきたら、俺を見ないようにして、化粧室の前にいる青いジャケットの男と一緒に行け。」
「……。」
光は一瞬言葉を失い、また立ち止まろうとした。俺はそれに気づいて止まらぬよう手を引っ張った。
「だ…だめだよ光臣…」
「いいから。」
「…だめだよ!」
「いいって言ってるだろ!」
「なんで…」
「…幸せになれ。」
区役所に入り、化粧室の前に打ち合わせ通りの男が立っていることを確認する。
「…光臣も一緒に…」
さっきの車での会話を思い出したように光が言った。だけどあれは冗談だ。光の気持ちを確かめるための…。
「だめだ」
俺は首を振って、光と化粧室の方へ歩いて行った。
「もうカメラに映ってる。このまま化粧室へ行け」
「光臣……」
「止まると怪しい」
光の背中を押し、振り向く光に首を小さく振った。
「……。」
光は目に涙を浮かべて、俯いて化粧室に向かった。化粧室の前に立つ男がそれを見送り、俺にちらりと視線を向けて小さく頷く。俺は待合室の椅子に座った。光を待っているふりをして。
5分ほどで、光が出て来た。白いパーカーにスキニーパンツ、白いスニーカー。茶色い髪のウィッグに黒いキャップをかぶって、眼鏡もかけて。俺でも初めから知っていなければ光だと分からない。光は一瞬こちらに顔を向けたけど、男に何かを言われて、慌てて俯いた。そして男の腕に掴まって、俺のすぐ横を通って――二人は区役所を出て行った。
時間を空けて、中にいた女性が紙袋を持って出て行ったのを見て、それから10分ほど時間を空けて、俺は受付に向かった。
「すみません」
「整理番号を取ってお待ちください。」
受付の女は事務的にそう言って、発券機を手で示した。
「違うんです。婚約者が化粧室に入ったまま、出てこないんですが」
「え?」
「もう20分以上たちます。中を確認してもらえませんか?」
女はやっと立ち上がり、少々お待ちください、と言い残して化粧室に入って行った。それからすぐに出てきて、先ほどよりも深刻な顔で俺に向き合った。
「個室には誰もいません。本当にここに入られましたか?」
「間違いありません。僕はずっとそこに座って待ってたので」
「…電話はかけてみましたか?」
「婚約者は携帯を持ち歩いてないんです。」
「……。すみません、上の者に相談します。そちらでお待ちください」
俺は言われた通り椅子に腰かけた。
それからすぐに、区役所内が騒がしくなり始めた。
***
「…本当ですよ。区役所の前で言い争いになって、光が婚姻届けを破りました。結婚なんて絶対にしないとも言いました」
光が姿をくらませたことはすぐに騒ぎになり、今はイタリアにいるはずの叔父から電話がかかってきて、屋敷には警察が押し寄せた。俺は光がいなくなった時の状況を、刑事から何度も何度もしつこく聞かれた。
日本有数の資産家の一人娘が行方不明になったのだから当然だろう。これも想定内だ。だけど法改正で18歳以上が成人とされる今、光はもう成人。自分の意志で家を出て行ったのなら、父親と言えど連れ戻す権利はない。
「光さんは結婚を嫌がっていた?」
「嫌がってましたよ、ずっと。」
俺が頷くと、刑事は光ととくに仲が良かったメイドに目を移す。
「…光臣様とお嬢様は、とても仲がよろしかったですけれど…」
「他の使用人の方からも、おふたりは結婚を楽しみにしていたという話がありましたが。」
「でも…。その…。」
「光さんから何か聞いていたんですか?」
「いえ、その…。お嬢様には高校で恋人がいたと聞いたことが…。」
「……。」
「本当ですよ。僕も知っていました。」
刑事の目が窺うように俺を見て、俺はまったく気にした風もないよう装って頷いた。家が決めたとはいえ一応婚約者である俺が光の恋人の存在を全く意に介していないのが引っ掛かるのだろう。
「僕も光もお互いのことは兄妹のように思っていたので。光に恋人ができたときはよかったと思いましたし、光も僕に恋人を作るよう勧めていました。僕は特にいい出会いがなかったので恋人はできませんでしたが、光はいい人と出会って、余計に結婚が嫌になったんだと思います。」
「……。」
「お互いによく言ってました。家族同士で結婚するなんて変な感じだって」
「…そうですか。」
刑事は納得したようにうなずいた。これでいい。
どうせすぐに、光の居場所は明るみに出る。
そうすれば捜索も終わり、光の意志で家を出たことの裏付けが取れ、叔父は手を出せなくなる。
これでいい。
光のために。
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