あれから数日が経つが、ソーマはどこか上の空だ。
『ソーマ、合ってる?』
『…あ?あぁ…』
私が本の書き写しをした羊皮紙を見せると、頬杖をついていたソーマは我に返ったように目を瞬いて文字に目を通した。
『…あぁ、じゃあ、続けて。』
『まだやるの?それより会話の練習をしてほしいんだけど。』
『文句言うな。』
『だって、最近ソーマ上の空じゃん。あとこの前行けなかった、時空のゆがみの場所。今日は行けない?』
『あそこには行くな。』
『え、なんで?』
「捗ってるか〜?」
そこへやってきたリヒトを、ソーマが鬱陶しそうに見上げた。…と思ったら、目を細めて私を見た。
『ちょうどいいじゃねぇか、会話ならこいつと練習してろ。』
『え?ちょっと、ソーマ』
「バトンタッチな。」
「は?」
ぽん、とリヒトの肩に手を置いて、ソーマは図書室を出て行ってしまった。
「ソーマ…どうした、かな?」
まだ使いこなせない言葉を何とかひねり出す。うーん、と頭をかいてソーマが出て行ったドアを見つめるリヒトの様子を見るに、言葉は通じたようで安堵する。
「もともと難しい奴だしなぁ…。ま、ほっとけばいいさ。レイちゃん、俺と散歩にでも行かない?」
俺と、散歩。なんとなく聞き取れた単語を頭の中で整理して、うん、とうなずいた。
リヒトと図書室を出て、サラが趣味で育てている花が咲き誇る花壇のそばを歩く。この古いレンガが積まれた花壇は、ドレンが古い塀の崩れたレンガを拾って集めて作ったらしい。そこには今は、強いにおいを放つハーブ系の植物が花をつけている。サラは観賞用としてだけでなく、ここのハーブを料理にも使う。
「これはラベンダー。こっちはローズマリー。」
リヒトに植物の名前を教えてもらいながら歩いた。
「この花は俺の世界にも似たようなのがあったなぁ。俺の母さん、薬草師でさ。俺も少しは知識があるから、具合が悪いときは俺に言ってよ。」
「あ…ありがとう。…やくそうし、って?」
「あーえっと…植物で薬を作って、売ってたんだ。」
リヒトは私が聞き取りやすいように、ゆっくりと話してくれた。
「レイちゃんは前の世界では何をしてたんだ?」
「えっと…。仕事…。うーんと…」
「あ、さすがに難しいか…いいよ、また今度教えて。」
自分の仕事を説明できるほどまだ言葉を知らない。困り果てた私を安心させるように、リヒトは背中をポンポンと叩いてくれた。
「じゃあ恋人はいた?」
「こいびと?」
「そ、恋人!」
リヒトが無邪気な笑顔で、だけども真剣な目で私を見つめ、指を絡めて手をつないできた。リヒトの瞳は深いエメラルドグリーンの色。とてもきれいで吸い込まれそうで、彼の端正な顔の、いたずらっぽく笑う赤い唇も、そしてふわふわの赤毛も、彼の魅力を何倍にも増幅して見せている。
彼からの好意は何となく感じていた。ソーマとのやり取りの最中にも。だけど言葉をまだよく知らない私には、彼の言葉の半分も理解ができない。それをもどかしく思い距離を詰めようと身を乗り出してくる彼の気持ちも、痛いほどに伝わってきた。
「俺の恋人になってよ。」
「え、なに…?」
私をのぞき込む二つの目が細められ、長いまつげが影を落とす。
「わかんないかー。残念。」
だけどふっとリヒトがあきらめたように空を仰ぎ、私は彼の視線から解放された。
「ま、時間はたっぷりあるからね。」
「?」
リヒトはどこか上機嫌で、私と繋いだままの手を振り回した。
「何してんだ?」
と、そこへ響く聞きなれた声。
物置から出てきたソーマは釣り竿と木のバケツを持っていて、嫌そうに歪めた顔で私とリヒト、そして繋がれた手を見た。
「散歩してるだけだけど?」
リヒトが繋いだ手に力を込めて言った。ソーマの前で手を繋いでいるのはなんとなく恥ずかしく、外そうとしたけど、抵抗するようにまた握りこまれた。
「……。」
ちら、とソーマが私をまた睨んで、黙ったまま庭を出て行った。
ソーマが去っていくと、リヒトはようやく私の手を離し、呟いた。
「変な奴。」
「……。」
確かにソーマの様子はおかしい。だけど愛想がないのはいつものことだし、ただ機嫌が悪いだけかもしれない。
あまりしつこく聞くと、また怒られそうだし…。
「そうだ、レイちゃん。この前行けなかった時空のゆがみがある場所、今から俺と行かない?」
「ん?ええと…。あ、うーん、でも…。」
あそこはソーマが行くなと言っていたし、勝手に行っていいものか…。
「レイちゃん行きたがってたでしょ?」
「ソーマが、行くこと、ダメって。」
「ソーマが?」
リヒトは目を丸くし、不思議そうに首を傾げた。
「別にあの辺は魔物も少ないし、俺もいるから平気だよ。あの辺は野イチゴも多くて、よくサラの護衛でも行くし。全然危ない場所じゃないぜ?」
「うーん…。」
「時空のゆがみ、なんて仰々しいけど、実際は何の変哲もない…古い祠がある、小さい何かの遺跡だよ。」
「?」
「あ、えーと、何つったら伝わるかなぁ…」
首を傾げたまま考え込むリヒトを見上げていると、サクサクと芝を踏んで近づいてくる足音がした。
「あ、レイちゃんちょうどよかった。」
明るい声に振り向くと、水桶を腕に抱えたサラだった。
「キッチンにスープがあるから、温めてイネア様に運んでくれる?」
「わかりました。」
よろしくね、とサラは忙しそうに井戸のほうへ歩いていく。
「じゃ、イネアばーちゃんに食事を運んだら行こうぜ。」
リヒトも付き合ってくれるらしい。
私たちはキッチンへ行って、銅鍋の中身のスープを確認し、薪に火を熾してスープが煮え立つのを待つと、薪を散らして木の椀にスープをよそい、木のスプーンを添えてトレーに乗せた。
私が塔の階段を上り、リヒトが後をついてくる。イネアの部屋は2階だ。
コンコンコン、とノックをして、入りますね、と声をかける。
返事はいつもない。
ドアを開けると部屋は薄暗く、少しかび臭いその部屋に、私とリヒトは静かに足を踏み入れた。
「イネアさん。お食事、置くね。」
ベッドのサイドテーブルにトレーを置いた。イネアは少し皴の刻まれたほっそりとした顔を、いつも動かさない。まるで人形のように。
「ったく、こんな部屋にいたらカビが生えちまうぞー」
リヒトが言って窓に近づき、カーテンをめくってドアをあけ放った。部屋に柔らかい陽光が差し込み、さわやかな風がやさしく吹き込んだ。
「今日、お天気が、いいです。ね。」
イネアは何も映らない目でトレーの位置を見、細い腕で手繰り寄せるようにして、スープをゆっくりと口に含み始めた。
「じゃ、ばーちゃん。また食い終わった頃に来るから。」
リヒトは急かすように言って、私の腕をとって部屋を出た。
念のため、とリヒトはいつもの弓と矢筒を持ち、二人で森に入った。一抹の後ろめたさを感じつつ、楽しそうなリヒトについていく。
この前にも来た道に入り、けもの道を進むと、また、ピンと張りつめた音が耳鳴りのように響き始めた。
だけど前を歩くリヒトは何も気にした様子はない。私の気のせいなのか、それとも…。
この前のソーマの反応をいやでも思い出す。この音は、何かの警告なんだろうか。
音はどんどん大きくなっていく。
うるさいほどに。
——こっちへ…。
「えっ?」
不意に頭の中に声がはっきりと響いて、私は驚いて立ち止まった。
「ん?」
リヒトがぽかんとして振り返る。どうかしたのか、と彼の無垢なエメラルドグリーンの瞳が私を見る。
「あ…なんか、声…。聞いた?」
「声?」
リヒトは眉を顰め、ちょっと上を見上げて、少し笑みを浮かべた。
「ソーマと同じこと言うんだな。」
「ソーマと…?」
「ソーマもここに迷い込んで目が覚めて、初めてここを見に連れてきたとき…似たようなこと言っててさ」
話しながらリヒトは気にした様子もなく、また歩き始めた。
「誰かが呼んでる、って。それで祠の前まで行ったとき…あいつ、急に倒れちゃって。」
「えっ?」
「あ、元気だったし、すぐ目覚めたよ?俺が診たんだから間違いない。まあでも、レイちゃんも何か聞こえるんだったら、もし体調が悪くなったらすぐ言ってね。」
「……。」
「この祠にはもしかして何か不思議な力があって、人によってはそれを感じるのかも…なんてね。」
リヒトが立ち止まり、私に道を開けた。そこには、苔むして風化しかけた、小さな祠のようなものがあった。蔦や木の根が絡みつき、まるで森に飲み込まれそうになっているその祠は、わずかに扉が開いていた。
——こっちへ。光の子よ。
「!」
また声が聞こえた。これは…祠の中から…?
「レイちゃん?どうかした…」
リヒトの声が遠くなっていく。目の前が真っ白な光に飲み込まれていき、私はまぶしさに目を細めた。
…一瞬で、あたりは真っ白な空間になっていた。
私が立ち尽くす前には、ぼんやりと人影が形作られていき、やがて長髪の女性が姿を現した。
私はその女性を知っていた。
彼女の名は…。
「レックナート…?」
その名を口にすると、瞼を閉ざしたままのその女性は、ゆっくりと口を開いた。
「私を知っているのですね。光の子よ。」
レックナートの言葉は不思議な響きを持ち、日本語ではないのに、その意味まではっきりと理解できた。
「この地はこの世界の創世の地。この祠は、長く闇が眠っていた…いえ、封印されていた場所なのです。」
少しだけ扉の開いた祠の光景が蘇る。そして、ソーマに読まされた、あの創世の物語も。
「闇は孤独を悲しみ、この世界を生み出しました。しかし、そんな闇を、ずっと見守ってきた存在がいます。」
「え…?」
「…光です。」
レックナートの言葉に呼応するように、あたりがいっそう白くまばゆく輝き、その光は私の右手に集まっていく。
「それは光の紋章。闇とは対なる、聖なる慈愛の力です。闇の孤独の悲しみは果てしなく…自分が生み出したこの世界さえも、破滅に追いやろうとしています。どうかその力をもって、彼を救ってください…。」
音が反響して消えていく。
あたりに広がっていた白い空間も、だんだんと晴れる靄のように、かすれて見えなくなっていく。
「…い…。…おい!レイちゃん!大丈夫か!?」
気が付くと、私はリヒトの腕の中で、彼に揺さぶられていた。私が目を開けると、彼は安どしたように頬に笑みを浮かべた。
「よかった…!どこか痛いところは?おかしなところは?」
「あ、あの、大丈…夫」
心配しているらしい彼を押し返して、私は立ち上がった。そしてこっそり、右手の甲を見た。
見慣れないあざのような文様が、そこにあった。
「それは…?」
リヒトが手をのぞき込んできて、私はとっさに手を後ろに隠した。なんとなく、重要なもののような気がした。
「…まあ、大丈夫ならいいんだけど。でも、もう帰って休もう。」
「…うん。」
リヒトは私を気遣うように先に行かせた。
私は少し祠を振り返った。祠はただ静かに沈黙して、森に同化していた。