消えた老婆



塔に戻ってくると、釣りから帰ってきたらしいソーマが釣り道具を倉庫に片づけていた。
その彼の姿を見て、一瞬、目がかすんだように、ソーマの体に黒い靄がまとわりついているように見えて、ゾッと胸が冷えた。

「ソーマ!」

リヒトが駆け寄っていくとソーマが顔を上げ、私を見た。
立ち尽くす私を見て、ソーマの顔が一瞬、強張ったように見えた。

「なあソーマ、さっき…」
「リヒト!」

リヒトが先ほどの祠での話をしようとしているのだと思い、私はあわてて遮った。
リヒトはきょとんとして、だけどそれ以上の話は飲み込み、やっぱなんでもない、とソーマに言った。

「…なんなんだよ、ったく」

ソーマはいつも以上にいらだった様子で、私から目を逸らして塔に入っていった。たぶん、自分の部屋に向かったのだろう。

「ソーマと何かあったのか?」

心配そうに聞くリヒトに首を振る。

「ううん。私…イネアさん、食事のこと、かたづける。」

慌ててめちゃくちゃな文章のままそう言って、だけどきっと伝わっただろうとおざなりに、私はリヒトと別れて塔に入った。

冷えた回廊を上がり、イネアの部屋のドアをノックする。

「イネアさん。入ります。」

返事はいつもないので、私は一呼吸おいて、ドアを開けた。
だけどいつもイネアがいるベッドがからっぽで、驚いて視線を動かした先の窓辺に、彼女が立っていた。
イネアは身の回りのことは自分でできるが、部屋にいて窓辺で過ごしている彼女を見たのは初めてで驚いた。

「お食事…片づける、ですね。」

どうせ返事はないと思い、トレーを持ち上げたとき。
イネアがゆっくりと振り返り、私を見た。

「…光の子。」
「えっ?」

光の子。
さっき、レックナートもそう言っていた…。

「ようやく現れたのね。」

初めて聞くイネアの声は柔らかく優しく、静かに薄暗い部屋の中に響いた。

「これでやっと…私の役目は終わる」
「え…?」

イネアはゆっくりと歩み寄ってきて、私の前に立った。

「もう、異界からこの森へ迷い込む者はいません。」

森へ…迷い…込む、いない…。
断片的に理解した単語をつなぎ合わせ、その言葉の意味を導き出す。

「…ご武運を。」

イネアはゆっくりと、恭しく、私の前にひざまずいた。
そしてその体は、淡く光を放ち始め…。

ふっと、星屑のように消えてしまった。


——ガチャン!

驚きのあまり持っていたトレーを落としてしまった。だけどまだ状況を飲み込めず立ち尽くしていると、すぐに部屋のドアが開いた。

「レイちゃん?どうした?」

駆けつけてきたのはリヒトだった。リヒトは部屋の中を見渡し、私のそばにやってくる。

「ばーちゃんは?」

言いながら、私の足元に転がっている食器に気が付き、リヒトは屈んで拾い上げる。

「大丈夫か?やっぱりどこか、具合が悪いのか?ここは俺がやるから、部屋で休んでろよ。」
「う…うん、大丈夫…」

私はまだ呆然としながら、リヒトに今あったことを説明せねば、と思った。

「あの…。」
「ん?」

だけど言葉もおぼつかない私にうまく説明ができるだろうか。
自分もまだ、理解できていないというのに。

「イネアさん、が…。」
「ばーちゃんが?」
「き、きえ…た。」

私のつたない言語力で説明できるのはそれが精いっぱいで、ぽかんとするリヒトを縋るように見た。

「消えた?」

きょろ、と、リヒトは部屋の中をまた見渡す。

「どういうこと?」
「あの…。」

どうしよう。なんて言ったらいいのか。

「イネアさん、えっと…。光。」

両手を開いて広がるようなジェスチャーをする。

「で…ぱーっ、って…」
「……。」
「き、消えた。」

リヒトは目を瞬いて、眉を寄せた。

「よくわかんねーけど…ばーちゃんが光って消えた、ってこと?」

こくこくこく、私が力いっぱいうなずくと、リヒトはヘラッと笑う。

「んなわけあるか。うーん、ソーマに通訳してもらうか。」
「……。」

確かにそれが速いし確実だ。だけど、ソーマは…。
私は先ほど、ソーマの体に黒いもやがかかっていた光景を思い出す。
ソーマは何か隠している。

「行こう。」

リヒトは食器を拾い上げ、私を促して部屋を出た。

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